05


 私立黒主学園月の寮にて、布団に潜ったまま唸る男子生徒がいた。

「……あ゛ー」

 なんせ、外が騒がしいのだ。月の寮に住む夜行性の彼らにとっては本来眠っている時間の今、騒いでいるのは、当然月の寮の住人ではない。

「せっかく熟睡しかかってたトコロなのにー……」

 英は眉を寄せ、もぞりと体を起こした。月の寮では特に珍しくもない天蓋付きでフカフカのベッドは、僅かにラベンダーの香りがする。

「寮の門の方がなんか騒がしい……。普通科の娘たちだよねー……」

 いつもは自身が笑顔を振りまく対象だが、この時間ばかりは恨めしい。吸血鬼とは言え、睡眠が不必要な訳ではないのだ。
 何なんだよー、英が呟くとほぼ同時、シャッと勢い良く部屋のカーテンが開かれた。騒がしさに目を覚ましてしまったのは、英だけではないようだ。

「暁!眩しいっ!」
「ホント……昼の女子浮き足立ってるな」

 英は、自らに降り注ぐ清々しい日光を手で遮ろうとするも上手くいかず、座ったまま布団を被ることでそれから逃れた。
 窓際に上半身裸で立つ暁は、眩しそうにしながらも、英ほどではないらしい。カーテンの影に入ってはいるが、窓際に立ったままだ。彼は騒ぎの原因に思い至ったようで、布団を被ったまま不機嫌を丸出しにする、イベント好きの従兄弟を見て小さく笑った。

「あー、あれだ、今日は……女子が好きなヤツにチョコ贈って告白する日……」

――そう、本日は"聖ショコラトル・デー"なのだ。




 英が騒ぎで目を覚ましたのと同時刻。月の寮前には、ラッピングされた箱やら袋やらを持った普通科の女生徒が大勢集まっていた。

「うわあ……」
「今から夜間部を待つ気?!」

 騒ぎに駆け付けた優姫と美夜だが、美夜はその様子に顔を引きつらせる。
 驚きつつ呆れる優姫が、我に返って人混みに突っ込んでいく。美夜も慌てて優姫に続き、落ち着きのない女子生徒の中へと走った。

「優姫?!危ないっ」
「だいじょーぶっ」

 月の寮を囲む塀を軽やかに登ってしまう優姫は、流石と言うか何と言うか。自前のホイッスルを鳴らして、女子生徒に授業に向かうよう注意する。美夜は塀を登れないので、地面に立って声を上げた。

「皆さん、早く授業に向かってください!夜間部の方は眠っている時間なので、あんまり騒ぐと嫌われますよ!」

 特に後半に力を込めて叫ぶと、彼女たちは今し方気がついたようで、互いに顔を見合わせていた。手応えを感じた美夜は、心の中で小さくガッツポーズを決める。

「だから、夜間部の安眠を妨害したくないのなら、校舎に戻ることをお勧めしますが」
「それに、昼間、ヤツらは月の寮から絶対に出て来ない。……渡したい物があるなら、宵の刻、校舎の入れ換え時間に来るといい」

 柔らかく促す美夜とは対照的に、何時の間に来たのか、零が棘のある声を発した。
 ギロリと効果音が聞こえそうな睨みも効いて、女子生徒は静まり返って零を見つめる。

「あんまりはしゃぎ過ぎると、せっかくの今日だけのイベントだってのに、中止になるかもな」

 止めとばかりに零が言うと、女子生徒はブツブツ言いながらも校舎へと向かって行く。美夜は、良かったと彼女らに溜息を吐き、隣に立つ零を見上げた。

「おはよう、零」
「ああ」

 塀から降りてきた優姫が、自分の頭くらいの位置にある零の肩に手を置いた。その表情はどこか悲しげである。

「……わざわざ聖ショコラトル・デーに女子を敵に回すような発言しなくても……」

 義理チョコも貰えないよ、と呟く優姫を零が、どうしろってんだ、と睨む。こんなやり取りはいつもの事で、すっかり慣れた美夜は仲裁に入ることはしない。
 しかし思わず引っかかってしまった所があり、未だじゃれる――美夜にはそう見える――零と優姫に問うた。「義理チョコも貰えない」と優姫が言っていたということは。

