45
理事長、零、優姫、美夜の四人が昼食を済ませてのんびり過ごしていた時だった。
美夜がきょとんとして理事長の言葉を復唱した。
「"常夏の南の島"……?」
「イエス!旅行先は南の島にしようと思うんだ!」
両手を広げて宣言する。片付いたテーブルには、理事長が既に入念なチェックをした旅行雑誌やパンフレットが並んでいる。
この土地は、今の時期は毎日と言っていいほど雪が降り、だが暑い季節があるわけではない。旅行するなら暑い所が良いのでは、と理事長は前々から考えていた。
「いいんじゃない?!楽しそー」
「そうだろう義娘よ!二人は?」
「私賛成。良いと思います」
「……いいんじゃないですか」
三人からすんなり了承の返事があり、理事長は自分で提案しておきながら少し目を見開いた。だがすぐに笑顔を浮かべて、三人の"子供たち"にパンフレットを見せ、泊まる予定のホテルや観光地を紹介する。
優姫と美夜が反対するとは思っていない。優姫は賑やかなことが好きだし、旅行も好きだ。美夜は優姫が参加を決めればほぼ確実に同行を決めるだろう。
一番予想外だったのは零の反応だ。人の多い所自体好きではないだろうし、目的地が太陽の輝く常夏の島だ。夜型の彼に対する嫌がらせ――そのつもりはないが――のような旅行先である。渋い顔をされ、小言をうける覚悟はあった。
「美夜美夜!ホテルにプールあるんだって。泳ごうよっ」
「えっと……私、泳いだことないんだけど」
「ええ?!プールデビュー?」
「そうなるなあ」
明るく喋る美夜と優姫の後ろで、零が一人パンフレットに目を通している。
ちらりと窺うが、やはり不機嫌さは見えない。すると、理事長に気付いた零と目が合った。それはすぐに外されたけれど、漠然と彼の心境が分かった気がした。
零には早くから旅行の話を振っていた。旅行を決定したのを伝えたのも、零が最初だった。そういえばその時から零は反対意見を述べていなかった。
「はいはい、二人とも!ホテルばっかりじゃなくて、周辺の施設とかも見ててねー。海もあるんだし」
最近は色々なことがあって、この三人は悩んでいることが多かった。上手く隠せる子ばかりだが、察せてしまうものだ。そしてこの旅行は、理事長としては気晴らしになればいいと思っての事。
気分転換が必要だと思っているのは理事長だけではないようだ。
美夜と優姫を穏やかに見る零を見て、理事長は気付かれないように笑った。
*
地下高速鉄道で三時間、降りるとホテルまで直行のバスがあり一時間弱。そうして宿泊するホテルに到着したのはお昼で、容赦無く太陽が照りつける中、美夜らはホテルの前に立っていた。
「いい天気!暑いねー」
「うん、学園と正反対!」
空を仰いだ優姫に、美夜も同意する。雲一つなく晴れ渡った空、湿気の少ない暑さ。観光客も多くこのリゾートホテルが人気なこともあって、ホテルのドアが忙しなく動いていた。
浮かべる笑顔は清々しいものだ。普段悩んでいることや考えていることは、頭の隅においやっている。美夜だけでなく、優姫も零も理事長も同じだろう。
「行くよー二人ともー!」
「さっさと入るぞ」
理事長と零に急かされて、美夜は優姫と慌てて後に続いた。
ホテルのロビーに入った途端、よく効いた冷房の風が汗を冷やす。寒さの盛りである学園ではまずないことだ。美夜は頬に張り付いた髪をよけながら、荷物を持ち直した。
理事長がチェックインをしてくれている間、美夜たちはロビーのソファで待っていた。休みなく視線を動かす優姫の隣で、美夜は鞄を足元に置いて、刀ケースを抱えて座った。
「優姫、見すぎ。美夜を見習え」
「えっ。だって楽しみなんだもん!」
ねー!と満面の笑みで顔を覗き込まれ、美夜も笑顔で返す。
美夜だって見た目は落ち着いているが、旅行自体初めてなのだ。内心では常にそわそわしている。
色んな場所には行っているが、仕事ばかりなので観光をしたことはないのだ。
「美夜は色々初めてだしね!」
「うん。プールもだし、旅行自体もそうだし」
