06
四年前の雪の日、彼はやって来た。
「この子の家族はね、悪い吸血鬼に殺されてしまったんだ」
優姫の義父である理事長に連れられ、玄関に立つ年の近い少年。大人用のコートに包まれた彼の顔色は悪く、だが悲嘆や安堵の類は全く感じられなかった。
ただ、溢れ出るのは憎悪のみ。
「彼は錐生零くん。今日からうちで暮らすからね」
「う、うん……」
彼は一言も話さず、目も合わせない。前を向いているのは確かなのに、その視線は何処か遠くを睨んでいるようだった。
各方面に用事があるから、と慌ただしく出て行ってしまった理事長を見送って、優姫は恐る恐る彼に近づいた。
「えっと……お風呂……」
廊下の方を指差して言うが、彼は動こうとしない。こちらの言葉が届いているのかと不安になるが、このまま玄関に立たせるわけにはいかないので、極力優しく、零の両肩に手を置く。
「触るね……行こう?」
僅かに力を入れて押すと、零はそれに合わせて足を進める。それに少し安心して、優姫はバスルームへと促した。
いつも過ごしている家なのに、どこか空気が違うのは、零がいるからなのだろうか。二人でゆっくりと廊下を進んでいるのが、とてもとても長く感じられた。
「ここが、お風呂だよ。お湯張ってあるから、自由に使ってもらえれば……」
バスルームに到着し、浴槽を指差す。しかし零は、予想通りではあるが、バスルームに入った時と同じ体勢で動かない。どうしようか、と優姫は一人首をひねる。とりあえず着替えはしなければ、と自分を奮い立たせて零の正面に立った。
「えっと、脱がすよ?」
☆
大人用のコートを脱がせると、零は上半身に何も纏っていなかった。
優姫は思わず息を呑んだ。左側の首筋に、べっとりと血が付着していたから。まさか怪我をしているのだろうか、と少し顔を覗き込んでみるが、零は痛がっている様子はない。困惑したまま、優姫はタオルをお湯で絞り、そこへと伸ばした。
「拭いていいよね……?」
反応はない。
優姫はそれを了解ととって、血をぬぐい始める。しかし乾いてしまっているからかすぐには拭き取れず、何度かタオルを絞りなおした。血が綺麗に拭き取られると、傷一つない零の首筋があった。
怪我じゃ、ない。そうほっと安堵するのも束の間だった。怪我でなければそれは"誰かの血"なのだ。良かったの一言では片付けられない。
彼は"悪い吸血鬼"に家族を殺された。
「着替え、探してくるから」
零をちゃんと風呂に入らせることは出来ないので、優姫はバスタオルを羽織らせて、自分のTシャツを取りに走った。
早く、彼の所へ戻らなければ。
部屋をあさり、零でも着られそうな服を引っつかんで、バスルームへ引き返す。
どうして、彼に一々お伺いを立てて接したのか。どうして、それほどまでに急いでいたのか。一瞬でも目を離すと、消えてしまうんじゃないかと。壊れてしまうんじゃないかと思っていたからだ。
「お、おまたせ」
だから、息を切らせてバスルームに戻ったとき、変わらぬ様子で立っていた零に、心底安堵した。
*
朝の起床時刻は、ベッドに入ってからたった四時間ほどでやって来る。すっかり慣れた動作で制服に着替えた美夜は、睡魔を何とか退けて髪を梳かし始めた。飾り気もなく、いつものように後ろで一つに結う。
「……」
ベッドに腰掛け、室内履きから学園指定のブーツに履き替える。
頭をよぎるのは、昨夜の――日付けは越えていたが――零の様子だった。彼自身の限界が近いのだと認めざるを得ないのは予想通りであるが、気を引き締めなければ、と改めて思う。
「……守らなきゃ」
あの人の大事な人が、傷付くことのないように。そう思うことは確かなのに、最近はどうも私情が過分に混ざっている気がしてならなかった。そんなことあるはずが無いし、あってはならないのだが。
考え込んでも答えは出ない。より思考が絡まってしまうだけなのは、ここニ、三日で経験済みだ。
美夜は悩むことを無理矢理中断して立ち上がり、靴の先で床を軽く叩いた。
「うん、行ってきます」
ソラに一つ笑いかけ、鞄を手に取った。
*
