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長期休暇中はすることがない。
課題は出されているけれど大した量ではなく、美夜は課題を貰ったその日から取り掛かって既に済ませた。ハンターとしての仕事も済んだので、寮ですることも無く、理事長の好意に甘えて居住区で過ごすことにしている。
朝食を済ませてしばらくリビングでテレビを見ていたのだが、思い立って腰を上げた。理事長は仕事中で、零は課題を片付けると言っていたから部屋にいるだろう。
「……行くか」
学園に到着したのは昨日の夜遅くで、その日はそのまま眠りについた。長時間の移動で美夜を含む四人ともが疲れており、手早く入浴して自然と私室へ引き上げた。だが気になるのだ、優姫が。
朝食の時には不思議な程変わりなかったが、やはり気になる。混乱しているだろうからそっとしておいたほうが良いかとも思ったのだが、そろそろ行ってもいいだろう。
テレビを消してリビングを後にし、寮へと向かう。優姫はいるだろうがほぼ無人の寮は静かで、足音が嫌に響いた。
優姫と沙頼の部屋の前に立つと、一呼吸置いてからドアをノックする。一度目は応答が無かった。また少しの間を置いて二度目、ドアを軽く叩く。
「あ、はいっ」
「優姫?私です」
「美夜?いらっしゃい」
優姫がドアを開けてくれ、お邪魔しますと言って中に入る。ベッドに腰掛けた優姫の前に、椅子を持って来て座った。
「どうしたの?」
「……優姫、気にしてるだろうと思って」
「え……っと、うん」
隠すつもりはなかったのだろう、膝を抱えてベッドに座る優姫はこくりと頷いた。
「あまりにも普通じゃなくってさ」
「うん」
「思い出そうとすれば血の幻覚が見えるし、報告書は燃えるし」
「うん」
努めて明るい口調で話しているのが分かる。一度言葉を切った優姫は、膝をさらに抱いて小さくなった。自分の爪先を見つめて、躊躇いがちに口にする。
「そもそも私の記憶は……誰かに忘れさせられたんじゃないかって。……だから確かめたいの」
枢センパイに、と言った声は小さかったがしっかりと聞き取れ、美夜は僅かに目を剥いた。記憶の始まりが枢なのだから当然の推測だが、優姫自身から聞く事になるとは。
相当悩んだに違いない。慕って止まない枢に疑いを向けるのは、とてもとても辛いだろう。
「……そっか。休暇が終わって、聞けるといいね」
「うん。ありがとう、反対しないでくれて。……やっぱり駄目だな、私。いっつも美夜に助けられてる」
優姫が苦笑を向けてくるのに、微笑みを返して立ち上がった。
「気にしないで。私がやりたくてやってる事ばっかりなんだから」
感謝なんてしないで。私を利用しようと思ってくれればいいのに。でも無理なんだろうな、と優姫から視線を逸らして自嘲する。
優姫の隣に腰掛けると、自然と優姫が凭れかかってきた。美夜は肩に乗った優姫の頭を撫でてやりながら、一段と優しい口調を心掛けて言った。
「優姫の記憶がどんなものであっても、優姫は優姫だよ」
美夜の肩に埋めるように顔を伏せた優姫が、息を詰めたのが分かった。優姫は間を置いてから、弱々しく独り言のように呟いた。
「……私、怖いよ。私の過去って何なんだろう」
体を固く丸めた優姫から小さく嗚咽が聞こえた。美夜は体勢を変えて優姫を抱きしめると、揺れる背中をさすってやる。
優姫が記憶を取り戻す日がそう遠くはないと美夜は思っている。そして優姫が"自分"を思い出した時、それが彼女にのし掛かる事は明らかだ。こうして泣いている優姫に耐えられるのかと少し不安になった。
しかしきっと、優姫は耐えて乗り越えるのだろう。優姫が自分の足で立ち、力に抗う様子が容易に想像出来て、美夜は密かに自嘲を深めた。
美夜が優姫の部屋を出てすぐに、廊下を歩いて来る零を見つけた。彼も優姫が心配だったのだろう。
