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零が月の寮のロビーに足を踏み入れると、間を置かずに暁と星煉が現れた。
刺さるような敵意を無視して立っていると、予想通り、程なくして枢が現れる。枢は二人を下がらせると、零に向かってため息をつく。
「嫌な気配がすると思えば、君か……吸血鬼の親玉の部屋に入るのが嫌でないなら、どうぞ?」
そう言って私室を示すので、零は無言でそちらへ向かった。普通科の寮とは桁違いな作りの枢の部屋に入ると、零は後ろ手でドアを閉めながら問いかけた。
何かを察していた美夜の顔がちらつくので穏便に済ませようと思うのだが、極力口を利きたくないくらいに嫌っている相手だ、何事もなく済ませるのはとても難しい。今の時点で苛立ちを抑えるのは限界だった。
「……あんたは、優姫が何を聞きたがっているのか分かってるんだろ。何故答えてやらない?」
「……」
「答えられないならその理由は?」
言いながら、枢の機嫌が最悪であることは分かった。いつでも[血薔薇の銃]を抜けるように気を配りつつ、テーブルの横で立ち止まっている背中に続けた。
「……あんたは、優姫の不安を取り除いてやる気はないのか……?」
「何も知らない君に、とやかく言われたくはないな……」
向けられた枢の視線に籠る殺意に、零はポケットに突っ込んでいた手を動かした。
ほんの一瞬で体が浮き、壁に叩きつけられる。派手な音と痛みに、瞬間的に目の前に来た枢を睨んで、銃口を向けた。零の首を絞める枢の手には遠慮がなかった。
衝撃で抉れた壁から破片が散らばる。涼しげな、だか苛立ちを隠さない顔で首を絞めてくる枢には、優等生の面影などない。零は苦しさを表情に出すことなく、銃爪に指をかけていた。
「……殺れよ。その隙になら、あんたを多分撃てる」
「君ときたら……吸血鬼は本能で<純血種>を畏れ敬うものなのに、僕に平気で牙をむくなんて――」
零の言い方が気に食わなかったのか、壁に押し付ける力が強くなる。それに比例して強くなる殺気に、零は銃爪に力をこめた。
「――本当に大嫌いだよ」
言うが早いか、零の体は壁を突き破って背中から何かにぶつかった。壁のコンクリートが一際大きな音を立てて転がる。どこかに残る冷静な部分が、目に入ったタイルからバスルームだと判断していた。
バスタブに凭れるように――正確には枢に押し付けられている――して座る零の首は、まだ枢の手によって締められている。見下ろしてくる枢の額には、銃弾がかすったせいで血が滲んでいた。
「何度ひと思いに殺してしまおうと思ったか……けれどあっさり楽になられては釈然としないだろう?」
「<純血種>は皆ねちっこい奴ばかりなのかよ」
「本気で仕留める気のない奴に言われたくないね」
「うっかりあんたを殺してしまえば、二人が悲しむ」
枢の血が零の頬へ数滴落ちる。<純血種>の濃い血の匂いに顔をしかめ、それが枢のものだと思うと不愉快極まりなかった。
「血に反応しないのは、閑さんの血を手に入れたからかな」
「かもな」
「君はどこまで美夜の世話になるつもりなんだか。……時々、彼女の首に牙跡があるけど」
枢が手に力入れ、横へと勢いよく払う。鋭い爪が零の首を切り付け、血がバスルームに飛び散った。焼けるような痛みに奥歯を噛んで手で押さえる。
枢は手についた零の血を少し舐めると、変わらぬ調子で口を開いた。
「美夜に助けてもらってばかりで……そんなことで、果たして優姫を守れるのかな。前にも言ったよね……"盾"の役目を美夜に譲るなら、君は用済みだと」
零は銃口を枢の腕に向けなおすと、溜め息を交えて口を開く。
吸血鬼の己はこの程度で死なないけれど、出血が多く傷がすぐに塞がらない。この後に飢えが襲い来るのだと予想出来、目の前の男の頭を本気で撃ちたくなった。
「……先にその手を撃ち抜けばよかった」
「やるなら今のうちだね。激しい飢えに耐えられなくなる前に」
他人事のように言ってのける枢は、不意に屈むと眉間に深い皺を刻む零に囁いた。
「聞け、零……このまま僕の血を喰らうがいい」
「……冗談だろ」
「冗談なもんか。僕に流れる玖蘭の純血が、君に力を与えるだろう」
言っている意味が分からない。どうしてこの男の血を飲まなければならないのか。
飢えに苦しむのは理解しているし、それがどれほど耐え難いものかも分かっている。飢えに耐えるか枢の血を飲むかは、零にとって究極の二択だった。
ただ、飢えに耐えても結局は美夜の血が必要になってしまうだろう。彼女を傷つけたくはなかった。傷つけてしまうくらいなら、この男の血を飲む方が断然いい。
「閑さんの血で完全な吸血鬼になり、美夜の特殊な血があるとはいっても……まだ強くなってもらう。君には、優姫の役に立ってもらわないといけない」
