53


 洋館地下の窓の無い部屋。それから父・悠と母・樹里と兄・枢。それだけが幼かった優姫の――玖蘭優姫の世界だった。
 生まれてから地上に出ることはなかった。<純血種>の存在全てを利用しようとする吸血鬼は多く、それらから優姫を守る為だ。年月を生きて力のある悠や樹里や枢と違い、<純血種>と言えども幼い優姫には、抵抗する力がない。そんな醜い争いに、家族は優姫を巻き込みたくなかった。
 決して自由とは言えない生活だ。地下から出ることが出来ず、外の情報は家族の話によるものだけ。それでも優姫は不幸ではなかった。家族の愛情をしっかりと受け止めていたからだ。
 平和で静かな生活だったが、それは唐突に終わりを告げた。

「このごろね……こわい夢を見るの。紅と蒼の色ちがい目がずうっとこっちを……ずうっと見てるの」

 家族団らんの場で、優姫の何気ないこの言葉に家族の表情が凍る。そしてほんの数時間後に、悠と樹里が厳しい表情で地上へ出ていった。
 不穏な気配を感じた優姫は枢に抱き付いて、きつく目を閉じていた。震える体を枢が抱きしめてくれる。

「っ……おかあさま、とても怒ってる。おとうさまも……」
「大丈夫だから。僕がそばにいるよ」
「でもっ……血のにおいがたくさん……!それに、なにかとてもこわいもの、きてる……」

 地上で何が起こっているのか、優姫には一切分からない。感じるのは両親の激しい怒りと、不気味な空気、知らない血の匂い。全ての感覚を塞いでしまいたいくらいなのに、不安の為か、<純血種>の感覚はとても鋭くなっている。
 体を小さくしていた優姫だったが、鼻をついた匂いに目を見開いた。

「……おとうさまの、血のにおい……」
「こわい思いをさせてごめんね……」

 耳元で枢の声がする。優姫を安心させようとする優しい声音だが、何かそれ以外のものも含まれていた。

「僕は幸せな時間に酔っていたのかもしれない……でも、もう決めたから。必ず用意してあげる、優姫が恐がらずにいられる場所を……」

 幼い優姫には、枢の言葉の意味が理解できなかった。枢の言葉が指すものが何なのか、疑問を持つだけの余裕がなかった。
 枢にすがるようにしていたが、部屋のドアが開かれて顔を上げる。外の気配を気にしすぎて、接近する気配に気付かなかったらしい。びくりと顔を上げたけれど、そこにいた人物に優姫は少し力を抜いた。

「枢、優姫」
「おかあさま……!」

 枢から体を離して、神妙な面持ちの樹里に駆け寄る。続いて枢も立ち上がっていた。

「おかあさま、おとうさまは……?!」

 樹里のスカートを握って問いかけるが、樹里は軽く頭を撫でただけで優姫に視線を落とさない。泣きそうに眉を寄せる優姫の頭上で、樹里と枢が落ち着いた様子で言葉を交わしていた。

「優姫のこと頼みます……すみません、李土のことは、僕が片づけなければならなかった……」
「枢……ありがとう。優姫をずっとよろしくね」

 樹里が枢の頬にキスを落として柔らかく微笑む。驚いたような枢だったが、そのまま地下室を出ていった。優姫が思わず追いかけようとしたけれど樹里に止められ、ドアが閉められる。

「かなめおにいさま……!!」
「優姫……あなたの吸血鬼の因子をすべて眠らせて、あなたをただの"人間"にするわ」

 優姫には、そんな大事な樹里の言葉に耳を傾けることが出来なかった。父が戻ってこず、大好きな兄が、不穏な気配の方へと向かって行ってしまったから。

「おかあさま、おにいさまが!外にはこわいのがきてるのに!」
「この術式をやってしまうと、かわりにもう傍にはいられないけど……お母様、あなたの役に立てて幸せよ」

 樹里に抱きしめられた優姫は、顔に冷たいものを感じた。同時にとても濃い樹里の血の匂いがして、声を上げることを忘れて樹里の腕の中で目を見開く。

「おかあ、さま……?」
「勝手に決めて恨まないでほしいけれど……ああ、でも。次に目覚めた時は何も覚えて――――」

優姫の視界は、樹里の血で赤に埋め尽くされた。




 悠は手に掴んでいたモノを塵へと変えながら、テラスにいる人物へ語り掛ける。外はひどい吹雪で、悠の服が音を立ててなびいていた。悠の前には多くの殺気だった吸血鬼がおり、襲い掛かるタイミングを窺っている。

