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 美夜の手には、重々しい枷がはめられていた。人間であったなら必要でないそれは、飼い慣らしの刻印を持たない吸血鬼が、ハンター協会に足を踏み入れるためのもの。不用意に吸血鬼が協会に入ろうものなら、入口の術式が発動して無事では済まないのだ。
 腰にあった刀は、布でぐるぐるに巻かれた状態で一人のハンターの手にあった。[天守月影]には柄があるので、刃に直接触れることはないが、それでも危険度は――吸血鬼にとってもハンターにとっても――高い。

「……来い」

 協会本部前に車を停め、美夜は同行するハンターに促されて車を降りる。体が重く、軽くふらついた。
 協会が手を回しているのだろう、公共交通機関を使っての移動は速いものだったが、学園を出たのは深夜で今は昼。朝日を浴びるよりマシだとはいえ、吸血鬼に戻ったばかりの体には辛いものがあった。
 足元に視線を落として、ふっと息を吐いてから足を進める。
 美夜の前と後ろにハンターが付き、冷たい視線がつきまとっていた。ちなみに刀を持つのは後ろのハンターである。
 ……私の対応に困ってるんだろうなあ。

「お前が"月影"か……ホントかよ」
「錐生以外に吸血鬼のハンターがいたとはな」

 美夜を挟むハンターが、苛立ちを交えながら口にする。多少突っ込みを入れたくもなったが、さらに苛立たせるだけだと感じて口を開かなかった。
 本部の中の空気は、いつもとあまり変わらない適度の緊張があった。違う所と言えば、いつもに増して人が少ないことと、武器の気配に自分が敏感になっていることくらいだ。

「とりあえず、お前の部屋に行く。生活に必要なものは全て揃っているんだろう?」
「はい」
「なら部屋から出るな。見張りもつく。異論は聞かない」
「はい」

 "関係者以外の立ち入りを禁ずる"という表示を過ぎた本部の奥に自分の部屋があると、美夜は車内で告げている。今三人が向かっているのも当然そこである。
 美夜は手枷に視線を下ろして歩いた。電気も眩しいのだ。学園にいた時は気を張っていたが、あの時も体調としては最悪だった。

「必要なものがあれば一応は聞いてやるが――――」
「よお、妙なことになってんな」

 低く、かすれた声がした。
 三人はぴたりと歩みを止めて、柱の陰に立つ人物に視線を向けた。
 美夜は軽く目を見開いてから、珍しく引きつった笑みを浮かべる。

「ほ、帆泉(ほずみ)さん」
「っお疲れ様です」

 二人のハンターが焦るように頭を下げる。白髪交じりの男性――帆泉七瀬は軽く片手を上げて、柱から背を離した。気だるげな目は美夜に向いている。
 ベテランのハンターで、各地を飛び回って仕事をする彼が、本部にいることはまずない。"影"である美夜と同じく、単独で密集区駆除をする数少ないハンターの一人である。

「……お前吸血鬼になったのか?アマモリ。狩られに来たか」
「死ぬつもりはありません。私は<レベル:E>になりませんし」

 アマモリという言葉は美夜を指している。[天守月影]の使い手だから"影"や"月影"と呼ばれているが、"天守(あまのかみ)"の方をモジって"アマモリ"と呼ぶのは帆泉だけだ。
 首を横に振ると、彼は大して興味もなさそうに流す。吸血鬼だからと敵意を向けられないことは素直に嬉しく感じた。

「錐生の坊主と同じで、極秘の方法ってやつか」
「はい……一番最初は人間でした。吸血鬼になって、術式で人間になって、吸血鬼に戻った次第です」
「ハッ。愉快な事してんじゃねーか」
「どうも。……お元気そうで何よりです、師匠」

 愛想笑いを浮かべて言うと、再び鼻で笑われる。
 美夜に同行している二人のハンターが少なからず驚いたようで、美夜と帆泉を交互に見ていた。
 "影"の正体が明かされていなかったのだ、その刀の師が誰であるかも非公開だった。

「協会と元老院が騒がしいってんで、わざわざ戻ってみれば……タイミングよくお前が戻って来たからな。……お、刀があるってことは"影"だってバレてんのか?」
「はい。諸々の事情もカミングアウトすることになりますね」
「へえ?ようやく、アマモリの秘密ってのが聞けるわけか。俺ぁ今回のゴタゴタについて全然知らねえからな……先に話でも聞いておくか」

