50
翌朝、美夜が部屋を出て廊下を歩いていると、丁度優姫や沙頼と出くわした。声をかけると、二人は少し驚いたように美夜を見る。
「あら、今日はゆっくりなのね」
「ちょっと寝坊した……」
「美夜が寝坊なんて珍しい。一緒に行こー」
「うん」
「……美夜、ちゃんと朝ご飯食べた?なんか顔色悪いよ」
「食欲なくって。でも大丈夫だよ」
「無理したら駄目よ?」
「うん、ありがとう」
登校する生徒にまぎれ、三人並んで歩きながら、美夜は優姫を窺った。顔色が悪くは見えないし、眠そうではあるが酷い寝不足の様子も見られない。良かったと一人安堵しながら、美夜は窓に映った自分の顔を一瞥した。クマは化粧でちゃんと隠れている。
「あ、零。おはよう」
「今日は早いのね」
二人の声に顔を上げると、寮を出たところに零が立っていた。遅刻の常習犯である零といつも先に行ってしまう美夜が、朝から一緒になることはまず無かった。
「……はよ。美夜もいるのか」
「うん、ちょっと寝過ごした」
「珍しいな」
正確には寝過ごしたのではなく――そもそもまともに眠っていないし――身支度中に知らず眠ってしまったのだが、まあその辺りはいいだろう。優姫と同じことを言われて苦笑し、揃って歩き出す。
しかし周囲の生徒が黄色い声を上げ始め、四人は足を止めた。
「……え、あれって」
「やだ、どうしてこんな所に?」
きゃいきゃい騒ぐ周囲の生徒とは逆に、零は眉間に皺を寄せ、沙頼は首をひねり、優姫は頬を引きつらせ、美夜は至って変わらず、歩み寄って来る人物らを見つめた。
この時間、この場所にいるはずの無い、夜間部生がぞろぞろと現れたのだ。
先頭には英と暁が立ち、その表情は硬かった。美夜が会釈をすると、莉磨が小さく手を振ってくれる。見知った夜間部生の数人は目礼で返してくれた。彼らの今の目的は優姫だから、この反応は妥当だろう。
「ちょ、美夜、なにこれ。私なんかしたかな?」
「んー……優姫が悪い訳じゃないよ」
「否定してくれないんだ?!」
夜間部生は四人を前にして立ち止まる。美夜が後ずさりする優姫の肩を軽く叩いて落ち着かせると、野次馬の生徒に囲まれる中で暁が口を開いた。
「玖蘭寮長からのご命令だ。傍に付き従い見守るようにと……優姫"様"」
「?!」
言いながら胸に手を当てて軽く頭を下げるものだから、生徒からは歓声が上がり、優姫が体を小さくする。嫌がらせなのかと沙頼が耳打ちしてくるのに美夜は首を振り、訳が分からないと混乱を露にする優姫の肩を再び叩く。
「優姫、行こう」
「え!ああ、うん、そうだけど……うう、付いて来る……!!」
「まあまあ」
沙頼と零が先を歩き、美夜は優姫と並んで続く。そしてその後ろを夜間部生がぞろぞろと歩く。優姫があまりにも落ち着きなく後ろを振り返るので、美夜は苦笑を零して小声で言った。
突然この状況になれば驚くのも無理はないし、夜間部生だけでなく普通科生の視線も集めるので居心地の悪さも理解できる。だが、優姫にはこの状況の理由を受け止めてもらわなければ。
「昨日のことがあったからだよ」
「昨日……あ、あ、あれか」
「うん。優姫は枢さんの"特別"で、枢さんは英さんたちの主だから。たとえ枢さんがこうするように指示しなくても<貴族>の誇りにかけて、優姫を特別に扱って、優姫を守らなくちゃいけないんだと思う」
「<貴族>の誇り……」
「美夜の言った通りだ、分かったか黒主優姫」
小声だったが聴覚のいい彼らには聞こえていたようで、英がぶっきらぼうに言う。後ろで莉磨が「"様"……」と呟くが、英には気にした様子はない。この状況に戸惑っているのは優姫だけではなく夜間部生も同じで、不満は少なからずあるのだろう。
「人間の小娘には分からないだろうが……それが我々<貴族>の矜持だ」
「優姫、厳しいかもしれないけど……これが純血の君の隣に立つってことなんだよ」
考えるように視線を落とした優姫に、慣れていけばいいんじゃない、と笑いかける。
前を歩く二人と少し間が空いてしまっていたので、速足になって詰めると、零が首だけで振り返ってきた。美夜が零を見上げて笑むと、零は何も言わずに前に向き直った。
*
優姫は、教師の声を聞き流して、閉まっている教室のドアをちらりと見た。廊下に英が立っているのは知っていて、思わず溜め息を吐いてしまう。
美夜や英の言っていたことは理解できるのだが、ここは学園内で危険がある訳ではない。少々大袈裟な気がしていた。どうしてここまでするのかと、少し悲しそうに笑う枢の顔を思い起こした。
「……諦めろ。あいつと、本気でぶつかる覚悟をしたんだろ」