「君が生まれてから三千年近く……ずっと一緒だった、幸せだったよ。そして長い間考えた末、可愛い子供を授かったね。僕たち二人の想いの結晶……」

 場面には不釣り合いなくらい静かな口調と穏やかな笑み。悠は殺気の満る空気に立ちながらも、それを崩さずに、テラスに立つ妻を振り返った。

「ねえ、樹里……今が潮時なのかもしれない。君が優姫にしてあげたいと思っていたこと、今なら賛成できるよ」
「!……ええ、悠」

 樹里は少し目を見開いたがすぐに微笑んで、テラスから一歩下がる。

「じゃ……先に行ってるね。枢には怒られちゃうかも」
「どうだろう。僕に似て素直じゃないからね」

 微笑む樹里に悠も微笑んで返し、樹里の姿が見えなくなると、一度目を閉じて"敵"に向き直った。

 大事に隠している"姫"をもらいに来た、と宣言した悠と樹里の実の兄が、腹を潰されて再生を進めている。その後ろには数十人の吸血鬼がおり、悠をじっと窺っていた。

「……ここまで来て何を遠慮する必要がある?元老院の狗ども。最初に向かってきた奴等はとうに塵だぞ?」

 家族に向ける温かな雰囲気は一切なく、<純血種>の威圧感を露に敵意を向けた。すると一人の吸血鬼が、怯えた様子無く口を開く。

「悠様は思い違いをされている。……我々は元老院とは関係のない、李土様のただの下僕」
「……ヘタな芝居は止めて、はっきり言ったらどうだ?思い通りにならない僕らはもはや邪魔……李土と利害が一致したと」

 悠への返答は、先ほどの吸血鬼からではなく、生々しい音を立ててうごめく李土からだった。腹を完全に潰したにもかかわらず、脅威の回復力で変わらぬ姿を取り戻している。

「そうだとも……昔から元老院と距離を置こうとしていたお前と違って、僕と元老院(ヤツラ)は昔から仲良しでね」

 さも楽しげに口の端を上げて話す李土は、左右ちがいの目を悠に向ける。

「知らなかった訳ではないだろうに……なぜわざわざ僕を元老院の監視下に置いたんだか」
「自分自身と……樹里の目の届かない所にやりたかったからですよ。貴方は僕たちから、最初の子供を奪った人ですから」
「お前は甘い。そういう時は、憎しみに身を任せ力を奮え!頭か心臓を潰せば、不死身の<純血種>でも大人しくなるぞ。そしてそうなれば、より濃い純血の血を与えない限り、容易くは復活できない」

 悠は一度視線を落としてから、再び李土に殺気を送る。悠が本気で怒っているなど分かっているだろうに、李土は口角をあげたままだ。

「では次は……腹ではなく頭と心臓を。決して復活させませんよ、お兄様」




 樹里と入れ違いに地下室を出た枢は、急いで地上に出ると、その光景に目を見開いた。皮の無い、大きな獣の頭のようなモノが李土を襲い、黒い巨大な刃が悠を襲っている。
 そして悠を斬りつけている李土の剣を見て、枢は駆けだした。ただの剣ではない、対吸血鬼用武器だとすぐに分かったからだ。

「いけない、お父様!その剣はハンターたちのものです」

 李土と悠の間に割って入り、悠を背に庇って立つ。制するように名を呼ばれたが、引くなどさらさらない。

「下がって、お父様。こいつを滅ぼすのは僕の最大の義務だから。それにこんな卑劣な者の血で手を汚さないで……吸血鬼でありながらハンターの武器を、一騎打ちの場に持ち込むような男……!」
「……枢、お前が下がりなさい」

 後ろから宥めるような声をかけられ、とても優しく抱き締められる。対吸血鬼用武器で傷つけられ、<純血種>と言えども平気ではないはずなのに、悠はそんな苦痛を一切感じさせなかった。

「我が子の背に庇われるなんて、親の誇りを打ち砕かないでほしい……」
「っ……違う、お父様……悠。僕は……っ」
「大丈夫、全部分かっていて言ってるんだよ」

 悠が微笑を浮かべた時だった。その頬にピシリと亀裂が走る。枢は心臓を掴まれたような、とても嫌な感覚が体に走った。

「悠、今の剣で心臓も……っ!」
「それでもお前はずっと、僕たちの可愛い子供に変わりなかっただろう……?」

 そう言った直後、枢を包んでいた温もりが消える。微笑んでいた悠がほんの一瞬で砕け散り、悠を傷つけていた剣がその場に落ちた。その剣を拾い上げ、武器からの反発など全く気に留めずに李土を映す枢の目は、とても暗い色をしていた。