放課後、美夜の目の前にはすやすやと寝息を立てる優姫の姿。クラスメイトはほとんど教室を後にしていて、残っているのは風紀委員の三人となっていた。
「……起こせよ」
「なんか起こしにくいの。気持ち良さそうで」
零が教室のドアを開けた体勢でこちらを見る。美夜は、どうしよう、と真面目な顔で零に問いかけた。
「どうしようも何も起こせよ」
ため息混じりに零が言うと同時、優姫が目をこすりながら体を起こした。美夜は優姫が起きてくれたことに一先ずホッとして、どこかまだ覚醒しきっていない優姫に微笑みかける。
「先に風紀委員業務行ってるね」
「へ……あ、うんっ」
「さっさと補習終わらせて走って来いよ」
そう言い残して出て行く零に、そうしたいのはヤマヤマだけど、と優姫が呟く。美夜はふて腐れる優姫に小さく笑って、自分のノートを示した。
「これ、私のなんだけど、一応見やすくしてるつもり。良かったら使って?」
役立つか分かんないけど、と首をすくめる。
優姫は目を輝かせて、飛びつかんばかりの勢いで美夜に前のめりになる。美夜は学年ぶっち切りの首席で、夜間部の授業にも混れるのでは、と言われるほど頭が良いのだ。
「あ、ありがとう美夜!!助かるよー」
「だったら、良かった」
美夜自身は、さほど自分の能力についてどうこう思ってはいない。天才でもなんでもなく、本当に必死で勉強したことは、美夜の記憶に新しいのだ。努力に伴った結果程度に思っている。
「じゃあ私もいって来るね」
「うん……あ、あのね」
突然、優姫は表情を曇らせた。零が出て行った教室のドアを見つめ、どこか寂しそうに言った。
「今日の零……顔色が悪いの。四年前にうちに来た時くらい」
「……分かった、気を付けてるから。優姫は補習に集中してて」
確かに零の顔色の悪さは、昨日の比ではないくらいだった。美夜も当然気付いて注意していたが、その原因について知らない優姫はただ心配なのだろう。美夜は優姫の言葉に頷いて、駆け足で教室を出た。
零に追いつくべく走っていると、正面に二つの白い制服が目に入った。きゃあ、と周辺にいる普通科の生徒が色めき立って、自然と道が開ける。美夜は走るのを止め、名を呼びながら歩み寄った。
「枢さん、瑠佳さん」
「やあ、美夜」
「こんにちは、美夜」
普通科の生徒の視線が痛い気もするが、今は無視だ。校舎の入れ換え時間までまだ時間がある今、どうして二人がここにいるのかと首を捻る。
「理事長の所に行くのよ」
「あ、そうなんだ」
納得と頷いて、その場を立ち去ろうと口を開きかけた時、枢が相変わらずの微笑みを浮かべて美夜の頭に手を乗せてきた。
「毎日風紀委員業務、頑張ってるね……」
「はい、もちろんです」
「……気を付けるんだよ」
「あ、はい。ありがとうございます」
零の、包み込んでくれるような撫で方とは違う、壊れ物を扱う様なそれがくすぐったい。
枢は何か言いたげに少しの間そうしていたが、結局それ以上何も言わないまま手を離す。それを合図に、美夜は二人に笑って駆け出した。
「じゃあ、いってきます」
急いでその場から離れないと、普通科の生徒に襲われそうな気がした。
夜の見回りが始まった途端姿を消した零を、見回りを"ついで"に格下げして探していた美夜は、駆け足だった歩調を緩める。あまり運動を好まず得意ともしない美夜にとって、長時間のランニングは苦痛でしかない。
「もう……どこ行ったのー」
学園は広いのだ、人探しなんて無謀とも言えるだろう。優姫は零を心配していたが、どうせサボっていると思っているようだった。証拠に、彼女にとっては零の捜索が"ついで"らしい。美夜には好都合だ、今の零に優姫を近付けたくはないから。
美夜は高いところから見下ろせばいいか、と校舎の屋上に上がることにした。
「やっぱり"こっち"は不便……」
ため息を吐きながら屋上に出ると、学園内に多数植わる木々に遮られることない星空が広がっている。見回りで普段屋上に来ない美夜は、良い物見つけたとばかりに微笑んだ。