 後半は独り言のようになっていた。思案気に顎をさすっている。
 美夜は笑顔のまま、しかし帆泉の理不尽さも身をもって知っているので――トラウマともいう――冷や汗をかきながら突っ立っていた。
 幸い、帆泉に不機嫌な様子はみられず、美夜の杞憂に終わった。

「……アマモリ、しばらくはここにいんのか?」
「はい。今回の騒動にかなり関わっているので」
「なら、俺が暇になったら稽古でもつけてやるよ」
「……私多分部屋から出られませんが」
「知るかそんなもん。俺に意見できる奴なんざ、灰閻か夜刈くらいしかいねーよ。最近運動不足でな、付き合えよアマモリ」
「……はい」

 帆泉はそう言いたいことだけを言って、美夜らが向かうのとは反対に歩き出した。宣言通り、情報収集でもするのだろう。
 二人のハンターは呆気にとられたように彼の背を見送り、ゆっくりと歩を再開した。
 騒動の話だったり稽古の話だったりとマイペースな帆泉に、美夜は小さく苦笑する。
 懐かしさを感じつつも、稽古のことを思うと、ただでさえ良くない体調が悪化する気がした。




 ハンター協会本部内の私室は、長期休暇中に戻っていたのでさほどホコリをかぶってはいなかった。
 美夜はドアの鍵を閉め、そのままずるずると座り込んだ。

「ッ……」

 刀が無いといっても、美夜はもう吸血鬼であるために、気配にはそれなりに敏感だ。部屋の外に一人のハンターがいるのは分かっている。
 美夜はきつく眉を寄せて、体を引きずるように戸棚の前へ移動する。戸棚には全て鍵がついているが、生憎美夜は今鍵を持っていない。寮の部屋に戻らず、身一つで学園を発ったから当然である。

「っは……う、く」

 体が熱い。喉が渇いて仕方がなかった。ひどく懐かしいその感覚に、脂汗を浮かせて表情を険しくしながらも、口元に自嘲を刻む。
 深い緑の目が赤に輝く。飛びそうな意識をなんとか繋ぎ止め、美夜は自分の手首に咬みついた。加減も知らずに咬んだせいで、血が腕を伝って――しかし床に落ちることは無かった。
 自らの血液を刃物のように鋭く変化させ、戸棚の鍵を壊した。李土の血を多く持つからこそ出来ることだ。力任せに壊すよりも音が小さく、これならば外のハンターも気にしないだろう。
 血は素早く体内に戻って、傷口からの出血が止まる。
 ――ああ、もう、喉が、乾く。乾く。乾く。
 戸棚には予備の血液錠剤があった。美夜は迷わずそれに手を伸ばし、蓋を開けると、ざらざらと口に流し込む。大して美味しくもないそれを噛み砕き、また口に流し込む。
 体の熱が収まるまでそれを数回繰り返すと、ケース一杯だった錠剤が半分近くに減っていた。

「……調達してもらわなきゃ」

 爛々とした緋色が緑に戻り、強張っていた肩から力が抜ける。<レベル:E>にならないとはいえ、飢えが苦しいことに変わりはない。
 美夜は溜め息を吐いて立ち上がり、ケースをテーブルの上に置く。活動を止めたいと訴える体を叱咤して、億劫な気持ちで風呂場へ向かった。


* * *


 戦場になった黒主学園では、当然というべきか、授業など行われていなかった。しかし知ってはいけない事を知ってしまった生徒を外へ出す訳にいかない。また、学園の外に住む教師への配慮も忘れてはならない。
 戦いが終わった翌日と翌々日は、ハンターらと一部の夜間部生による会議が行われた。
 その次の日からは、ハンターと生徒一人一人との面接が行われている。記憶を消すか残すかの判断をするためだ。
 学園へ出勤してきた教師へは、"学園は改装工事の為休講である"という暗示をかけてお帰り願っている。
 その為、黒主学園は一時的とはいえ閉鎖度を格段に増していた。生徒は学園はおろか寮からも出られず、外からは誰も立ち入ることが出来ない。学園内を自由に動くのは、ハンターと一部の夜間部生のみだ。