「優姫、泣き疲れて寝ちゃった」
「……そうか」
泣けたということは、いくらか感情を発散出来たということだ。零もそれを分かっているからか、安堵を滲ませて息を吐いた。
美夜は優姫が幻覚を気にして眠れないようなら傍にいるつもりだったが、今は大丈夫そうなので部屋に戻る所だった。
「部屋来る?何もないけど」
「……ああ」
女子寮まで来ているのだからと特に理由も無く誘ってみる。零も暇なのだろうか、美夜の提案に頷いた。
言っておいてなんだが本当に美夜の部屋には時間を潰せるようなものはなく、部屋に向かいながら考えてみたが世間話をする事くらいしか思い浮かばない。
「どうぞ」
一人部屋だがその分広さはない。美夜がベッドに腰掛けると、零が所在無げに視線を動かしたので椅子かベッドにと促す。
零は半人分開けて美夜の隣に腰を下ろした。美夜の座る部分も僅かに沈む。
「課題終わった?」
「ああ。楽勝」
「さすが」
「……美夜は暇そうだな」
「うん。優姫が気になるくらい」
前を向いたまま言うと、零は無言で美夜の頭に手を乗せた。ゆるい動きにされるがままになっていると、零が小さく笑う気配がした。
「理事長が、気晴らしに皆でどっか行くかって言ってたぞ」
「……私も?」
嫌な訳ではなく純粋に疑問に思った。優姫は理事長の義娘で、零は理事長に引き取られたようなものだが、自分は風紀委員というだけなのに旅行に付き合ってもいいのかと。今まで食事に混ぜてもらってはいたが旅行となれば少し話は違うだろう。
零は手を退けると、ああ、とあっさり肯定する。
「……理事長曰く、黒主家は二人の娘と一人の息子がいるそうだ」
後半は心底嫌そうな声音だった。美夜は自分の心配は無駄だったようだと苦笑する。改めて考えるまでもなく、自分は彼らに近い存在になっているのだ。
嬉しいと思う。だが駄目なのだ。自分の居場所はここではない。
「はは、そっか。ならご一緒しよ」
「当たり前だろ。ただ楽しめばいいんじゃねーの」
考え過ぎ、と呆れたように言われてしまった。それを曖昧に流すと、美夜はそのままポスリとベッドに上体を倒す。視界に入るものは天井だけになった。髪の結び目が後頭部に当たって少し痛い。
旅行、かあ。どこに行くんだろう。
「零」
「なんだ」
「……トランプタワーでも作る?」
「なぜ……」
自分で口走っておきながら理由は無い。この部屋で出来そうかと不意に思い付いたから言ってみただけだった。それは恐らく零も気付いていて、証拠に呆れの空気が増している。
そもそも、美夜はトランプさえ持っていないのだが。
部屋に誘ったことといい構ってもらいたい子供のようだと内心で突っ込む。零とは無言でも気まずくはならないけれど、何かしていないと気が緩んでしまいそうなのだ。
「別に作ってもいいけどな……美夜、優姫が心配なのは分かるが、もう少し危機感持ってくれ」
「危機感?」
美夜が半ば心ここに在らずで聞き返すと同時、ベッドが軋む。天井だけだった視界に零が映った。
美夜の上体に覆いかぶさるように顔の横で手を付いた零を、どうしたのかと見上げる。真っ直ぐに見下ろしてくる零は、少し責めるような口調だった。
「俺に襲われたらどうするんだよ」
言われた意味を理解するのに、そう時間はかからなかった。男と女が二人きり、確かによろしくはないのかもしれない。美夜は体勢に気恥ずかしくなりながらも、冷静を保って口の端を上げた。
「しないよ、零は」
「十分な理由はある……俺は男で、お前に惚れてるんだから」
「っでも、しないよ。零は優しいから」
断言すれば、零は少し驚いたような顔をしてから視線を美夜からずらした。美夜も何だか気まずさが増して視線を動かし、筋張った零の手を眺めた。
しかしすぐに雰囲気が変わった事に気付いた。貞操の危機だとは思わないが、ちらりと零を確認すると、浅紫の目に血色があった。