しかも、どうやら当たりらしい。複数の人の気配と僅かな話し声が届いた。普通科の生徒が就寝し、夜間部が授業を行っているはずの今、いるのは風紀委員か夜間部のサボりかのどちらかだ。
美夜は声のする方へ走り出し、複数の白を認める。
「……なあ、錐生もそんなもん引っ込めろよ――――んあ?」
夜間部数名と零がいて、決して友好的な雰囲気でないことが分かった。俗にいう私闘(ケンカ)というやつだろう。美夜が靴音をさせて近づいて行き、人の判別が出来るくらいの距離になった時だった。
対吸血鬼用武器である血薔薇の銃を構える零を宥めようとした暁が、見事な背負い投げを食らった。
「あ、暁さんっ」
地面を蹴る力を強くした美夜は、投げられた暁に手を伸ばす。美夜の気配は察していたのだろう、その場の誰も驚きはしなかった。
「ああ、悪いな」
「大丈夫?すごい綺麗に投げられてたけど」
「平気だ、こんなん」
苦笑する暁に一先ず安心して――そもそも、吸血鬼である彼が背負い投げ如きでどうこうなるとは思っていないが――睨み合う零と瑠佳の間に入る。
「これは、私闘ってことでいいかな」
念のため確認すると、瑠佳が気まずそうに視線を下ろしながら肯定する。零は反応を示さないが、鋭い視線で夜間部に剥き出しの敵意を放つ。
大方、自分達の主である枢に反抗する零が気に入らない夜間部が、零を袋叩きにでもしに来たのだろう。
「私闘は禁止っていう校則、ありましたよね?まあ、それはいいですけど」
「え、いいのか」
「いいんです」
校則違反を追及しない美夜に、暁が突っ込みを入れる。美夜にとっては校則云々より、零と夜間部の関係悪化を懸念していた。今更溝は埋まらないだろうが、わざわざ広げることもないだろう。
「いいんですけど……皆さんと零が私闘して、気に病む人がいるので」
頭を抱えるのは責任者である理事長や枢だ。後者に関しては、窓ガラスを割って終わりそうだが。
そして、優姫。彼女の悩みの種になる可能性が多いにある。怪我の有無に関わらず、優姫は自分を責めてしまうのだろう。それは避けたい。どんな形であれ、優姫を傷付けるのは許さない。
「私は零の味方にも夜間部の味方にもなりませんが……どうしても私闘がしたいなら――」
何としてでも、騒ぎを抑えて双方を引かせなければ。美夜は全員を見渡しながら、自らを昂らせる。ざわり、と空気が揺れた。
その場にいる全員が、美夜の雰囲気の変化に戸惑いを隠せないでいた。明らかに人間の発するものではないが、吸血鬼の気配はない。
「――まず、私の所に来てください。誰も悩む必要がないように、二度と私闘など考えたくなくなるように……私が、ぶちのめしてあげますから」
温厚な美夜から発せられた言葉に誰もが驚き、近くにいる瑠佳が息を呑むのが分かった。美夜は一つ微笑んで、自身の気持ちを鎮める。
人間の小娘にやられることなどあり得ない。だが、何故か歯向かい難い。皆の心境はこんなところだろう。
「……授業に、戻りましょ」
一番に歩き出したのは瑠佳だった。美夜がすれ違う瑠佳に「ありがと」と呟くと、瑠佳からは苦笑を向けられた。瑠佳に続いて歩き出す夜間部がいなくなると、残ったのは美夜と零の二人だけ。
「零は、どうする?」
一応問いかけるが、零は何も言わず俯いている。とりあえず戦意が無いことは明らかなので、美夜はじっと零の言葉を待っていた。美夜が立ち去る気が無いと分かったのだろう、零は弱々しい声で言った。
「……一人にしてくれ」
言うや否や、零は歩き出して屋上から去って行く。呆然とそれを見送った美夜は、少し遅れて零を追い始めた。すぐに追いかけても、零が拒絶する事は分かっていたから。
「一人になんて、しないから」
美夜は屋上から校舎内へ入る階段を駆け下りながら、小さな声で呟いた。
美夜が私闘の仲裁に入る、少し前のことだった。
校舎の入れ換え時間より前に理事長室を訪れていた枢は、瑠佳を教室へ帰し、会議から戻って来た理事長と向かい合っていた。
「待たせて悪かったね、枢くん」
「いえ……それよりも。あなたはいつまで、零を普通科に置いておくつもりですか」
早速本題を切り出す枢に、理事長は苦い顔をして眼鏡の位置を直した。