「美夜の知識って偏ってるよな……」
否定出来ずに苦笑する。それに気付いたのは、学園に入ってからだ。勉強の面で困った事は無いのだが、常識が時々欠けているらしい。
丁度その時理事長から声が掛かり、荷物を持って立ち上がる。大きなカートを持った従業員らしき人に皆が荷物を渡すのを見て、美夜も衣類の入った鞄を預けた。
ホテルには、楕円形をした浅いプールと、やや深めで五十メートルほどの長さのある長方形のプールがある。前者は子供、後者は大人が使用していた。それなりに値段のするリゾートホテルだからか、馬鹿騒ぎをするような客はいなかった。
午前は移動だけで終わったからか、昼になっても空腹感はさほどない。優姫は着替えを済ませて更衣室を出ると、輝くプールの水面に笑顔を浮かべた。
水着など滅多に使わないので、旅行の前に新しい物を買っていた。優姫はタンクトップビキニで露出度が低い。低いと言っても、暑い時期の無い学園での普段着を思えばかなり高い。
「あ、ゆっきぃいいい!!可愛いよっ!可愛いよゆっきー!」
「ちょ、理事……おとーさん!やめてよ恥ずかしいからっ」
興奮気味に写真を撮ってくる理事長から逃げるように、柱の陰に隠れる。理事長と呼ばなかったのは、こういう場では聞こえが悪いからだ。
理事長が零に殴られて正気を取り戻すと、優姫は溜め息を吐いて柱から出る。いいんじゃねえの、と零に言われて少し笑った。だが優姫は褒められた嬉しさよりも、美夜を見ての零の反応の方が楽しみだった。
笑顔のままで更衣室の中をのぞく。そして隅でうずくまるポニーテールを発見した。
「あれ。ちょっと何してるの?おいでよ」
「……恥ずかしい」
肩を叩くと、美夜は少し顔を赤くして視線を泳がせていた。顔を両手で覆って、うう、肌色が多い、と小さく唸る。優姫は初めて見る美夜の様子に笑ってしまいながら、その肩を叩いた。
もう、可愛いなあ。
「そりゃあ水着だからねー。はいはい行こう行こう遊ぼう遊ぼう」
「う、うん、行くけども。行くけども」
「あははは、なにそれ」
「恥ずかしいよこれ……。あ、優姫はすっごく可愛いよ!」
「ありがと。美夜もね、スタイルいいんだから」
パーカーを羽織っているくせに渋る美夜の腕を引っ張って立たせ、ぐいぐいと引っ張って更衣室を出る。先ほど理事長がいた場所には誰もおらず、少し離れたプールサイドのデッキチェアに二人を発見した。
「理事……おとーさん、零!お待たせー」
開き直ったのか大人しくついてくる美夜と一緒に歩み寄り、優姫はパーカーを脱ぐよう言った。分かりやすいくらいに美夜の表情が歪んだけれど、泳ぐんだよ、と言えば不承不承袖を抜いていた。
美夜の水着はスカート付のビキニ。これほど嫌がっているのに何故買っているのかと言えば、一緒に買いに行った優姫が全力で勧め、半ば無理矢理買わせたのだ。肌を出さないようにワンピース型を選びたがる美夜を必死で説得した。
本当に、零に褒めてほしいくらいである。
美夜は普段から鍛えているので――"影"の時に不具合が出るらしい――お腹は引き締まり、手足も無駄な肉が無い。そして色が白いので、贔屓目なく可愛らしかった。
「うん、美夜可愛い」
「あ、ありがと……。でも私よりも本当に優姫可愛いよ」
「ありがと。ね、美夜可愛いでしょ」
美夜の細い腕を引いて零の前に立たせると、優姫は自分の事のように自慢する。
零は美夜から視線を逸らして口元を手で覆う。美夜は美夜で、逃げはしないが――動けないのかもしれない――優姫の手をきゅっと握っていた。
優姫と理事長はだらしなく頬を緩めたまま、その二人を見る。
「……いいんじゃ、ねえの」
「ありがとう……」
優姫と同じ言葉をかけていたが、優姫にまで零の動揺が伝わった。美夜はほっとしたように礼を言ったが、状況に耐えられなくなってきたのか、段々と顔の赤みが増している。零も目元が赤くなっていて、口元を覆ったまま優姫をちらりと見る。
ナイスだ、優姫。でしょ、感謝してよ。そんなやりとりを視線で行う。