「李土……悠に頭を持っていかれたか。今、この剣で再生能力を奪えば、その頭の傷は致命傷になる。できるなら安楽な死は与えたくないが……優姫の為にも、お前には今ここで消えてもらう」

 剣を李土の心臓に構え、貫くために力を込める。だが、切っ先が李土を傷つけることはなかった。枢の腕が動かなかったのだ。不可解な現象に目を見開く枢とは対照的に、李土の低い笑い声が聞こえる。

「まだ幸せ呆けしているのか……お前は僕を殺せない。そうだろう?お前が力を取り戻し、どんなに僕を痛めつけても、致命傷を与えることは出来ない」
「…………」
「いい気分だ、最強の化け物に鎖をかけたのは僕だからな」
「……お前のようなものが生まれたのは、僕の誤算だ」

 役に立たない剣を手放した枢は、動けないほどの傷を負っている李土に手をかざす。<純血種>の力を使って圧力をかけると、ぐしゃりと李土だったそれが潰れた。
 それでも、李土は生きている。

「……お前が復活するときまでに必ず、お前を滅ぼす手段を手に入れよう。それまでお前は、おとなしく黙っているがいい……」





 優姫が我に返ったのは、大好きな人の血を好きなだけ貪った後だった。肩までだった黒髪がいつの間にか長く伸びて、自分の背に流れている。口元の血も流れる涙も拭わずに、ベッドの上で自分を抱きしめるように座った。
 つい先ほどまで自分が血を貪っていた枢が、ごく近い距離で顔を覗きこんでくる。

「思い出し、ました……あの夜、おかあさまは身を犠牲にして私の中に"蓋"をした。おとうさまは、悪い者から守るからって、地上に……」

 湧き出してくるように甦る記憶は、優姫に恐怖と混乱をもたらす。自分の頭を抱えて俯いてしまうと、枢が優姫の頭を胸に抱いた。

「二人とも強い人だったのに、もうここにいない」
「……優姫」
「どうして?そこまでして……私を何から遠ざけきゃいけなかったの……っ」
「いけない、心を鎮めて」

 枢が言うとほぼ同時だった、部屋の壁に無数の亀裂が音を立てて走る。はっとしてそれを見、優姫はそれが何かすぐに理解してしまった。

「あ……わた、し……?」
「優姫、自分の存在を……優姫を遺した二人の思いを否定しないで。十年……二人の代わりに見てきた、全てを忘れた優姫を」
「枢、せんっ……おにいさま」

 懐かしい呼び方をすれば、自然と心が落ち着いた気がした。枢に向き直ると、妙に恥ずかしい気もしたけれど、いつも自分を助けてくれた存在が実の兄であったと実感すると同時に、今まで優姫に向けていた枢の表情にも納得がいった。

「私……どうかしてます」
「なぜ?」
「だってずっと自分の……お兄さんに恋してた」
「それが、なに……?」
「だって、私はずっと人間として生きてきました」
「だから?僕たちは許嫁同士だよ」

 顎についていた枢の血を枢が直接舐めとって、何てことのないように言う。実際、枢にとっては優姫の言うことなど大したことではないのだろう。
 <純血種>の家系での兄妹婚は珍しくないし、悠と樹里もそうだった。幼い優姫も枢との結婚に対して嬉しいという感情しかなく、今違和感を感じるのは、十年間人間として生きてきたからだろう。

「おとうさまとおかあさまも兄妹でした……でも、そんなの……そんなのは」
「"獣のする事"?その通りだよ、僕らは人間じゃない。それともまた、優姫は僕を独りにするの……?」

 縋るような言葉に優姫は目を見開くが、何かを言う前に感じた匂いに肩をはねさせた。体のどこかがうずくような、人間の時には決して感じられなかったものだ。

「血……?だれの……?」
「優姫……そうだよ、血の薫りを堪能するといい」

 枢が耳元に口を寄せて、まるで甘い言葉を言うような声音で囁く。

「次第に自分の本当の居場所がどこか……分かるだろうから」

 枢はそう言ってベッドから下りると、すぐに戻るからここにいてと言い残して部屋を出ていった。残された優姫はベッドで座ったまま、何も変わらない、だが何かが変わった自分の手の平を見つめた。
 知らない血の匂いと、とても嫌な気配を感じる。

「……美夜……零……」

 優姫自身忘れていたとはいえ、騙していたようなものだ。許してほしいとは思わないけれど、会って話して謝りたかった。

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