「……うん」
真後ろから淡々と声をかけられる。抑えた殺気の混ぜられたそれは痛かったけれど、怖い訳ではなかった。
「……前に俺が、お前に言ったことを覚えているか」
「うん」
自分の失言で零と美夜を傷付けてしまった時、吸血鬼になんかさせない、と零に怒りやら悲しみやらを混ぜた声音で言われていた。忘れるはずがないと頷くと、殺気が少しだけ強くなったのを感じた。
「あいつがそれを望んだ時、必ず俺は……」
顔を後ろに向けると、鋭い視線の零と目が合う。優姫は零が切った言葉の先が何となく想像できて、頷くように瞬きをして前に顔を戻した。
零の殺気に気付いて少し居心地悪そうな沙頼に、内心で謝る。沙頼と同じく優姫の隣に座る美夜も気付いているのだろうが、全く動きはしなかった。
その後チャイムが鳴って授業が終わる。あと一講で昼休みだ、と一息つく間もなく、優姫は名前を呼ばれた。
「来い、黒主優姫。寮長がお呼びだ。錐生、お前もついでに来い。……美夜、良ければ来てくれないか」
次の講義は無視しろということだろうか。断ることは出来ないだろうし話したいことがあるのは確かなので、優姫は躊躇いがちにだが腰を上げた。零も美夜も席を立っている。
沙頼に謝ってから、クラスメイトの視線から逃げるように廊下で待つ英の所へ向かう。
英は三人を確認すると背を向けて歩き出した。どこに連れていかれるのだろうかと美夜と視線で会話する。
「黒主優姫……お前、昔の記憶が無いんだったよな」
「はい、そうですけど……」
「……僕なりに色々調べてみたんだが」
「え?藍堂センパイっていい人だったんですね!頼んでないのに」
「お前じゃない!枢様の家のことだ!」
驚いて言うと、英は振り返ってきて全力で否定した。優姫もまさかと思っていたので、気を悪くすることもなく納得して頷く。
英は呆れた顔を優姫に向けるが、前を向いた英の声はとても真剣だった。
「枢様のご両親が亡くなられてるのは知ってるだろうが……色々あって、その"死"にまつわることを調べていた。手掛かりらしいものにたどり着いても……燃やされ削られ、全て隠ぺいされていた」
「……」
「お前の記憶と同じようにな」
どうして急にこんな話をするのかと思っているとそう続けられ、優姫は目を見開いた。中庭を前に足を止めた英は、体ごと振り返って真っ直ぐに優姫の目を見る。
「お前みたいな小娘を枢様が"恋人"として扱う理由、分かるか?そうすることで、僕たちにお前を守らせるよう仕向けたんだ。……枢様は分かっていらっしゃるんだろう。これから、お前の身に何かが降りかかることを……」
考えてもみなかったことだった。これから何かが起こる、なんて。それも夜間部生に守ってもらわなければならないくらいに重要なことが。枢がそれを狙ったのなら、自分の記憶の真実は周囲を巻き込むほど重大なのだろうか。
言葉が出ないまま、英に促されて中庭に入る。ここからは一人らしく、零と美夜は立ち止まったままだった。中庭には、大きなクッションやワゴンが運ばれていて、陽光の下に大好きな人もいた。
記憶について聞きたい。その為に枢にも向き合い、自分の気持ちに向き合ったつもりだ。本当に教えてくれるだろうかという僅かな不安も抱きながら、枢の方へと歩み出した。
「……ご飯?」
中庭を前にして足を止め、美夜が優姫を見送りながら呟く。それに英が頷いた。
零が壁に凭れていると、好奇心からついてきた生徒の声が耳に届く。夜間部生がいるのだから仕方がないのだが煩わしく、声のする方を軽く睨んだ。するとそれは収まって、次も講義があるからか、生徒の気配が遠くなった。
「学食だけどな」
「へえ。あ、枢さん……英さんもだけど、明るい時間から大丈夫?」
「まあな」
当たり障りのない会話をする二人を見ると、美夜がすぐに気付く。小さく首を傾げる美夜は何となく顔色が悪いが、いつもの寝不足だろうか。
零は壁から背を離して美夜の頭に手を伸ばす。撫でると見慣れた柔らかい微笑みを浮かべるので、少し安堵した。
されるがままの美夜だったが、あ、と声を出して英に向き直っていた。我関せずと視線を逸らしていた英が首を傾ける。
「英さん、なんか私には用があるみたいだったけど……」
「ああ……用っていうか。美夜はどう考えてるのかなって思ってさ」
「……この状況を?」
「ああ。夜間部生は"ごっご"だって言ってる生徒が多くてさ……僕の考えはさっき言った通り。美夜はどう思う?」
気のせいかもしれないが、一瞬美夜が動揺しているように見えた。