「あー……くそ忙しいなこの野郎」
「仕方ないよ、状況が状況だからね」
「お前がいうか、お前が」

 理事長の私的居住区では、有り余る客室をハンターが使用していた。部屋が使えなくなった夜間部生も生活している。
 そして理事長室では、理事長と夜刈が終わらない仕事に追われていた。
 理事長は学園の損害や補修についての手続きと、各方面への説明。夜刈は生徒への対処と元老院とハンター協会の後始末。元老院については、拓麻も動き回っている。
 協会長が死んだのだ、吸血鬼関連の厄介事は全て夜刈に――次期協会長の最有力者"だった"――回って来ていた。
 世間体もあり、このような状況が続くのはよろしくない。一刻も早く学園を元の機能に戻さなければならない、と理事長も夜刈もハンターたちも協力する夜間部生も、まともに休めてなどいなかった。理事長に関しては、あちこちからの追及でほとんど学園にいない。

「早く本部にも行かなきゃならねえのに……ああクソ忙しいな!」
「さっきからそればっかりだね、夜刈くん」
「誰のせいだよ。ボケ隠居もすぐ出るんだろ?」
「ああ。もう車で生活してるみたいだよ」
「さっさと行っちまえ」
「行って来まーす……っと」

 理事長が部屋を出るのと入れ違いに、零が理事長室へと入って来た。書類の広げられたテーブルに、また紙の束が仲間入りを果たす。夜刈は溜め息を吐いて、何本目かしれない煙草をくわえた。

「一年男子の残りだ」
「あーはいはいご苦労馬鹿弟子。……おいちょっと待て」
「っ」

 書類を置いて出て行こうとする零を呼び止め、夜刈は紙に埋もれていた鍵を投げた。零は難なくそれをキャッチして、視線で説明を乞う。
 零はひどく不機嫌だった。それは今日だけではなく、彼女が学園を去ってからずっとである。眉間の皺は標準装備だが、殺気混じりの鋭い空気まで常にまとっている。
 おっかねえな、と夜刈は心の中で呟いた。仕事はこなしているので文句はないが、ハンターさえもが零に近づかなくなっているのだ。

「晃咲美夜の部屋の鍵だ」
「!」
「時間がなかったからずっと立ち入り禁止ってことにしてたんだが……行って来い馬鹿弟子」

 零はその理由をまた視線で問う。明らかに、無口に拍車がかかっている。
 夜刈は零がきつく握った鍵を指さし、気だるげに言った。

「俺が本部に戻るまで、アイツの聴取は行われない。人手が少なすぎるのが理由の一つ。もう一つは、使えるハンターが元老院の尻拭いで狩りに出てるか、この学園にいるかだからだ」
「……あんたが尋問する時のために、家宅捜索でもしろってか」
「分かったらさっさと行って来い」
「……」
「別にお前じゃなくてもいいんだよ。……お前、ちょっと頭冷やして来い」

 夜刈は犬猫を追い払うように手を振り、吸殻が山になっている灰皿を見て溜め息を吐いた。
 すぐに零の足音が遠ざかり、聞こえなくなってから頭をかいた。
 立ち去るタイミングが無かったのか、ドアを出たすぐの所には理事長が未だ立っている。理事長は零の背を見送ってから、苦笑を浮かべて夜刈に声をかけた。

「優しいねえ」
「馬鹿弟子の不機嫌さは公害なんだよ。睨みで窓ガラスを割るようになりやがって……一発芸のつもりか」
「……錐生くんの気持ちも、分からなくないけどね」
「……さっさと行け隠居野郎」
「はいはい」