その時、カシャリと機械音が耳に入った。見ると予想通り、理事長がこちらにカメラを向けている。美夜が写真を嫌うのですぐには撮らなかったらしいが、我慢ならなかったのだろう。優姫は美夜の腕をとったまま、レンズに顔を向けた。
「理……おとーさん、撮って!」
「もちろんだよ!さあ三人並んで!」
「え、ちょっと待、私……!私抜けます、抜けます。ちょっと待ってください、優姫離してお願い」
「イヤー」
美夜が勢いよく拒否の言葉を口にして、おろおろと理事長と優姫を見る。優姫ががっちりと腕を掴んでいるので逃げるのを諦めたのか、反対の手で零の腕をとっていた。そのまま零の体を引き寄せて自分を隠そうとしている。
優姫はシャッター音を聞きながら一人ピースをしつつ、横目で美夜と零を窺う。零の後ろに隠れようとする美夜だが、すでに数枚写真には写っているだろう。美夜は零の後ろに落ち着くと、その背中に引っ付いていた。
「優姫、理事長が落ち着いたら教えて」
「あ、うん……」
写真のことで一杯一杯なのは分かるが、美夜がくっ付いているのは、美夜に好意を向けている男なのだと言うのを、優姫は頑張って堪えていた。
太陽が容赦なく照りつける下で、零は日陰に座ってただじっとしていた。目の前には海があり、浜には沢山のパラソルが立てられて賑わっている。
規則的に耳に届く波の音と、観光客の楽しげな声。時折観光客に注意を呼びかけるような放送もされる。ただでさえ暑さが鬱陶しいのに音があふれ、零は眠ることを諦めていた。
太陽の光が海に反射していて眩しいのだが、零は呆としながらも顔は海に向いていた。視線の先には美夜と優姫がいて、飽きずに遊んでいる。魚か何かいるらしく、時々潜っては興奮気味に顔を出す。
浜で肌を焼いたりせず、もちろん出会い目的でもなく、ゴーグルをして文字通り海で遊ぶ様子は見ていて飽きなかった。浜からは少し距離があるが、視力は良いので見失うことはない。
「……眼福かい?」
「黙れ」
つい先程まで美夜や優姫といた理事長が、気持ちの悪い笑みを浮かべてパラソルへ戻ってきた。ずっと彼女らを見ていたのを知っていたからこその言葉で、かつ、外れている訳でもなかったので、零は否定しなかった。
理事長はタオルで適当に海水を拭き取って、零の隣に座った。零が水の入ったペットボトル――ぬるい――を無言で渡すと、理事長は礼を言って受け取る。
「やっぱり海っていいよねえ。夏って感じでさ」
「……そうですね」
「全然楽しそうじゃないよ、錐生くん」
「夜行性ですから」
さらりと言うと、理事長が苦笑する気配がした。キラキラと白く光る海では、美夜の使っている大きい浮き輪に優姫が入ろうとしていた。
「錐生くんさ……吸血鬼であることを、今も嫌っているのかい?」
「……どうだろうな」
吸血鬼自体は相変わらず憎いし、自身を全く嫌っていないとは言わないが、段々と自分自身を憎むような気持ちは薄れていると自覚していた。そしてそれが、美夜のお陰であるとも分かっている。
ちらりと理事長を見ると、少し驚いたように零を見たが、すぐに微笑んだ。零自身とて自分を消そうとしたことがあるのだから、このような心境の変化は予想外だった。
「そっか。うん、良かったよ。自分を憎んだまま生きていくのは、苦しいからね」
二人で一つの浮き輪を使用するのはやはり動きにくいらしく、美夜が抜けた。そしておもむろに潜ると、何かを見つけたのか優姫を呼んでいる。優姫は浮き輪から抜けるとそれを美夜の頭からかぶせて、今度は優姫が潜った。美夜は浮き輪に掴まって海中を見ている。
「……理事長」
「なんだい?」
「美夜から……いや、やっぱいい」
彼女から何か聞いていることはないかと思ったのだが、自分が美夜に迫っても口を割らなかったのだ、自発的に理事長に話しているとは考えにくい。万一話していたとして、理事長が勝手に自分に伝えることもしないだろう。
海上に顔を出した優姫は、両手に黒いものを乗せていた。ナマコだろうか、ウミウシか、専門的な知識があるわけではないし遠目なので、零には分からない。