「相変わらず、決めつけだな……」
「君は、優姫を裏切れない。それだけの恩があるはずだから。美夜の存在は心強いけれど、僕としては彼女を"盾"にするのは惜しいし……ここまで君を生かしたんだ、ちゃんと働いてもらいたい」
「……」
「君が優姫の"盾"になることは、美夜を守ることにもつながる。違うかい?」
枢の言っていることは間違っていない。零は優姫に恩があるし、裏切ることは決してないだろう。また美夜を守りたいと思うのも本心で、自分が動かないせいで彼女が危ない目に遭うのは真っ平御免だ。
零は傷を押さえていた手を離し、目の前の黒いシャツを掴む。声を出そうとすると、喉が酷く傷んだ。
「俺は……美夜にも優姫にも、笑っていて欲しいだけだ」
「……僕もだよ」
「美夜が犠牲を払う必要なんてどこにもない」
「その通りだね」
シャツを引き寄せて、枢の首筋に牙を立てる。不名誉で不愉快すぎる行為に眉間の皺が直ることはないが、もう枢の血を飲むことに躊躇いはなくなっていた。
「……この血が誰に捧げられたものか、決して忘れるな、零」
あまりにも濃い血を飲み下しながら、枢がそう呟いたのを聞いた。わざわざ言われなくとも、そんなことは自分が一番よく分かっていた。
あまり長い時間は経っていないと思うのだが、玖蘭の純血が体に溶け込んでいくのは予想を遥かに上回って気持ち悪かった。
正気を取り戻して視界に入ったのは、半壊したバスルームと、椅子に座ってこちらを見る枢だった。
「君の銃弾にかすめられたところ、まだ痛いな。これだから対吸血鬼用の武器は嫌いなんだ……お陰でなかなか君の咬み跡が塞がらない」
<純血種>さえ滅ぼす武器なのだから当然だろう、と内心で毒づく。額と首から血を流す枢を睨み、零は自分の腕を壁に叩きつけた。
重い音がして壁が抉れる。今更、部屋を壊すことに罪悪感などなかった。
体の内側からの気持ち悪さを痛みで紛らわそうとするが、そう簡単ではない。上がった息もすぐには治まらず、何度も深く息をした。壁を支えにして立ち上がりながら、袖で口元を拭う。
「ムカつくのはこっちだ……我慢しろ、そのくらい」
「やっと正気に戻ってくれたね。僕の血が君の中に溶け込んでいくのがそんなに気持ち悪かった?暴れて大変だったよ」
「……あんたも一度味わってみればいいんだ。自分の血が、どれほどの毒か」
「玖蘭の直系は、吸血鬼始祖の血が濃いらしいからね……」
壁に手をつきながら枢の横を通って、壁の穴からバスルームを出る。
自分の血と枢の血の匂いが充満していて気持ちが悪かった。その枢の血が未だ体内で動いているような、そんな感覚がして吐き気がした。
枢は座って前を見た体勢のまま、独り言のように言う。
「この騒ぎと僕の血の匂いで寮中がざわついている。窓から帰るのを勧めるよ、バレるのは時間の問題だろうけど……覚悟の上なんだろう?」
「……」
「ああ、それと」
枢が殺気を和らげたのを感じる。視線だけで枢を見ると、枢は遠くの何かに話しかけているように見えた。
「僕が優姫の"知りたい事"に答えないのは、それが優姫のためだからだよ」
零は自分の制服に染みついた赤を一瞥して、部屋の窓に手をかけた。
入浴を終えて就寝の準備を整えていた美夜は、机に刀ケースを置いて[天守月影]を取り出した。
深夜に優姫の部屋を訪れて――忍び込む、とも言う――ベッド横に小さくなって夜を明かすのは日課となっている。優姫が寝静まった頃に窓から入室し、優姫が起きる前に窓から退室するのだ。
休暇中、優姫がうなされることはそう多くなかった。だから美夜も快適でないとはいえ、睡眠はしっかりとれていた。
今夜からは沙頼も部屋にいるだろう。沙頼は恐らく優姫よりも起床が早いので、それよりも前に起きなければならない。もし起きられなくても気付かれることはないので大丈夫なのだが、やはり無断で部屋に入り、息を潜めるのは気が引ける。
「……なに、これ……?」
"影"の状態になって、すぐに異変に気が付いた。窓を開けてさらに表情を険しくすると、慌てて帯刀ベルトを装着し始める。ただ優姫の部屋に行くだけならば必要ないのだが、風に乗った薫りは、零と枢の血の匂いだった。
優姫のことがあった後だ。零が枢の所へ乗り込んだのだろうか。そして戦闘になった可能性もある。
「もう、なんで……っ」
普通に考えれば勝つのは枢で、だが枢がこの段階で零を殺すなんてことはしないだろう。ならば何故血の匂いがするのだろうか。吸血鬼に近い状態の今、妙に体がざわついた。
美夜は手早く刀を装備して靴を履くと、下ろしたままの髪をなびかせながら窓から飛び降りた。
普通の人間はもちろん、ハンターも反応出来ないであろう血の匂い。美夜はそれを辿りながら走り、程なくして零を視界に入れた。
「ぜ――!」