「零に告白する子っていないの?」
「いるわけねーだろ」
「え、そうなの?」
「いっつも眉間に皺寄せてちゃね」

 眉間の皺は否定しないけれど。
 急にどうしたの、と首を傾げる優姫から零へ視線を移動させた美夜は、至って真面目に言った。

「不思議だね、零格好良いのに」

 普通科の女子生徒にはいつも注意をする立場だから、嫌われてしまうのかもしれないけれど。

「ねえ?優姫」
「わ、私にふるの」




 恐ろしい勢いの女子生徒を何とか静めた三人は、今度は理事長室にいた。理事長と机を挟んで並ぶ。

「何かのはずみで夜間部の正体がばれるかもしれない。いつも以上に気を張ってくれたまえ!」

 夜間部全員が吸血鬼であることを、普通科の生徒はもちろん教師でさえ知らないのだ。美夜、優姫、零の三人は風紀委員と名がついているが、実質は夜間部の秘密を守る"守護係"である。
 理事長の言葉に元気良く返事をする優姫と、静かに了承する美夜の間で、零がため息を吐いた。

「んな行事中止にすりゃいーだろーに……」
「錐生くん、そんなコトしたら暴動起きるよ?」

 ガス抜きだよガス抜き、と何故か木切れで補強された机に、両肘を立てて理事長は言う。美夜が優姫から聞いた話、理事長の発言に怒った零がこの机を叩き割ったことがあるらしい。見てみたいな、とこの机を見る度に思っていたりする。

「それもこれも、ウチの吸血鬼の彼らが一様に見目麗しく優秀過ぎるせいだね……いやはや、味方だと何とも頼もしい人材」

 背景を輝かせて続ける理事長に、零が射殺せそうなほどの視線を向ける。俺の前でヤツらを褒めちぎんな、という零の心の声を優姫が代弁すると、命の危機を感じたのか、理事長は素直に口を閉じた。
 机が割られるかと少し期待していた美夜は、零の爪が机を抉っているのに気が付いた。
 一呼吸おいて真面目な表情になった理事長は、椅子から立ち上がって先程まで背を向けていた窓の外を眺めた。

「……まあ、遥か昔から吸血鬼は人間の"敵"だったわけだけど」

 理事長が人間と吸血鬼の架け橋になりたいと思っていることを、美夜は理解している。その考えを、零に理解して欲しいと思っていることも知っている。

「無理ですね」

 零はいつもそう言って、理事長の言葉を一蹴してしまうのだが。
 今回も同じ展開だった。理事長が零に更に口を開く前に、ずっと黙っていた美夜が前に出る。吸血鬼を嫌っていない美夜は、どちらかと言えば理事長側になるわけだが、あからさまに理事長の肩を持つことも、零の意見を否定する事もしない。
 この後気まずい空気を払拭しようと優姫が苦労するのは目に見えているので、美夜は先手を打つことにした。

「真面目な話は置いておいて……はい、理事長」

 背中に回していた手に持っていた紙袋から、ラッピングされた小振りな袋を取り出した。

「聖ショコラトル・デーのお菓子です」
「おお!ありがとう美夜ちゃあああんっ」

 二コリと笑って手渡すと、理事長は満面の笑みで袋に頬ずりをする。

「はい、優姫と零も」
「わあ、ありがとー!」
「……さんきゅ」

 それぞれにも手渡して、あとは沙頼だな、と袋に残った一つを見る。

「じゃあ私からも」

 優姫がそう言いながら、ポケットを探り始める。
 ポケット?お菓子をポケットはまずいんじゃ、と思いながら見ていると、出てきたのは小さく折りたたまれた紙だった。

「理事長と、零と、美夜!」

 かさりと渡されたそれを広げると、どうやらオリジナルのチケットらしい。美夜が受け取った物には、

「一緒にお出かけ三回分?」
「うん!」

 今度お買い物とか行こうね、と笑顔で言ってくる優姫に、思わず頬が緩む。理事長には肩揉み券二十回分が、零にはパシリ券一回分がプレゼントされたようだった。途端理事長は銀河へと旅立ち、零は「小学生かよ」と鼻で笑う。一方の美夜はへらっと笑いながら、零に反論する優姫を抱きしめていた。