「いいの?気になるじゃん」
「忘れろ」
「酷いなあ」
「……嫌な予感がするだけだ」
優姫の手に乗った物体を美夜がつつく。少し指先で触れては引っ込めて、恐る恐るといった様子が微笑ましく、零は口の端を上げた。
「何かあったの?」
「変な顔するくせに、美夜は何も言わないから」
「はあ、美夜ちゃんらしいね……」
「優姫のこともあるから、余計にな」
黒い物体に慣れたのか、美夜は持ち上げて色んな角度から眺め始める。驚いている風は既になく、冷静に観察しているのが何だかおかしかった。
「……お昼にしようか」
理事長が言いながら立ち上がる。浜辺に建っている時計を見るとお昼を過ぎた所で、食事をしている観光客も多かった。零としてはあまり空腹は感じないが、ずっと海で遊んでいる美夜らはそういう訳でもないだろう。
「君も、あまり思いつめないでよ?折角の気分転換なんだからね」
「……ああ」
二人がこちらに気付いたのか、黒い物体を海に戻して手を振ってくる。腕を使って全力で手を振ってくる優姫と、顔の横でひらひら手を動かす美夜に、片手を上げて応えた。
理事長が大きく手招きをすると、美夜と優姫が浜に向かって泳ぎ始めた。
*
眠りに落ちていた美夜だったが、うめき声が耳に届いて意識を引き戻した。目に入るのは見慣れない壁紙や寝具だが、ホテルなのだとすぐに気付く。
常夏の島に到着して一日目はプールで遊び、一応泳げるようになった。二日目の今日は午前から海で遊び、夕方はホテルでのんびり過ごした。明日は島にある自然公園や水族館に行こうという事になっていて、早目に就寝したのだ。明後日の朝にここを発つ予定である。
海ではしゃぎすぎたのか、美夜はベッドに入ってすぐに眠った。優姫も大して変わらないと思うのだが、耳に届いたのは優姫の声で、どうやらうなされている様だった。
「優姫……?」
ベッドに体を起こして、隣のベッドをうかがう。美夜は髪をかき上げながらベッドから下りると、スリッパを履いて優姫のベッドに移動した。
「う……う、ああ……」
「優姫、優姫?」
眉間に皺を寄せてきつく目を閉じている優姫に、小声で呼びかける。美夜はベッドに腰掛けて、うなされている優姫の頭を撫でた。
自分の存在は吸血鬼や人間を引き付けるもので、吸血鬼に関してはその因子を落ち着けるような影響があると知っている。<レベル:U>の持つ、質の高い吸血鬼因子によるものだ。主であると錯覚するからこそ、主の怒りにつられるし、主の落ち着いた空気に癒される。
人間に対して吸血鬼と同じ精神的効果があるとは思えないけれど、今の優姫に対しては話が別である。
「……大丈夫だよ、優姫。私がいるから。大丈夫、怖くないよ」
ゆるゆると頭を撫でながら、何度も名前を呼んで大丈夫だと繰り返す。ほどなくして優姫の眉間の皺はなくなり、穏やかな寝息になった。美夜はほっと息を吐いて、だが優姫のベッドに腰掛けたままだった。
優姫が幻覚を見るということは聞いていた。記憶を思い出そうとすると、血の幻覚が見えると。今は寝ているが、うなされた原因はそれと無関係ではないだろうと直感していた。
「穴の無い術式であればあるほど、それが綻(ほころ)ぶ時の反動は大きくなる……か。流石、樹里さんだな」
昨晩は何もなかったはずだから、毎晩うなされる訳ではないのだろう。しかし学園にいる間も、時折こうして嫌な夢を見ていたのかもしれない。
学園に帰ってからも、夜に様子を見たほうがよさそうだ。これからうなされる日が増えるようであれば、優姫が体調を崩してしまうだろう。自分に出来ることはやらなければ。
座って壁を見つめたまま少しの間ぼうっとして、ゆっくりと腰を上げた。優姫を見ると起きた様子もなく、今の所静かに眠っている。
「……目、冴えた」
時計を見ると夜の十時半を指している。美夜は少し悩んで、鞄から私服を引っ張り出して着替えた。着ていた部屋着は外に出てもあまり気にならないものだが、このホテルはそれなりの格式があるので、何となく止めておくべきだと思った。