白いはずのワイシャツが赤い。首や手にも赤がこびりついている。そして何より雰囲気が変わっていた。ただの吸血鬼ではない、恐ろしさを感じさせるものだ。丁度、<純血種>が纏っているような空気。
零がこちらに気付いて目を見開く。美夜は足を一度止めてしまったが、眉を寄せて零に走り寄った。
零の服に染み込んでいるのは、ほとんどが零自身の血であるようだった。
「零、それ……!」
「っお前、何でこんなとこに」
「[月影]の手入れしてたら、血の匂いがしたから……っ。傷は?」
血痕の多い首回りをぺたぺた触って傷を確認しようとするが、傷は残っていなかった。治癒し終わっているのは良かったと安堵する。
しかしこれだけの出血量なのだ、何者かの血を飲まない限り、こんな短時間では傷は塞がらない。
美夜がはっとして零を見上げると、零は気まずそうに顔を背ける。その反応と枢の血臭、そしてざわめく自分から、まさかと思って血塗れたシャツを握った。
「零、もしかして枢さんの……」
「……ああ」
手ぇ汚れる、と零が美夜の手をシャツから外す。力なく従った美夜は視線を落として深く呼吸しながら、両手で零の手を握った。
血が付くことに抵抗はなく、自分の因子を落ち着けることに集中した。連動して零の中のそれも収まるはずなのだ。
<純血種>の血はとても濃い。枢はその中でもより濃いのだ、零の負担は大きいだろう。ざわつくそれを、少しでも落ち着けてやりたかった。
零の手を握る自分の手が、震えていることに気付いた。誤魔化そうと強めに握るが、収まりそうにない。気をつけていないと倒れそうなくらい、零が枢の血を飲んだという事実はかなりの衝撃だった。
「美夜……?何してる」
「<レベル:U>効果」
数回深く呼吸をして自分が落ち着いてくると、零の中のものも鎮まってくるのを感じた。こんなものかと視線を上げて、頭を整理しながら言葉を選んで口を開く。
握ったままの零の大きな手は、どうにも離せなかった。
「何、ケンカしたの……?」
「……そんなとこだ」
零単身で乗り込めば私闘になるのは想像に難くないのに、どうして一人で行ってしまったのだろう。自分が校舎での様子を察して、零を一人にしなければこんな怪我はさせなかったのに。
「……枢さんの血、飲んだでしょ」
「……ああ」
「これだけ出血してたら、すぐに傷が治らなかったでしょ」
「ああ」
「枢さんも容赦ないけど、だからって何で枢さんの血を飲むことになるの……」
それってケンカなの、なんの取引なの、と呟きながら俯いた。枢の血を取り込むことで傷も治っただろうし、能力の面での上昇もあるだろう。だが恐らく零は知らないのだ、<純血種>の血は取り込んでからいくら月日が経っても、手懐ける事が不可能であることを。
<純血種>の血の主は、血がどこにあっても<純血種>自身である。だから枢の血を飲んだことは零にとってプラスばかりではない。むしろ美夜から見ればマイナスだ。
「血が欲しいなら呼んでくれていいのに……何で毒を飼うことにしたの」
「……美夜」
「もう……零の血の匂いがして、びっくりしたんだから」
「ごめん、心配かけたな」
地面を見つめたままでいると、握っていた手が抜かれて抱き締められる。力が入らなくなっていて、抵抗せずに零の肩に頭を預けた。いつもの零の匂いだけでなく、濃い血の匂いがした。
行き場の無くなった手は自分の制服の裾を握っている。零に伸ばすのを自重するだけの意識はあった。
手を零に伸ばしていないくせに、思わず零に顔をすり寄せていた。
「あいつと少しあったのは本当だが、血を飲むことは俺が選んだ。……美夜が気に病むことじゃない、俺を怒って責めればいい」
「怒ってないよ……ただ私がついて行っていたら、そんなことにもならなかったもの」
「だから気にするなって。これは俺が選んだことだ。な?」
背中で零の手が弾む。曖昧に返事をすると、零は回した腕の力を少しだけ強くしていた。
「あいつのせいでも美夜のせいでもない。……俺が優姫や美夜を守れるだけの力が欲しかったから」
美夜は、自分の思考が完全にネガティブに陥っているという自覚があった。
零に怪我を負わせ、<純血種>の血が入るのを許してしまった。様子がおかしいとは気づいていたのに、だ。
「……私は並べなくていいよ」
「断る」
「私結構強いし」
「好きな女を守るのは、男の仕事なんだよ」
「っそういう言い方……ずるいな」
目の奥が熱くなってきたのを堪えると、少し声が震えてしまった。
服の裾を掴んでいた手を握り、自分の手に爪を立てる。零の無事やかけられた言葉に、安心して緩んでしまいそうな気持ちを引き締め直しつつも、抱擁への抵抗は一切出来ない。
いずれ彼に刃を向けるのは自分なのに、零が枢に殺されてしまえば良かったなんて、微塵も思えなかった。
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