 零は口にしないが、美夜のことを気にしているのは誰もが知っている。そして美夜を気に掛けているのは、夜間部生や理事長や夜刈も例外ではなかった。





 陽の寮の女子寮、三階の角部屋は現在立ち入り禁止となっている。ドアは施錠され、ドアの前にはバリケードが置かれている。

「……」

 零はドアの前に立ち、鍵穴を睨んだ。
 そんな零の様子を、廊下に出ていた女子生徒が怖々と窺っていた。
 今となっては男――ハンターや夜間部生――が女子寮にいることは珍しくないが、零の立つ場所が場所なだけに、無視できないらしい。
 普通科生で学園を去ったのは、美夜と優姫の二人。優姫は"枢の妹である為学園を去った"とだけ、不親切極まりない説明がされている。
 一方で美夜に関しては、無事だということ以外に、一切の事情が生徒に知らされていない。おまけに部屋は立ち入り禁止なのだ。
 零は少しの間突っ立って、ゆるりと動き出す。バリケードを脇にどけて、鍵穴にそれを差し込んで回す。開錠を告げる音が鳴り、鍵をポケットに閉まった。
 無断で部屋に入ることに対し、もちろん抵抗がある。それが好いた彼女の部屋なのだから余計に、言いようのない後ろめたさがある。だが、だからといって、他のハンターが足を踏み入れるのも嫌だった。

「美夜……入るぞ」

 小さく小さく呟いてドアを開き、思わず硬直した。部屋は酷く荒れていて、壁の穴こそ応急処置程度にふさいであるが、倒れた棚や壁の残骸が放置されていた。ここ数日の忙しさを思えば、納得もできる。
 後ろ手でドアを閉めると、中から鍵を回した。
 視線を動かして、室内の様子を把握する。
 壁はありあわせの木片でふさいであるが、隙間がありこちにあり、真冬の風が容赦なく入っていた。今朝雪が降っていたからだろう、白が残っている場所もあった。

「!」

 木片の下敷きになり、汚れたテディベアが目についた。美夜がとても大切にしていたものだ。
 離れた美夜の欠片があるような気分になって、テディベアをそこから救出する。綿が出たりということはなかったが、クリーム色だった毛色がくすみ、形が少し崩れていた。
 零は軽くほこりを払い、片手に抱える。ソラことこのテディベアを乱雑に扱って、美夜にたしなめられたことがあるからだ。

「これは……?」

 決して広くはない部屋で、本棚の中身が散乱している。教科書や参考書、明らかに難易度の高い問題集に混じり、黒と赤の二つのファイルがあった。
 異様ささえ感じる、真っ黒のファイル。乾いた血色のような、深紅のファイル。どちらもほこりをかぶっていたが、引き寄せられるように手を伸ばした。
 二冊ともを手に取って、その場で立ったまま中を開く。
 まず開いたのは深紅のファイル。内容は何かの検査結果のようで、数字と見慣れない言葉が並んでいた。以前美夜が、<レベル:U>として定期的な検査があると言っていたから、それに関係しているのだろう。かなりの量があり、零はパラパラと読み飛ばした。
 そうしていると、ファイルの内容が区切られていることに遅れて気付いた。途中で仕切り用のカードが挟まっている。そこまでは検査結果だろうと踏んで、カードのページを開き――息をつめた。

「"個人資料"……?優姫と、俺と……理事長に夜間部の奴らまで……」

 名前にはじまり、生年月日、経歴、家族構成や学園での成績や得意科目、交友関係に至るまでが記されていた。優姫のものには写真までつけられている。
 特に零を驚かせたのは、優姫は"玖蘭優姫"であることや、零が緋桜閑に咬まれていることまでが記載されていたことだ。

『……知ってたよ、最初から全て』

 美夜が立場を明かした時に、そう言っていた。その言葉の意味がやっと分かった気がした。
 零は眉間の皺を深くして、一人舌打ちをする。何に苛立っているのか自分でも分からないが、何も知らなかったことが悔しい。
 パリ、と木が爆ぜるような音を耳に挟み、深く息を吐いた。以前に増して吸血鬼らしくなってしまい、気を抜けば手を使わずに物を壊すことが多くなっていた。美夜からの吸血鬼因子が目覚めた影響だろう。

「くそ……」

 残りすべてが資料なのかとめくっていると、ファイルにただはさんであるだけの書類があった。個人資料と形式が違うので、頭を切り替えて目を通しはじめる。
 今度は、いうなれば"晃咲美夜の設定"だった。特待生として入学する予定だったが、交通事故のために入学式を欠席、一月入院。編入という形で入学することになった――簡単にまとめるとそう書かれている。
 これを読むと、美夜は試験を受けて入学したのか怪しく思え始めるが、零は深く考えるのを止めた。この辺りは美夜が明かしてくれた方が確実だ。