ホテルのラウンジはあと一時間ほど営業しているはずだった。
エレベーターで二階に下り、ピアノのBGMが流れるラウンジに入った。予想通り中々良い値段のメニューの中からハーブティーを頼み――リラックスする効果があるとか何とか――椅子に深く腰掛けた。この時間はバーを利用する人が多く、美夜は場違いだと自嘲する。
海に近いホテルなので昼間に海へ出ていた人も多いだろうが、その騒がしさはどこへやら、ラウンジは高級感溢れる落ち着いた雰囲気だった。
早速運ばれてきたハーブティーに口をつける。普段飲まないので少し不思議な味がした。リラックス効果が本当なのか分からないが、そう思えば眠気が増すような気がした。
「……美夜?」
カップから口を離して顔を上げると、驚いた顔をした零がいた。自分も似たような表情なのだろうけれど、零の予想外だと言わんばかりのそれがどこかおかしくて、うん、と頷いて小さく笑った。
二人がけのテーブルだったので、零に座るよう促す。迷い無くコーヒーを頼む彼に眠れるのか心配になった。だが夜に零がコーヒーを飲んでいるのは珍しくないことを思い出す。そもそも彼は夜の方が動きやすいだろうから、眠ろうという気持ちが薄いのかもしれない。
しかし、なんてリッチな高校生だろう。高級ホテルのラウンジとは。
「偶然だね」
「……昼間あれだけ遊んでたから、ぐっすりだと思ったが」
「なんか目が冴えちゃって」
カップをソーサーに置いて、背もたれに凭れる。
ブラックのコーヒーを飲む零を一瞥し、浜辺での憔悴した様子を思い起こす。自分達は遊び疲れたのだが、彼は別の意味で相当疲れているはずだった。
「零こそ、お昼つらかったでしょ?ごめんね、私ばっかり楽しんで」
旅行先が決まった時点で気付くべきだったのだが、零が反対していなかったこともあって、美夜がそれに気付いたのは出発の前日だった。
吸血鬼を夏の島に連れて行くなどどんな仕打ちだ。
「気にすんな。それなりには楽しんだ」
「え、ほんと?」
「……それに、美夜が楽しいなら俺はそれでいい」
そう言う零がこちらを見て柔らかく笑う。ただそれだけなのだが、顔が熱くなって視線を逸らした。カップを持ち上げ、インテリアライトを見つめてハーブティーを飲む。そんな美夜を見かねてか、零が少し笑ってから話題を変えた。
「[天守月影]、何で持ってきたんだ?」
「え、ああ……あんまり離れるの不安だから。持ってた方が何かと安心」
荷物になるので持って行くか置いて行くかは悩んだが、結局持って行くことにした。常夏の島で吸血鬼に出会うとは思っていないが、道中何があるか分からないし、寮に置いたままにして万が一にも誰かに触られると困る。
「零は?留守番?」
「いや、持ってる」
「ふふ、一緒」
また一口飲み、ハーブティーの水面を見つめる。不意に下りた沈黙に、カップに口を付けたまま視線だけを上げると、零も同じようにこちらを見ていた。ばちりと目が合って、どちらともなく小さく笑った。
「零さ、よく笑うようになったよね」
「……そうか?」
「うん。初めはかなりレアだったもん」
「そういえばそんなこと言ってたな、お前」
今でこそ、一日一回は笑って――零と初対面ならば気付きにくい程度も含む――いる彼だが、以前は一日一回目にすればいい方だった。ただ、美夜自身が零の表情の変化に敏感になったのも理由の一つだろう。
零は呆れたように言った。彼としてはよく笑っている自覚などないのだろう。
「それは知らないが……美夜がいたからだと思う」
「……私?」
「俺がこうなったのはな」
少し遠くを見るような目をした零は、独り言のように続けた。
「俺が……吸血鬼として目覚めた時とか、閑のことも……美夜がいたから、俺はこうして生きてるんだ」
美夜は僅かに目を剥いてすぐに伏せる。自分の作り笑いを見抜いてくれた零を守ると決めていたのだから、当然のことをしてきただけだ。それを後悔はしていない。
後悔するとすれば、もっと根本的なことだろう。
