03
理事長の私的居住区についた美夜は、取り敢えずと通された部屋のソファに座っていた。零は理事長の所へ行き、優姫は救急箱を取りに行っている。
零の上着は肩に引っかけたまま、巻いていた上着を取る。血が染み付いてしまったそれを見て、もう使えないかと溜息を吐いた。傷口からの血は止まって居るが、明日からの入浴が思いやられる。
「美夜、救急箱持って来たよ」
「あ、ありがとう優姫」
英から優姫を庇っていた時には、優姫からは美夜の怪我の状態が確認出来ていなかったらしく、彼女は傷を見て眉を下げた。左隣に座った優姫に、大丈夫だよ、と言ってみるも表情は晴れない。
「優姫のせいじゃないんだから」
「うん……」
「大丈夫だってば。それより、消毒しておいていいかな?」
優姫ははっとして、膝に乗せた救急箱から、ピンセットと脱脂綿と消毒液を取り出した。手当することにあまり慣れていないのか、美夜に気を遣い過ぎているのか、あ、えっと、と言うばかりで手当てが始まらない。
「ふふ、いいよ、出来るから」
右手で優姫の頭をわしゃわしゃと混ぜ、非難の声を笑って流して消毒液だけを受け取った。
先程取った汚れた上着を自分の膝に置き、その上にくるように左腕を曲げる。髪を直した優姫が、ピンセットと脱脂綿は要らないのかと首を傾げているのを感じながら、消毒液を直接傷口にダバダバとかけた。
消毒液で傷口を洗い流すようにかけ、流れた血と消毒液は上着に吸わせる。痛みはあるものの黙って処置していたのだが、優姫がさらに辛そうに俯いてしまったので、わざと明るい声で、あー痛い、しみる、と呟きながら傷全体に消毒液をかけた。
「はい、ありがと優姫」
「……荒くない?」
「うん?でも早いでしょ」
消毒液を優姫に返して、上着で余分な液を拭き取った。ガーゼを傷口に当てて、片手で器用に包帯を巻きつける。
「よし、完了」
ね、と優姫に左腕を見せると、顔が引きつっていた。
「理事長と零、もうすぐ来ると思うけど……救急箱置いて来るね」
「うん。あ、これ捨ててもらってもいいかな」
美夜は上着の血がついた所を内側にして丸め、快く頷いてくれた優姫に渡した。部屋を出て行く優姫の背を見送って、肩に掛けられた上着に腕を通してみる。
「はは、おっきい」
指先すら出ない様子に笑い、袖をたくし上げてなんとか指先を覗かせた。
十分くらい経っただろうか、優姫と零、そして理事長が部屋に入って来た。
「待たせたね、美夜ちゃん」
「いえいえ」
優姫が美夜の左側に、理事長が右隣に座る。零がソファの後ろに立ったので顔を上げると、軽く頭を撫でられ、顔の位置を戻された。
「美夜ちゃん、腕は……?」
「大丈夫ですよ」
気遣わしげに声を掛けられ、理事長に向き合う。包帯の巻かれた腕を見せて微笑むと、固かった理事長の表情が幾分か和らいだ。
「あんだけ派手に傷付けておいて」
「そ、そうだよ。ざっくりだったもん……」
まあそうだけど、と言いながら、肩を落とす優姫を慰める。優姫を守ろうとしてのことだったが、負担になってしまったかと己の行動を少し後悔した。
「美夜ちゃん、君は知っていたのかい?」
「ああ、吸血鬼ですよね、知ってます」
予想は出来ていたのか、理事長は特に表情を変えない。ただ真剣な面持ちで、理由を聞いてもいいかと問うてきた。美夜は頷いて、幼い頃の自分に起こった出来事を話し始めた。
「私が孤児だってこと、理事長はご存知ですよね?」
「うん」
零には少し話していたから、驚いているのは優姫だけだった。
「そうだったの?」
「うん、一人暮らしだったの。孤児院とかにも入ってなかったから、書類にそういう記載もありませんでしたよね」
後半は理事長に向けて言う。理事長は頷いて納得した様子だったが、その言葉だけでは吸血鬼を知っていることの説明にはなっていない。美夜も当然分かっているので、言葉を続けた。
「それで……って言うわけでもないんですけど、私の家族は十年前に、はぐれ吸血鬼に皆殺しにされたんです。私はたまたま居たハンターに保護されて無事だったわけで……記憶を消す事を拒んだ私は、数年ハンター協会の保護及び監視対象だったんですが、十歳でそれもなくなって一人で色々やりながら生きてきて……だから、知っているんです」
さらりと言ってのけるが、流石に驚いたらしい。理事長は目を見開き、眼鏡の位置を直した。隣に座る優姫と立ったままの零が息を呑み、雰囲気が急速に暗く沈むのを感じる。