「……『最初から全て』、か」

 あと数枚、検査結果とも個人資料とも違うものがあった。それらは全て元老院からで、内容は端的すぎてよく分からないものばかりだった。
 紙それ自体は文字で埋まっているのだが、ほとんどが当たり障りのない近状報告の様なもので、本題だと思われる所は短く、その上言葉が足りていない。分かる者にしか分からないようにしてあるのだろう。
 深紅のファイルを閉じ、次は黒のファイルを持ち直す。
 二冊とも表紙や背表紙に文字はないが、表紙であることを示すであろうマークが入っているので、迷うことなくそれを開くことが出来る。
 赤いファイルの内容もあり、かなり身構えて開いたのだが、黒いファイルには個人情報の類はない。しかし内容に驚いたことは変わりなかった。

「…………」

 黒いファイルの中は、全てハンター協会からの指令書だった。
 零より一つ年下とは思えないその量に、表情の険しさが増す。ハンター協会から長く離れていた自分の仕事量が少ないことは分かっているが、それにしても多すぎる。
 美夜は一体いつから仕事を……?
 指令書には、指令が下った日付と指令書を受けたハンターの名前――これらには[天守月影]とあるが――、罪状が主に記載されている。外見や潜伏先が分かっていれば、別に資料も届くのだが、ファイルには指令書のみが綴られていた。
 とてもじゃないが、十六歳がこなしてきた量ではない。一枚の指令書に複数人分の罪状が連ねてあるものが多く、密集区駆除だろうと容易に分かる。

「…………?」

 ものによっては、手書きでなにやら書き加えられている物もあった。ひらがなが多く、漢字などほとんど使われていない。幼い子供の作文のようだった。

"行ったら、ふえてた。4入だったのに5入になってた。"

 急遽粛正対象が増えたのだろう、人数が足されていた。どうやら"人"と"入"を間違えているようだ。
 指令書の日付が新しいものになると、徐々に漢字が増えてくる。そして丁度、入学式の一月前くらいになると、文字は急激に整い、漢字も多くみられた。均等な大きさで、やや風に吹かれたような字は、紛れもなく美夜のものだ。
 そして全ての指令書の裏には、その時の状況が簡潔に記されていた。いつ発見し、標的の行動、どこで"狩った"か、手間取った場合はその原因も。

「真面目というか。……何も知らなかったんだな、俺」

 自嘲をこぼして、指令書の裏のそれをゆっくりと読む。ただ仕事に関することしか書いていないのだが、彼女の過去に触れられるようで、ゆっくりと目を通していた。

"きょうは、3人。いっしょにいたから、すぐにおわった。1入、ぶきもってたけど、だいじょうぶだった。"
"いどう中に会った。コート引っかかってバットウが遅れた。すその長い服はもう着ない。"
"予定通り四人。子供の誘拐場面に遭遇、その場で一人。子供は気付いてないので問題ナシ。あと三人はその日の深夜に集合、路地裏で処理完了。"

 美夜が学園へ来てから一番古い指令書の日付は、零と優姫が街へ下りていた日。つまり月の寮で夜会があった日であり、夜刈が学園へやって来た日であり、美夜が零を庇った日だ。
 学園へ来てからは、仕事をしていなかったのだろう、日付が飛んでいる。次はいきなり長期休暇中になっていた。ハンター協会から学園に戻るとき、鉄道の中で報告書を作っていた分だ。

「……美夜」

 自分は本当に何も知らなかった。美夜が隠していたから、ということも大きい。何か引っかかることがあっても、美夜から無理に聞き出したくなかったもの事実だ。後悔しても無駄だと分かっている。
 分かっていても情けないと思うし、悔しいとも思う。今だってそうだ。ぼろぼろになっている美夜の傍にいたいのに、こうして大人しく仕事をこなしている。
 人手不足も否定しないが、どこかで自分は怖がってしまっている。何も知らないくせに、と美夜に拒絶されることを。絶対に拒絶されないと、一体誰が言いきれるのだろう。

「美夜……それでも、俺は――――」

 続く言葉を飲み込んで、黒のファイルを閉じた。
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