「……大袈裟だよ」
「事実だ。……美夜の世話になってばっかりで格好つかないな、俺は」
零が自嘲気味に言って息を吐く。つられて苦笑した美夜は、ほとんど中身の無くなっているカップを膝に置いた。ぬるいそれを両手で包むように持ちながら、重くなってきた瞼を上げる。
「私のことは気にしないでいいんだよ。私は、零を失いたくなかっただけで」
「それでも……ありがと、な」
美夜は今度こそ目を剥いた。零が何事もなかったようにコーヒーを飲んでいるものだから幻聴かと思ってしまった。
改まって言われた自分はむず痒いのに、言った本人はすまし顔である。
全く、彼は、どこまでも私を乱そうとするんだから。
密かに自嘲を零してぬるいハーブティーを飲みきる。空になったカップをソーサーに戻し、椅子に背を預けた。
そのとき、ラウンジに流れるピアノのBGMが変わり、美夜は首を傾けてインテリアライトを眺めた。
「この曲、なんだっけ。聞いたことある」
「……映画じゃないか?コマーシャルで」
「あ、それだ」
以前話題になっていた映画の曲だ。タイトルも覚えておらず特に興味も無いのだが、クラスメイトが見に行きたいと言い合っていた時期があったので、頭に残っていたようだ。黒主学園は基本的に外出に制限があり、映画を見に行きたいからと気軽に外出出来ないのだ。生活用品の調達のついで――建前でも――ならば話は別だろうが。
内容は全体的に明るいものではなく、最後もハッピーエンドとはいえないものらしい。優姫から何気なくあらすじを聞いていたのだが、どのような話だっただろうか。
「……そうそう、確かヒロインの彼氏が病気で亡くなる話」
「へえ」
零も興味はなさそうだけれど、一応相槌は打ってくれた。あらすじが思い出せてすっきりとしてきた美夜は、零の反応に甘えて続ける。
「ヒロインはそれを知らなくて……その彼氏は入院することも仕事だって言ってて」
二人は自他共に認める仲睦まじいカップルで、彼氏は入院する日の前日も彼女とデートをしていたのだ。彼女が彼氏の入院や病気を知ったのは彼氏が亡くなってからで、言わなかった彼氏に憤りながらも、その優しさを理解して、立ち直ろうとする話。
「全てを打ち明けて"その時"までを共に過ごすか。ただ楽しい思い出を残して欲しいから、ひたすら隠して静かに死ぬか……彼氏も相当悩んだらしいけど」
「ふうん……そいつは後者だったんだな」
「うん。死ぬことが分かってるけど、早い内に彼女と距離を取ることはしたくなかったんだって」
美夜は言いながら、はっとして視線を落とした。今の自分は、その彼氏が最も避けようとしていた状況にあるのだ。別れることが分かっているからこそ、これ以上は近付かないように細心の注意を払う。相手も自分も傷つける最低の方法だ。
相手の事を思うなら、全てを打ち明けるのが最善ではないか、と漠然と思う。しかし打ち明けることはどうあっても出来ない。ならば最後の時まで共に過ごす方が良策なのだろうか。そこまで不意に思考が及んで、美夜は一度目を閉じた。
自分の状況は、恋愛映画と比較するべきことではない。どの選択をしても最終的に相手を傷つけるのは変わらない――むしろ思い切り傷つけて憎まれた方がいいのだし、自分が傷付くことは厭わないのだから、選択肢など無いのと同じなのだ。
「美夜?」
「っうん?」
「……戻るか」
いつの間にか零のカップも空になっており、美夜は頷いた。ハーブティーの効果か、睡魔は傍まで迫っている。
優姫に気を付けるつもりではあるが、この調子なら眠れそうだ。
「……見たかったのか、その映画」
「ううん、そういう訳じゃないよ」
立ち上がった零に問われ、美夜は思わず苦笑して首を左右に振った。美夜も立ち上がって二人でラウンジを出ると、零がおもむろに頭に手を乗せてくる。
美夜はされるがままに軽く撫でられ、だが零を見上げることはしなかった。
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