早口で言い切り、乾いた笑みで理事長を見た。あまり暗い雰囲気を長続きさせたくないので何か話してくれないか、そう思っているのを察してくれたのか、理事長は何とか笑みを浮かべてくれた。
何も知らない人間が聞いたら美夜の話はとても重いものであるが、今この場所にいる面々にとっては現実離れしているというわけではない。自分だけがこんな境遇ではないと、美夜は分かっている。
「夜間部が吸血鬼だってことは?」
「入ってから、なんとなく……」
「ねえ、美夜」
左手を軽く握られて、美夜は優姫に顔を向けた。何か迷っているようで、目が忙しなく動いている。ん覗き込むように促すと、優姫は恐る恐る口を開いた。
「その……美夜は、吸血鬼が怖くないの?さっき、自分から藍堂センパイに狙われるようなこと……」
一体何を言われるのかと身構えていた美夜は、へ、と間抜けな声を発した。
「怖いって……?」
「だって家族を……殺されたんでしょ?」
「そうだけど……別に、怖くないし、恨んでもないよ」
言うと、優姫がぱちぱちと瞬きを繰り返した。ソファに凭れて立つ零から、先ほどより鋭い視線を感じる。
ああ、優姫は吸血鬼が怖いのか。そして零は吸血鬼が憎いのか。美夜は分かりやすい反応に内心苦笑する。
「私の価値観を押し付けるつもりはないけどね、」
そう前置きをして、戸惑う優姫に応えた。
.
「私の家族は確かに吸血鬼に殺されたけど……私にとってはね、小指をタンスの角にぶつけたくらいのものなの。運が悪かった、それだけ。交通事故に遭ったって感じかな。……実際に家族を殺した吸血鬼は恨むけど、もう粛清済みだもん」
誤解を招かないよう、重みも衝撃も違うけどね、と付け足しておく。
弱弱しく自分の手を握る優姫の手に右手を重ねて握ってやった。
「吸血鬼全てを恨むことはしないよ、私は。それに、彼等にだって心があるでしょう?人を上回る力は恐れるべきかもしれないけど……人にだって、武道を極めた人と一般人だったらそれなりの差はあるし」
「……だから、恐れもしないと?」
ずっと黙りこくっていた零が問う。美夜は彼を見上げて頷き、言葉を続ける。
「うん、大きすぎる個性だと思えばなんてことない。人間にだって、殺人を犯す人はいるわけだし」
まあでも、血を飲むときはいただきますくらい言ってくれると助かるよね。そう呟くように言って、視線を下げている優姫の頭を撫でた。優姫がどう受け止めたかは分からないが、もし今の言葉で自身を責めるようなことは不本意だ。
「あくまで私の意見だよ。優姫は優姫でいいんじゃないの?」
「……私もね、襲われたことがあるんだけど」
「うん」
小さな声で話し始めた優姫に相槌を打つ。なにかを美夜に打ち明けることで彼女の気持ちが軽くなるならと、微笑んで続きを待った。
「助けてくれたのも、吸血鬼で……枢センパイだったんだけど……大好きなんだけど、ほんのちょっとだけ、まだ怖いと思うことがあって」
「……そっか」
「だから、その……美夜はすごいなあって」
「はは、ありがと。でも優姫は優姫のペースでいいんだろうし、無理に恐怖心を消さなくてもいいんじゃないかな」
座ったまま、ぎゅうと優姫を抱きしめてよしよしと背中を撫でた。彼女が泣きそうに見えたのだ。命の恩人を怖がっているという自分自身を、認めたくない気持ちがあるのだろう。
「……美夜ちゃんは、強いんだね」
「そうだと、いいんですけど」
優姫からゆっくり身体を離して苦笑する。他に何かありますか、と理事長に問いかけると、理事長はシリアスな雰囲気を一転させ、キラリと眼鏡を光らせた。
「美夜ちゃん、風紀委員やらない?」
「いいですよ」
即答する美夜に満面の笑みを浮かべる理事長をよそに、零と優姫が慌てて美夜に声をかける。
「おい、そんな軽いノリでいいのか?」
「本当にいいの?」
銀河へ旅立とうとしている理事長を放置して、美夜はただ頷くだけ。美夜からすれば、どうしてそんなに前のめりになられるのかが分からなかった。確かに、睡眠時間が削られるのは惜しいけれど。
「だって風紀委員になったら、零や優姫ともっと一緒にいられるじゃない」
「!美夜はなんて可愛いのっ」
今度は優姫から抱きしめられ、美夜は体勢を崩しそうになる。慌てて右手をソファについて耐えた。これからよろしくね、と抱き締めたまま言う優姫に頷き、未だ不服そうな零を見上げる。
「あの……駄目かな」
「そうじゃねぇけど」