「……限界まで我慢しなくたっていいのに」
「っ……」
最後に彼が血を飲んだのはいつだったか、と思うと同時、いつも限界まで耐える彼に苦笑する。零自身が吸血鬼であることを厭う以上、仕方が無いのだろう。
肘を付いて体を起こそうとするが、それより早く零の顔が近付いた。ごめん、と切羽詰まった謝罪を聞きながら、起こしかけた体をベッドに戻す。
なるほど、私は本当に襲われてる訳だ、と心にもないことを思った。
首筋を舐め上げられる感覚に、顔に熱が集まり始める。首筋に顔を埋めた零が牙を突き立てると、美夜は無意識にピクリと体を反応させた。
鈍い痛みや熱を浅い呼吸で紛らわせる。零の喉の音がいつもより多く聞こえる気がした。だが抵抗せずに、多く持っていかれてる、と他人事のように思うだけ。
少しして牙が抜かれると、またピクリと体を動かす。呆とする頭で口元を血で染めた零を見る。零は眉間に深い皺を刻んで、口元を手の甲で拭っていた。
「……どうして、抵抗しなかった。下手すれば美夜死んでるぞ」
「だって、零の意識あったから。零は私を殺さないと思うし」
「!……ったく、お前は」
僅かに血色の残る零の目と赤に染まった口元は、何故だかとても色っぽく見えた。牙跡を押さえる気力もなくぼんやりとそう思っていると、零が再び美夜の首筋に口を付けた。
血が肌を伝うのを感じ、それを零の舌が追っている。くすぐったさに身を捩るが、零が腕をついているせいで逃げられない。
「ちょ……ぜろっ」
あまり動いても気分が悪いので、スリッパの中の足先をもぞもぞと動かす。血が止まったからか満足したからか、やっと顔を上げた零は、体勢を戻しながら呟いた。
「……美夜の考えていることはいつも分からないな」
その言葉にヒヤリとするのと同時、心を読まれなかった事にひどく安堵した。
「何か、見えた?」
念の為問うてみると、零は首を横に振る。
「見ようとした訳じゃない。……ただ思っただけだ」
体を起こした零の隣で倒れたままの――わざとではなく起きられないのだが――美夜は、そっか、と軽い調子で返した。深呼吸で顔に残った熱を冷ましていると、不意にスリッパを取り除かれた。
「零?」
「動くなよ」
どうやらベッドに寝かせてくれるようで、今度は横抱きにされる。使い慣れたベッドに横になり、枕に頭を埋める。ベッドの足元で畳んでいた掛け布団も掛けられた。
零がベッドに座り直したので、美夜からは背中しか見えない。
「……あ、洗面所使っていいからね」
「ああ、サンキュ」
シーツも後で洗濯しないとな、と考えながら髪ゴムを取って、掛け布団を口元まで引き寄せた。
零は礼を言ったものの、動く様子はない。美夜はその背中から不安を感じた気がした。様子がおかしいのは優姫だけではないようだ――と思ったが、彼の注意の対象が美夜自身でもあることを思い出す。
ああ、私がしっかりしていないせいか。私が優姫と零を守るのに、心配させてどうする。
「……零。私は大丈夫だからね?」
「死にかけたろ。俺のせいだけど」
吸血のことだけを言ったつもりはなかったのだが。美夜は零の背中に苦笑を向けてから、視線をシーツに落とした。
「それと……美夜は『大丈夫』しか言わないだろうが」
「事実だから」
「……気付いてないんだろ」
「?」
体をねじってこちらを見下ろす零が苦いような苦しいような表情を浮かべている。それは美夜の望んでいたものと真逆で、どうしてと零を見つめた。
「お前、一人になった時……時々、泣きそうな顔してる」
伸びてきた手が頭に触れる。髪を梳くように撫でられて、美夜は目を細めた。
やはり零に隠し事をするのは難しいようだ。気付いてくれて嬉しいと感じた気持ちは、すぐに少し厄介だなと思うに変えた。
