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眠りから覚めるような感覚。あるいは、海底から海面に浮上するような。ようやく頭に血や酸素が回った気がした。
牙を使っての吸血らしい吸血は初めてで、口の周りに血がついているのが分かる。手の甲や袖で数度拭ってから、零が自分に体重をかけてきていることに気付いた。
「っごめん、零……私、思い切り……」
「は、いいって。気にすんな」
少し体を離して顔を覗きこむと、予想通り顔色が悪かった。元々肌が白い方なこともあってか、肝が冷える程の青白さ。やりすぎたとはすぐに分かった。
とめてくれれば良かったのに、と言いかけて止めた。以前美夜自身も、同じようなことをして、同じことを言われていた。
零は自分を殺さないという確信から止めなかったのだが、今の彼も同じなのだろうかと思う。
「……謝るのは俺の方だ」
「え?」
「追い詰められていると知っていたのに……くだらないことで悩んで、来るのが遅くなった」
「……零が謝ることなんてないよ」
「いや、俺は……美夜が玖蘭李土を大事に思ってると知っていて」
零はそこで言葉を切る。
知っていて、知っていたから、知っていたのに、と呟く零の声はひどく苦しそうだった。
体はだるいだろうに、弱い力でも抱き締めてくれる。
「……零」
「ん」
「咬んでいいよ」
「……」
「あ、違う。咬んでください」
零の首に既に牙跡はなく、美夜は顔をすり寄せながら言った。
何だそれ、とかすれた声で零が笑う。ただ座っているだけでも気分が悪いだろうに、心配をかけまいとしているのだろうか。
血を失ったことで零が飢えていることくらい、当然美夜にも分かる。零が吸血に気が進まないことも、嫌というほど知っている。
「零が……李土のこと、気になるなら。全部見てくれていい」
「そんなこと……」
「私が拒まなければ、見られると思うよ。今までは……ちょっと、妨害してた。零も気付いてたみたいだけどね」
盗み見のような真似を、零は拒むだろうか。美夜は漠然とした不安を感じながらも、血から読み取ってもらうことを望んでいた。
全てを自分の口で説明するよりも簡単だ、という理由だが、全てを事細かに、冷静に話せる自信があまりないのだ。
「それに……零には、知っててほしいから」
「……悪い」
「それ、私のセリフなんだけどなあ」
広い背中に回した腕に、少し力を込める。全てを見た零がどう思うか分からないが、自分から離れてしまう可能性も否定できなかった。
気付くと、知らない場所にいた。
自分の身なりに変わりはないが、周囲の環境は全く変わっている。
腕の中にいた美夜はおらず、また体の気だるさはなくなっていた。
「……」
どうやら、ここは住宅街らしい。道路や歩道、建物がレンガ造りでないので、学園の近くではない。
自分が知らないだけでこういった環境もあるのかもしれないが、学園を基準にすれば相当遠い所のように思う。
零は自分が動ける事を確かめ、通りを歩いてみることにした。
家は多くあるが、人の気配はない。
ここが美夜の心の中――記憶の中なのは確実だ。だとすればこの場所はなんなのだろうか。
ズボンのポケットに手を突っ込んで歩き、少しするとある一軒家に目が留まった。
なんの変哲もない家だ。零はその家を目指して歩き、表札を見て目を見開いた。そこには楷書で、"晃咲"という文字があった。
「美夜の生まれた家……?」
そう呟いた直後、またしても風景が変わった。
次は薄暗い路地だ。暗く湿気ていて、居心地が悪い。
零は、こういう場所に吸血鬼が棲みつくことが多いと知っている。ハンターの美夜でもいるのか、と適当に歩きはじめる。
吸血鬼の気配は感じない。そもそもここは現実でないのだから、そういったものが感じられるのかも謎だ。
不意に、強い追い風が吹いた――否、何かが猛スピードで零を追い越したのだ。それはご丁寧にも零の体をすり抜けて、薄闇に向かっていく。
短い間しか視認できなかったが、零はそれを追いかけた。
十二、三歳と思われる小柄な人影は、腰に刀を佩いていた。ブラウスにズボンという今と変わらない仕事着で、違う所と言えば、肩につかない短い髪だった。
「美夜!」
まだ体が小さいからだろう、路地に消えそうだった人影との距離が小さくなっていく。声は届かないようなので、走る美夜らしき子供をじっと見る。
仕事をする時につけていた、ネックウォーマーはしていない。口を引き結んで、軽やかに路地をかけている。標的が先にいるのだろうか。深い緑の目は真っ直ぐ前を見据えていた。もちろん顔つきは幼いが、目付きや空気は年齢不相応なくらい落ち着いている。短い髪が新鮮だった。