零は宙を見て頭をかき、美夜から優姫を引っぺがす。頬を膨らませる優姫を無視し、零は美夜の頬を手の甲で撫でた。
彼は私を心配してくれているのか。美夜はどこか照れくさく感じつつ、誤魔化すように笑った。
「……無茶はするな」
「うん、無理だけにしとく」
「そうじゃない」
もう夜遅いから、とそのあとは私的居住区に泊まることになった。零と優姫は風紀委員としての特権で門限の縛りがないそうなので、私的居住区に泊まるのは美夜だけだ。ちなみに気を失っていた二人の生徒は部屋に戻されたらしい。
「なんか疲れた……」
理事長に案内された客室で、真っ先にベッドに倒れこむ。寝返りを打って、零に上着を返していなかったことに気がついた。慌てて起き上がり、皺がつかないようにと持ち上げたときだった。
「……起きてるか」
「零?」
なんと良いタイミング。美夜はベッドから下りて、上着を持って部屋のドアを開ける。零は寮に戻ったと思っていたのだが、そうではなかったようだ。そういえばお風呂がどうとか言っていた気がした。
「上着ありがとう」
「……ああ」
差し出した上着を受け取り、零はばさりと音をさせて羽織った。零の用事が済んだと思った美夜は、上着を着ても動こうとしない零に首をかしげる。何かあったのだろか。それとも、何か自分に用事があったのだろうか。
首をかしげて見上げると、零は視線を逸らしてぽつりと言った。
「お前、俺と話すとき、あまり笑わなくなったから……前に言った事、気にしてたら悪い」
「………………ああ、気にしてないよ、大丈夫。びっくりしただけ」
「そうか……なら、笑わないのはどうしてなんだ?」
初対面で、人形のように笑うなと、確かに言われていたのだ。
不意に、アメジストの目に真っ直ぐ見つめられる。美夜を責めている訳でも追及しているわけでもないそれに、美夜はざわりと身体が反応したのがわかった。
どうしてと問われても、即答は出来なかった。
「……作り笑いだと言われたことは今までもあったんだけど」
いつからだろう、本当に笑えなくなったのは。家族が殺された時?あの時も辛かったけれど、美夜にはすぐに"かぞく"になってくれた人がいた。だから、笑顔は失わなかったはずだ。ならば、いつだろう。
「初めてだったの。……私に、作り笑いしなくていいって言った人」
その"かぞく"が、動けなくなってしまった時だ。美夜にとって、大事な、大事な人。その時から、きっと笑えなくなった。でも笑わなければ周りを不快にさせるだろうし、美夜自身に得はないと分かっていたから、"笑う"のが癖になったのだ。
「だから、零には、取り繕わなくていいんだと思って……」
零に作り笑いは通用しない。作り笑いをする必要がない。それでも美夜にはやるべきことがあるから、人に素をあまり見せないほうがいいのだけど。
「零の前では、作り笑いしなくてもいいかなって」
「……そうか」
美夜は今、自分がどんな顔をしているのか分からなかった。笑顔なのか、怒り顔なのか、真顔なのか、いまいちよく掴めない。自分のことなのに分からなくなるのは、美夜にとって初めてのことだった。
零にどう伝わったのかは分からない。けれど、零が微かに笑ったということは、変な顔ではないはずである。
「……もう一つ、聞いても?」
「うん?」
「俺は、お前と同じで家族を吸血鬼に殺されてる」
「……うん」
「だから、お前が吸血鬼を恐れも恨みもしないと聞いて驚いたんだが……」
零の手が伸びてきて、身体の前で握り合わせていた美夜の手の片方を取った。大きな手は、片手ですっぽりと美夜の手を包み込んでしまう。
「だったらどうして、あの話をしていた時のお前の手が震えてたんだ?昔のことに、恐怖があるんじゃないのか」
「え……」
「話し終わって、優姫に抱き付かれてた時」
「震えてた?」
「ああ……今も、少し前から」
言われて反射的に、零に握られている手を見た。確かに、小さく、そして僅かに震えている。そんな自身の様子に美夜は自嘲気味に笑い、零の手の中で手を握った。体温の低い美夜の手は、零の手からの体温を心地よく感じていた。
全くどうして、零にはお見通しなのだろうか。しかし、嫌な気分ではなかった。自分の奥底の本音がばれてしまってもそう思わないのは、"かぞく"以外で初めてだった。
なぜか嬉しいような気がするのだ。
「……私ね、普段話さないような自分のことを話すのが、すっごく苦手みたい」