最後の伏せカードを開くのはまだ早い。最後のその時まで守り通さなければ。
「……心配しすぎ。その心配は、優姫にあげて」
「優姫の事情とこれは別だ。……美夜はもう少し、俺を使え。美夜は被害者なんだから」
零の手が下りてきて首筋で止まる。咬み跡に優しく触れて、少しくすぐったかった。
『俺を使え』と言うのなら、自分をただの世話焼きとして利用すればいいものを。零も優姫も自分に対して優し過ぎて、自分の存在がとても惨めに感じてしまった。二人に対する自分の気持ちに、そんな綺麗さはきっとない。
そう思っていないと、出られなくなりそうだった。"ここ"の居心地が良いからこそ、自分が何の為に学園に来て、何の為に二人に優しく接したのかを常に意識していないと、出られなくなりそうなのだ。
優姫が好き。学園が好き。理事長も、夜間部の皆も、沙頼も好き。そして零が好き。でもそれらを壊すのが自分で、その為だけに学園に来たのだ。
頭の中がぐちゃぐちゃになる。李土の所にいたときはちゃんと整理が出来ていたのに、零はとても簡単に美夜の封じたものを暴くのだ。
ああもう、訳が分からない。なんて馬鹿な私。
零は厳しい顔のままだが、美夜は彼が満足するような答えを返せない。美夜は首筋にある零の手を取って握った。
「……私は、優姫や零に笑っててほしいだけだよ」
お願いだから、これ以上踏み込もうとしないで欲しい。暴かれたが最後、自分の世界がどうなってしまうか分からないから。
「……」
「そういう訳だから、そんな怖い顔しないで」
何とか笑顔を作って言うと、零は僅かに悲しそうな顔をした。
自分よりも柔らかい、だが刀を使うからか少しの硬さがある手が、血のついたままの自分の左手を弄ぶ。指を曲げてみたり、握ってみたりと、やっていることは可愛らしい。
美夜は手を動かしながら、何か思案しているような表情で、呆と宙を見ている。貧血も原因の一つだろうが、それだけではなく、何かもっと大きなものが隠れていると感じていた。
「っあ、ごめん。洗いに行けないね」
「別に。ガキみたいだな」
「う……」
隠れていることの追及を止めれば、美夜の空気が変わったのが分かる。隠されるのを許すなんて俺らしくないな、とも思うが。
美夜が弄んでいた零の手を放した。零はもったいなく思いながらも、腰を上げて洗面所を使った。血を流すと、美夜から使用許可の下りたタオルで拭く。
「……もう一枚使っていいタオルあるか」
「あ、うん。上から二番目の引き出しに」
さらのタオルを出して濡らし、適度に絞って美夜の所に戻った。美夜は口元まで覆っていた掛け布団を肩辺りまで下げていた。
枕元に腰掛け、解かれている長髪をよけて牙跡にタオルを当てた。
「え、自分で――」
「断る」
美夜の言葉をバッサリ切り捨てて、乾き始めた血を拭き取る。抵抗する体力も無いのだろう、美夜はすぐに大人しくなった。
初めて美夜を咬んだ時くらいの血を飲んだ。舞踏祭の前も精神的に追い詰められていて、歩けなくなるくらい血を奪ってしまったが、今は恐らく立つことも難しいだろう。
抵抗されないのをいいことに血を貪った、血に飢えた自分が許せない。だが同じくらいに、制止しなかった美夜に疑問と苛立ちを覚えた。
「……ありがとう。タオルはカゴに入れてていいよ」
「ああ、分かった」
「ついでにピルケース取ってもらってもいい?」
机に座るソラの隣に、深い赤をしたピルケースがあった。寝たままの美夜に渡すと、礼を言って早速食べ始める。吸血衝動のない美夜は視覚的な満足感を得る必要がないので、血液錠剤を水に溶かして飲むことはないらしい。
吸血鬼でない美夜が血液錠剤を食べ、吸血鬼である自分は美夜の血を奪う。上手く出来ているその関係に、零は眉を寄せた。
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