「優姫ありがと!可愛いなあもう」
「な、急にどうしたのっ」

 優姫とお出かけだったら何度だって行くよ、と抱きしめたまま言った。顔を赤くした優姫は驚いていたものの、すぐに美夜の背に手を回す。

「美夜に喜んでもらえて嬉しいなあ」

 女子二人がきゃいきゃいと盛り上がる中、零は一人ため息をついた。




「あー……あと一講で終わりーっ」

 大きな欠伸をして机から顔を上げた優姫が、力の抜けた声を出した。

「おはよう優姫」
「あはは、おはよう」

 授業中眠らない美夜は、目をこする優姫にひらりと手を振った。眠らない分、かなり寝不足ではあるが、こればかりは仕方がないと諦めている。その分と言っては何だが、夜間部が休みの日には部屋で存分に眠りについている。
 美夜の隣に座る沙頼が、教科書を揃えながら教室を見渡した。そんな彼女の荷物の隣には、美夜からのお菓子がきちんと座っている。美夜も沙頼から貰ったお菓子を、持っていた袋に入れている。

「みんな、そわそわしてるわね」

 沙頼の言葉が、教室内の女子生徒がラッピングのリボンだの、味の心配だのの会話を、落ち着きなく交わしている様子を指していることは明らかだ。
 花が飛び交っている空気を、沙頼と同じく完全に人事として眺める美夜は、頬杖を付きながら口を開いた。

「恋する女の子は可愛いなあ」
「……時々美夜は面白いことを言うわよね」
「そう?」

 小さく笑った沙頼に返し、そういえば、と問いかける。

「沙頼は誰かにあげないの?」
「うん、なんか別に」

 優姫が「夜間部は?」と問いかけるも反応はイマイチだ。ある意味賢明な判断だと言えるそれに、美夜は苦笑した。話の流れでか、今度は沙頼が優姫に言った。

「美夜と優姫は?」
「私は優姫と零と理事長と沙頼で終わり」

 実は夜間部からも、数日前の出待ち警備中に催促されたのだが、生憎買っておいた材料ではとても足りなかったので断っていた。埋め合わせに、今度何か作ることになってしまったが。
 さらりと返す美夜とは反対に、優姫はどもりながら首を振った。

「優姫……見えてるけど、リボン」
「わ、私は買ったやつなんだけど……」

 優姫のスカートのポケットから、確かにリボンがのぞいている。ポケットに入るんだ、と妙なところで感心した美夜は、後ろから鋭い視線を感じて振り返った。

「お前風紀委員のくせに……やるのか、あいつに」

 さっきの授業では眠っていた零が、黒いオーラを背負って優姫を睨んでいた。優姫が、十年前に自分の命を救ってくれた枢に好意を持っていることは、美夜も知っている。ばれた、と肩を揺らす優姫が気の毒で、美夜は零に笑いかけた。

「まあまあ、優姫だって女の子なんだし」
「美夜はそいつに甘いんだ」
「だって可愛いんだもん」
「……」

 何を今更、と首を傾げると、零にそっぽを向いてため息を吐かれてしまった。




 その日の宵の刻、月の寮前はいつもに増して賑やかだった。いつもは無い、夜間部生の名前が書かれたゲートが並び、そこに女子生徒がずらりと並ぶ。

「ひゃー……」

 さほど離れていないのに、優姫がホイッスルで女子生徒の動きを注意している声が遠く聞こえる。美夜は、適当な場所に腕を組んで立っていた。
 落ち着きない女子生徒の会話を聞き流しながら、一昨日優姫に聞いたこのイベントのルールついて思い出していた。
 至極シンプルなイベントである。夜間部生は自分の名前が書かれたゲートで、女子生徒からプレゼントを受け取れるだけ受け取れる。それだけだ。
 優姫も夜間部に説明し終えたようで、一番に英が駆け出すのが見える。が、すぐに動きを止め、枢と二、三言葉を交わすと、急に大人しくなった。

「注意されたな、あれは」

 小さく笑って、美夜も風紀委員としての仕事を始める。真っ先に目に入ったのは、自分のゲートを素通りしようとする千里だった。

「ちょ、千里さんっ。プレゼント受け取ってあげて」

 駆け寄って腕を掴む。千里は傍にあった自分のゲートを見て、ああ、と呟いた。

「メンドい……」
「そう言わずに」
「美夜のが無いし」
「今度何か作るから、ね」

 自分の言葉で彼の機嫌が取れるとは思えないがとりあえずそう言うと、千里は渋々ゲートへ向かった。千里がゲートで受け取っているのを見届け、他は大丈夫かと歩きながら周囲を見回す。
 憧れの先輩がいる手前、女子生徒はとりあえずルールに則ってプレゼントを渡していた。夜間部生も――反応はそれぞれだが――スルーせずに受け取っている。