それもきっと、"かぞく"が動けなくなった時から。周りを見て生きていかなくてはいけなくなったから。自分の気持ちや考えなど、言ったことがあっただろうか。
「だから、平静を装ってても、震えるんだね」
自分の事ではないようだった。震えを止めようと思っても、止まってはくれない。むしろ今だって自身のことを話しているのだ、止まる訳がない。
馬鹿みたい。そう、美夜は心の中で毒づいた。
ぐい、と手を引かれて、視界が黒く染まる。何か暖かいものに全身が包まれていて、それが零に抱きしめられているからだと気付くのに、そう時間は掛からなかった。
「零……?」
美夜の思考の許容範囲を、完全に超えていた。何故こうなった、と純粋な疑問が脳内を駆け巡り、急に体温が上昇する。
「……俺の前では、素のままでいればいい」
「え」
「何かあったら、頼れ」
耳元で話され、言葉がまともに飲み込めないし、返す言葉が出てこない。は、とか、え、とか、無意味な言葉さえ出てこない。それでもなんとか思考を働かせて、うん、とだけ言うと、零は身体を離した。
「じゃあ、俺は寮に帰るから」
「う、うん。おやすみ……」
「……おやすみ、美夜」
零は美夜の頭を撫でて、何事もなかったかのように部屋のドアを閉めていった。
「名前……呼んでくれた……」
呆然と閉まったドアを見つめる美夜は、収まったと思った熱がぶりかえすのを感じてベッドに飛び込んだ。今になって心臓が早鐘を打つ。なんとか落ち着こうと深呼吸を繰り返すも、簡単にはいかない。
「血は流すし、予想外の事態だし……零が笑ったのを見られたのは良かったけど」
美夜はベッドに仰向けになると、ポケットから黒のピルケースをごそりと出した。ジャラ、と音をさせて片手で開き、ザラザラと白い錠剤を口に流し込む。水無しでガリガリと噛み砕いて飲み込み、無機質な天井を見上げたまま呟いた。
「……おいしくない」
「停学十日間かーっ」
月の寮の寮長――枢の部屋にある椅子に英が座っていた。傍には、ズボンのポケットに手を突っ込んだ暁が立っている。ちなみに暁は、停学七日間を言い渡された。
「血液錠剤の生活って僕に向いてないのかな……」
「おい、英」
要らぬことを口走りそうな英を、暁が慌てて制す。シャワーを浴びていた部屋の主が、何時の間にか同じ部屋に戻っていたからだ。英もそれに気が付き、姿勢を正して口を閉じた。
「……藍堂。もし牙を立てていたら、こんな処分じゃ済まなかっただろうね」
机に凭れて、平時と変わらぬ口調の枢は、変わらないからこそ恐い。しかも英が血を飲もうとしたのが、月の寮生の常識である「枢様お気に入りの黒主優姫」だったのだから。
「すみません、枢様……」
「……美夜の勇敢な行動に感謝するんだね。優姫に牙を使っていたら、僕は君を殺しかねない」
「っはい」
英はあの時、優姫の血の甘い香りに酔っていた。美夜がいなければ、確実に牙を使っていた。
一方で、美夜の血の香りに酔ってしまったのも事実。優姫の甘さとは違う、「クセになる」ような独特の香り。どうしてあんな香りがするのだろう、と英が考え始めていると、髪を乾かしていた枢が、そういえば、と口を開いた。
「囮になったあの子は、君の事を怒っていないそうだよ」
「え……」
「優姫に手を出しそうだったことには怒っているらしいけどね……」
枢はタオルを肩にかけ、唖然とする二人に続けた。
「後で、一条たちにも話そうかと思ってるんだけど」
彼は、美夜が吸血鬼の存在を知っていて、全く恐れていないことを淡々と話した。それには二人も驚かず、静かに耳を傾ける。気になるのは、彼女が吸血鬼を知っている理由であり、それを枢が口にするのを待っているのだ。
枢は短い間を置いてから、僅かに苦しげな声音で言った。
「……彼女はね、家族を吸血鬼に殺されている」
「!?」
「そんな……!」
言葉が出ない英と、言葉は発したが詰まる暁に、枢は続ける。
「彼女は、人間と吸血鬼ではなく、一個人として他人を見ている。だから夜間部を恐れないし憎まない。……家族の事も、彼女自身は"事故"と認識しているようだし」
二人の表情が驚愕から困惑に移行するのを見た枢は、理事長から聞いた美夜の様子を思い浮かべながら、視線を足元へ落とす。
「……停学期間が終われば、会いに行って謝罪しておくんだね。優姫にもだけど、特に美夜には」
「はい……」
「分かりました」
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