美夜を追いかけて数分経った時だった。前を走る美夜が突然足を止めたのだ。かなりの速度で走っていたので簡単に止まれず、美夜は足で砂埃を巻き上げ、地面に片手を付いてスピードを殺していた。
零は幽霊のようなものだからか、すぐに立ち止まることが出来た。
美夜の急な停止に首を捻っていると、美夜は地面に片手をつけた姿勢のまま、ゆらりと顔を上げた。
すると、柔らかい茶色の髪からのぞく、深い緑と視線が交わった。あり得ない現象に、零は目を見開いた。
だが瞬きの一瞬で、さらに景色が変わる。幼い美夜に伸ばしかけていた手を引っ込め、零は溜め息を吐いて再び周囲を見回した。
「ほう、来たか」
「!?……あんた」
室内でも屋外でもないような、明らかに夢だと分かるような不可解な空間だった。足元は水のように漣を描いている。物があるわけでもなく、だだっ広い空間だ。
声のした方向を見ると、カウチに座る男がいる。
癖のある黒髪と、左右で色の違う目。美夜の世界だという人物がそこにいた。
「玖蘭李土……」
「静かにしろよ。起きてしまうからな」
カウチに横になり、李土の膝枕で眠る幼女がいる。腕には青い目のテディベアを抱いていた。
さきほど見た美夜よりもさらに幼い、おそらく五歳ほどだと思われる幼女だ。美夜だと言い切れるわけではないが、状況からみて間違いないだろう。
幼女は白いワンピースを着ていて、あちらこちらにフリルとリボンがデザインされている。頭にも白のリボンがあり、李土はゆっくりとした動きで少女の頭を撫でていた。
「……どうして、ここに」
「ここは美夜の記憶であり心の中だ。僕がいるのは当然だろう」
「俺を認識出来るのか」
「そうらしい。細かいことは気にするな」
学園で会ったときとは違い、敵意を全く感じない。不快な雰囲気もない。
これが美夜の慕っていた玖蘭李土なのだろうかと思う。
「この子にとって、僕が全てだ」
「……ああ」
「小さい頃に僕の所に来た美夜は、刷り込みのように、僕を中心にしていた」
「知ってる」
「だから世界であり柱である僕がなくなった美夜が、どうなるか。……壊れるか、新しい世界を作るかだ」
李土は美夜を撫でたまま、零を見て笑みながら述べる。
李土は自分が滅びたことを悲しんでいないらしい。時間から解放されたからか、美夜に滅ぼされたからかは分からなかった。
ただ、美夜が李土を大切にしているのと同じように、李土も美夜を大切にしていることは伝わった。
学園の屋上で李土が美夜を吹き飛ばしたのも、自分を滅ぼすという重荷を美夜に負わせたくなかったのだろう。
「錐生の狩人よ。お前に美夜の世界になる覚悟があるのなら、過去を知ればいい。……だが、少しでも迷いがあるのなら、すぐに目を覚ませ」
「……」
「家族を亡くし、次いで僕を亡くした美夜は、二度も世界を失っている。三度目は無い、必ず壊れる。単なる興味でここまで来たのなら――――」
「俺は美夜を離してやるつもりなんて毛頭ない」
李土が言い終わらない内に被せて言うと、真顔で零を見据えてくる。
零は怯むことなく、半ば睨むようにして言葉を続けた。
「美夜を離す気はないし、誰かにあいつの世界を譲る気もない。……あんたにも美夜を渡す気はない」
「餓鬼が生意気を……」
きっぱり言い切った零に李土はそう言い返してきたが、その口元は笑っていた。
李土は眠る美夜に一度視線を落とし、微笑みかけてから零を見やる。
「美夜を悲しませてみろ、僕がお前を殺してやる」
李土がそこで初めて、僅かに殺気を滲ませた。零は、望む所だと同じように殺気を返す。
面白がっているような李土は、すぐにそれを消し、零に人差し指を向けた。正確には零の後方を示しており、零が振り向くと、忽然とドアが現れていた。
行け、ということらしい。李土のにやりとした笑みは帆泉と近いものもあり、零は早々に李土に背を向けた。
躊躇いなくドアに向かうが、ドアノブに手をかけたところで動きを止める。
「玖蘭李土……今、現実で美夜が悲しんでいるのはあんたの死だ」
「……ああ、そうだな」
ドアノブに視線を落として、感情の読み取りにくい李土の声を聞く。
『……これ以上、私から彼を奪わないで下さい』
美夜が聴取の時に言っていた。学園にいた時よりもいくらか瘠せて、顔色も悪かった。零をまるでいないかのように扱う彼女に、つい苛立ったのは否定できない。さらに、死んでもなお美夜の柱となる李土に嫉妬したことも否定出来ない。
目覚めたら次は自分が支えになると、美夜に告げようと決める。このドアの向こうに何があろうとも、美夜が李土を大切に想っていても、関係ない。
美夜を支えたいことは事実だが、何より自分自身に彼女が必要なのだから。
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