「あ、美夜ちゃん」
「拓麻さ……凄い量」

 声を掛けられて振り向くと、そこには動くプレゼントの山。ギリギリ拓麻の目が見えるくらいだ。美夜は彼が話し易いよう、近付いて横に並んだ。

「前見えるの?」
「何とかね。あのさ、少し先なんだけど僕の誕生日パーティーを寮でするんだけど、来てくれない?」

 どうかな、と微笑む拓麻に、美夜はすぐ頷いた。

「お邪魔しようかな……あ、じゃあその時に、今日の埋め合わせ持っていくね」
「ほんとに?楽しみだなあ」

 お仕事頑張って、と彼はプレゼントを落とさないよう注意しながら歩き出したので、美夜はお疲れ様と言って見送る。

「……本当にごめんね」

 何がごめんなのかと声の主を探すと、教材を脇に挟んで、手にそれぞれ二つくらいのプレゼントを持つ枢がいた。美夜は、枢の言葉に深々と頭を下げる女子生徒を見て状況を把握した。
 まだ、持てるでしょう。確かに手は一杯だけど。拓麻とのサービス精神の差は何なんだ、と苦笑して、枢の持つ物に優姫のプレゼントが無いことに気付いた。
 少し走って、暁のゲートで女子生徒を抑える優姫を見つける。

「優姫、優姫……っと」

 暁にプレゼントを渡したい女子生徒が多く列を分けたため、こちらの列に暁が来ていないらしい。それに不満を持った女子生徒が、今にも暁の方へ行こうとしているのだ。

「優姫っ」
「あ、美夜!」

 美夜は優姫を女子生徒から剥がし、入れ替わるように自身の体で女子生徒を抑える。その早業に呆気に取られる優姫に、美夜は顎で枢のいる方向を示した。

「早く行って来なよ。行っちゃうよ、枢さん」
「え?!でも、私なんかの貰っても……」

 美夜は転ばない様に足を踏ん張りながらも、優姫に笑いかけた。

「嬉しいに決まってるよ。優姫からのチョコ待ってるから」
「そうかな……うん、よし、行って来る!」

 優姫は自信無さ気にスカートのポケットに手を入れたが、すぐに顔を上げて「ありがとう」と叫びながら走って行った。優姫が枢を引き留めたのを確認して、ほっと胸を撫で下ろした。
 暁に、少しでもいいからこちらにきて欲しいと必死で視線を送ると、気付いた彼が軽く手を上げる。と、同時に、少し前までいた風紀委員が欠けていることに気が付いた。

「零……まさかサボった?」

 暁の登場で一層興奮する女子生徒を鎮めつつ、この大変な時に、と美夜はため息を吐いた。




 聖ショコラトル・デーの喧騒から離れたある建物の中で、廊下の隅に座り込んでいる普通科の男子生徒がいた。息が荒く、額には汗の粒が浮いている。何かに耐えるように自身を抱きしめ、時折体を震わせた。

「……っは、絶対にいやだ」

 視線の先では、彼が振り払ったことで割れたコップが無惨に散らばり、その中に入っていたらしい液体が床を濡らしていた。

「……ったく、零?」

 彼が――零が、苦しげに表情を歪めたまま顔を上げると、無表情でしゃがんでいる理事長と目が合う。理事長はコップの破片を片し始めながら、淡々と言った。

「もう今まで通りじゃいられないことを、いい加減に分かりなさい」
「ッ……く、あ……っ」

 自らの腕に爪を立てて、苦痛をやり過ごそうとする零に、理事長はきつく眉を寄せて破片を睨んだ。もし零が素肌に爪を立てていたなら、それは容易に肌を突き破っていただろうと言うくらい、零の手には力が込められていた。

「……もう分かっている、か」

 理事長は呟いて、暗い中、小さな破片も見落とさないよう目を凝らした。




 無事に聖ショコラトル・デーの片付け、夜の見回り、夜間部のお出迎えを終えた美夜は、私的居住区のバスルームへ向かっていた。
 いつもは優姫と入る事が多いのだが、今日は「枢センパイにチョコ渡せたのは、美夜のお陰だから」と優姫にゆっくり入って良いよと言われてしまった。美夜としては優姫と一緒でも楽しいのだが、折角の言葉を無下にも出来ず、提案に乗る事にしたのだ。