「やっぱり、君だけは欺けなかったか。……先祖から一滴も人間の血が混ざっていない、吸血鬼の中の吸血鬼――<純血種>の、君は」
「そうですね……あなたはご自分の平和主義を、彼に潰させるつもりですか」
理事長がそんなつもりで無いことくらい分かっている。それでも口にしてしまうのは、もう彼が限界であると分かっているからか、自分で練り上げた計画に対しての苛立ちがあるのか。大切なものを守る為に、それ自体を傷付けようとしているのだから。
少々鋭く指摘し、煮え切らない態度の理事長を見つめていた。
「錐生くんは、家族を殺されている……これ以上酷なことを出来ると思うかい?」
理事長の言うことも分かる。だが、彼はそれだけではないのだ。問題は襲撃された時に零の身に起こった出来事にある。
「……錐生家を襲ったのは純血の吸血鬼だったんでしょう?そして零は咬まれた」
問いかけてなどいない、事実を述べているだけ。言葉に詰まる理事長に、枢は机に両手を付いて言い放つ。
「――純血種に咬まれた者は、吸血鬼に変異する。純血種の牙にかかった者は、吸血が致死量に達して死ぬか、生き延びたとしても、じわじわと吸血鬼の本能に蝕まれるかのどちらか……」
零は四年前、純血種による襲撃に遭って家族を失い、自身は咬まれた。運良くか悪くか生き延びた彼は、自分が最も憎む存在への変異を余儀なくされている。
「彼が四年間、吸血鬼の本能に抗い続けた精神力は尊敬に値します」
吸血鬼の本能がいかに抗い難いものであるかは、枢も当然良く知っている。しかし零がどれほど拒んでも、逃れられることではなく、もう限界なのだ。
「……確かに、枢くんの言う通りだよ」
枢の真っ直ぐな視線に耐えられなくなったのか、理事長は険しい表情で俯く。
枢は、無意識に自分の爪が机を削っているのに気が付いた。無闇に窓を割らないように自分の力を制御する事は出来るが、行き場の無くなった感情を持て余していたらしい。
「あと、もう一つ聞きたいことが」
枢は手を机から離し、鋭かった視線や口調を緩める。零のこと以外に話があると思っていなかったのか、理事長は枢を見上げた。
「僕に何も連絡しないということは、あなたも知らないのだとは思うのですが……」
「何か、あったのかい?」
「彼女の……美夜のことなんですが」
理事長が眉を寄せて首を傾げた。
美夜は優姫を庇って英に血を飲まれて、それがきっかけで風紀委員となった普通科の少女だ。家族を吸血鬼に殺されたにも関わらず、吸血鬼を恐れない彼女の考え方は稀であり、夜間部生も良い印象を持っている。枢も例外ではなく、彼女の雰囲気は心地良い物だと思っているだが。
「美夜ちゃんがどうかしたの?」
「……何者ですか?」
「え、それってどういう?」
彼女から吸血鬼の気配はしない。純血種の自分が、吸血鬼であるかそうでないかという単純な違いを間違えるはずがない。が、人間とも括れない気がする。
美夜を疑いたくはないのだ。優姫を守ってくれた意味でも感謝しているし、夜間部の生徒の良い友人であると思っている。他の夜間部生は気付いていないであろうことを、枢は静かに理事長に告げる。
「――彼女には、牙があります」
人間にはないそれは、吸血鬼の証でもある。吸血鬼の気配が無い美夜にそれがあることは信じ難いが、以前笑って口元を隠した彼女を何気なく見ていた時に、確かにあったのだ。
「な、それは一体どういうことだろう、美夜ちゃんが――――枢くん?」
苦しい声を出していた理事長に名を呼ばれる。それもそうだ、枢の気配が突然鋭くなり、視線はドアに向いているのだから。
「血臭が……」
真っ先に思い当たるのは、当然零のこと。枢は呟き、そのまま理事長室を飛び出して臭いの元へ急いだ。しかしその血臭は、自分が予想していた者ではなかった。
まさか、美夜だろうか。計画変更による僅かな焦りと安堵という複雑な感情を持って、枢は足を進めた。
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