優姫の過去に枢が関係していて、それを知る為に枢と向き合い、結果恋人になった。成り行きとしてはそうだが、英が求めている答えはそういうことではないだろう。
美夜はどう答えるのだろうか。特に答える必要が無いようにも思うが、一瞬感じた動揺が気になって美夜の言葉を待っていた。
そういえば昨夜も、美夜は様子がおかしかった。枢の言う通り、本当に優姫のことを知っているのだろうか。
「んー……英さんみたいな難しい考え方は思いつかなくて、一応優姫が嬉しそうだからいいかなって」
「…………美夜らしいな、うん」
「はは、ごめん」
英が頭をかき、美夜が苦笑を浮かべた時だった。
美夜の体が不自然に揺れ、零はとっさに腰を引き寄せる。頭を押さえてふらつく美夜は、何かをこらえるように地面を睨んでいた。
「っどうした」
「……錐生、黒主優姫には言っておくから美夜を」
「ああ。……おい、歩けるか」
片手は頭を押さえ、片手は零の体を支えにするように立っていた。零が抱き上げようとすると緩く首を左右に振り、自力で立つつもりなのか、零に添えていた手を離そうとする。
零は眉を寄せると、強引に膝裏に腕を入れて横抱きにした。
地面を睨んでいた彼女の顔色は、予想以上に悪かった。
「寝不足で、頭痛がするだけだから」
「そんなレベルじゃないだろ」
「ほんとに、大丈夫。大したことじゃない」
「もう黙ってろ」
渋る美夜を無視して歩き出し、居住区に向かった。この様子では早退させた方がいいと判断したので、保健室という選択肢は早々に捨てていた。
視線を下ろすと、腕の中で顔をしかめている美夜が、化粧をしていることに気付く。化粧をしなければならないほど顔色が悪かったのかと舌打ちをした。もっと早くに気付くべきだったと後悔しても遅い。
居住区の空いている部屋に運び、ベッドに座らせた。ブーツを脱がせると、問答無用で横にする。
頭痛が少しは収まっているのか、美夜は頭を押さえるのを止めていた。
「……そんなになるまでなんて、どんだけ寝てないんだよ」
「ごめん……」
「いいから寝ろ。いるものがあるなら取って来てやるから」
「ん」
美夜は返事をして横になってはいるが、睡魔に逆らっているのか目を閉じない。ここまで気分が悪そうなのに、と零は苛立ちを覚えつつ美夜の髪をほどいた。
「……寝てくれ。美夜に倒れられるのは俺が嫌だから」
「…………三十分したら起こして」
「起こさないから寝ろ」
ベッドに腰掛けた零がそのまま美夜の頭を撫でていると、抗えなくなったのか、程なくして寝息が聞こえてきた。
零がほっとして苦笑を浮かべる間もなく、現れた枢に、今度は優姫が倒れたと聞かされた。
*
「……雪が、降ってきそうな空だな」
陽が落ち寒さも増した学園で、ぽつりと暁が呟いた。壁にもたれて腕を組んでいた英は、つられるように空を見上げる。灰色の雲が夜空を覆っていて、いつ降って来てもおかしくない状態だった。
そんな中、白い息を吐き出して外に控えるのは、暁と英だけではない。顔を上げた英の視界には、居住区の屋上や近くの建物の屋根に人影が映っていた。
「正直意外だ……お前が、寮長の"恋人ごっこ"に大人しく付き合うなんて。瑠佳のやつなんて引きこもってるぞ」
溜め息交じりで告げる暁は、疲れを滲ませて頭をかいていた。交代しているとはいえ、朝からこんな状態なのだ、疲労を感じるのも当然だった。
英は暁のうんざりしたようすから視線を外して、顎に手を当てる。暁の言う事ももっともだが、英は、この状態は何か大きなモノを孕んでいる気がしてならないのだ。
「暁……"ごっこ"じゃない。知ってるだろ、枢様のあの執着」
「……悪いが俺には"ごっこ"に見える。なんと言うか、今はただ壊れ物を厳重に保管したがってるだけみたいだ。俺達に護衛までさせて」
「……何から守る必要があると思う?」
昼間倒れた優姫を抱える枢は、心配そうにはしていたけれど、なぜかひどく悲しそうだと思った。まるでそうなることを知っていて、進行する事態に嘆いているような。
「枢様は、何を待ち受けていると思う……?」
昼間といえば、美夜も頭痛が酷く早退していた。寝不足の頭痛にしては明らかに度を越している。風紀委員の見回りは寝不足がつきものだが、休暇が明けてから夜間部の授業はまだほんの数回だ。
休暇前からの寝不足が祟ったか、新学期が始まってからまともに眠れていないのか。タイミングがタイミングなだけに、関係していそうで嫌な感じがする。
英は厳しい顔をしたままで、優姫のいる部屋の窓を見上げた。
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