「結局零は来なかったし……」

 彼が、朝から僅かに顔色が優れないことは気付いていたが。
 美夜はずるずると壁に体を預けながら歩く。「ノックしてね」という貼紙のあるバスルームのドアの鍵が開いている事を確認して、ドアノブを回した。すると何故か脱衣所に、上半身裸の零が座り込んでいるのが視界に飛び込んだ。

「ゼ、わあ、ごめ……?」

 鍵掛けとかなきゃ、と非難めいたことを思いながら開いたドアを閉めようとしたが、零はどこか様子がおかしかった。美夜が入って来たというのに、何の反応もしないのだ。視線すら動かさない。

「……零?」
「……」

 取り敢えず入った美夜は後ろ手でドアを閉め、荷物を洗面台に置く。背中を壁に預ける零は俯いたままで 、美夜は一人首を傾げた。

「どうしたの」

 肌を見ないようにしながら横にしゃがんで顔を覗き込む。が、やはり無反応だった。髪をちゃんと拭いてすらいない零は、どの位こうしているのか、髪から伝った雫で体が濡れていた。彼がふざけているのではないと嫌でも分かった美夜は、零が肩に掛けているタオルに触れた。まだ十分乾いている。

「風邪引いちゃうよ、拭かないと」

 躊躇っていたが、美夜はタオルを取って零の頭に乗せると 丁寧に水分を拭き取った。乾いたかな、と手櫛で髪を整えていると、水分で重かったそれはさらりと指を通り抜ける。少しの間そうして髪を触っていれば「何しやがる」と睨みつけてきそうなものだが、今は目を合わせもしない。
 綺麗な髪で羨ましい、と呟いて、体を伝う水分を拭き取り始めた。考えない様にしてはいるのだが、無駄なく引き締まった筋肉にどうしても目がいってしまうので、さっさと終わらせる。

「よし終わり。上着は……?」

 立ち上がってタオルを洗濯機に放り 、零が持って来ているであろう寝巻きの片割れを探す。
 美夜が荷物を置いた傍にそれらしき物を発見した。広げて持ってみて確信してから、零の右横に膝立ちになる。

「……あのね、零」

 腕を通す事は出来ないので肩に引っかけるだけにしておく。美夜は零と並んで座り、俯いたままの横顔に話しかけた。

「私は零と知り合ってまだまだ短いけど、それなりに仲良くなれたんじゃないかなって思ってる」
「……」
「人に言えない悩み事とかあるのかもしれないけど、あまり思い詰めないでね。……慰めてほしいなら慰めるし、傍にいてほしいなら傍にいるし、立ち去ってほしいなら立ち去るから」

 ね、と反応の無い横顔に笑いかけた後、一人で苦笑する。今はそっとしておくべきらしい、風呂はもう少し経ってから改めて入ろう、そう判断して部屋を出る事にした美夜だったが、不意に左手を掴まれて動きを止めた。

「……震えながら言われてもな」
「仕方ないでしょう」

 美夜は立ち上がろうとしていたのを止めれて腰を落ち着ける。自分の判断は誤っていたらしい、と美夜はやっと口をきいてくれた零に安堵した。
 美夜は握られている左手を見て小さく笑う。まるで子供みたいだと思いながら大きな手を握り返す。

「……零は、甘えただね」
「知るか」

 零は手を繋いだまま座り直して、美夜と体が触れるくらいまで近付いた。美夜は体を固くしながらも、何処か心地良い気がして、少しだけ体重を預ける。

「……?」

 何も触れていないはずの右手に、何かが当たった。美夜はそっと右手だけを動かしてそれを拾い、ちらりと視線を動かして確認する。白く小さいそれは吸血鬼が常備する血液錠剤――BL-XXXV06ε。
 美夜は驚くことも動揺もせず、ただ零の様子が腑に落ちただけで、何事も無かったかのように視線を前に戻す。静かにそれを握って手の中に隠し、ゆっくりと目を閉じた。体の左側が零に触れている温かさを感じているのに、右手に握る感触の方が、やけに鮮明に感じられた。
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