76


 美夜の記憶をたどってきた零の前には、現実と変わらない姿の美夜がいた。目まぐるしく場面は変わっていくが、最低限の知識は頭に流れ込むので、混乱はなかった。
 今いるのは、ある古いホテルの薄暗い一室。普段協会本部の美夜の部屋で留守番するソラもおり、机に座っていた。
 山のような量の勉強をこなし――元々覚えが良いのか――、合間に粛正にも向かっていた美夜は、確実に疲労が溜まっている。
 あと一週間で学園へ発つというこの日、美夜は李土と会うために協会本部を出てきていた。
 負傷した李土と美夜が会うのはこれで三度目だ。美夜は鼻歌交じりの上機嫌で、窓から外を眺めていた。零はそのかたわらに立ち、決して交わらない視線を送る。
 しかし美夜の表情に怪訝な色が滲んだ。零はその意味が分からないまま、美夜につられるように部屋のドアへ顔を向ける。
 軽いノックに美夜が応じると、一人の男がドアを開けた。その男の目は左右同じ色――つまり李土ではない。

「貴方は元老院の……」
「ああ。李土様の器の奴が来られなくなってな」

 美夜に冷たい目を向ける男。美夜は落胆を隠しきれずに視線を落とす。男は「どうしてわざわざ俺が出向かなきゃならないんだ」と美夜を睨んで愚痴をこぼしていた。
 零は横目で美夜をうかがった。
 男の言いぐさに怒った様子はないが、珍しく苛立ってはいるらしい。二年ぶりに李土に会えると思っていたのに会えず、しかも八つ当たりされたのだから当然だ。
 彼女は李土が関わると感情が変わりやすいと、零は既に知っている。

「で、これ。本来は李土様が渡す予定だった資料だ」
「……ありがとうございます」

 男が軽く投げた紙束は、パスリと机に着地する。零は見覚えのあるそれに目を見開いた。
 美夜のファイルにあった、優姫や零を含めた学園生徒の個人資料である。
 零の小さな動揺に美夜はもちろん気付くことは無く、手に取ったそれをパラパラとめくっていた。

「"特待生"……"交通事故"……ですか」

 美夜の編入形式と、学園に行くのが入学式から一月遅れた理由の"設定"だ。
 本当は入学式の一月前から今まで、彼女は必死で勉強に励んでいたのである。それでもまだ十分とは言えないのか、美夜の鞄には今も参考書が入っている。

「やっぱり"影"のことはバレる可能性が高いと……?」
「多分な、吸血鬼もハンターも居ることだし。まあ、詳しい質問は"あっち"か"上"に聞いておけ。俺はただの連絡係だから」

 男からの"あっち"は、つまりハンター協会の事だろう。"上"は明らかに元老院の上層部を指す言葉だった。
 男は素っ気なく答えると美夜に一瞥もくれず、ドアを閉めることもせずに部屋を出て行った。
 美夜は視線を資料に向けたまま会釈だけをし、心なしか重い足取りでドアを閉める。

「"黒主、優姫"……」

 美夜は優姫の写真をしばらく見つめてから、全ての資料に目を通す。
 それを机に置いてソラを見た美夜の顔には、ほんのわずかな笑みが浮かんでいた。
 柔らかい手つきでソラを抱き上げると、愛おしそうに抱き締める。

「私が、守るからね……」

 小さな小さな呟きに、零は知らず眉を寄せていた。
 この事態の結末が呼び起こされて、思わず口を開く。

「……お前は、ちゃんと守ってくれた」





「どうしたの?」

 不意に聞こえた幼女の声に、零は弾かれたように振り返る。
 そしていつの間にか切り替わっている景色――否、戻っている。
 李土と相(あい)まみえた、外でも中でもない空間だ。足元はやはり漣を描いていた。
 零の視線の先には、李土の膝で眠っていたはずの美夜がいた。ててて、とソラを抱いたまま零に走り寄る。

「どうか、したの?」
「……お前は、」
「?」

 お前は幸せなのか。家族を失い、閉ざされた空間で生き、ハンターとして駒になることも厭わず、最後には世界を壊すことになってしまっても、今まで幸せだったのか。
 そう問おうとして、止めた。
 現実でもこの記憶の中でも、美夜は現状を嘆くということをしなかった。だからこその疑問だったのだが、それはただの愚問だ。
 美夜はいつだって、全てを自分で負おうとすると知っている。幸せだから嘆かないのではなく、全てを受け止めてしまうから、嘆く必要もなかったのだろう。
 きょとんを見上げてくる美夜に、零は口元を緩めた。

「今から……ちゃんと美夜を迎えに行くよ」

 少しの間を置いて、幼女はにこりと笑った。どうせこの子には通じないだろうと思っていた零は、予想外の反応に苦笑する。

「じゃあな、美夜」

 零はリボンで飾られた小さな頭を撫で、美夜は目を細めて笑った。





 あ、起きる。
 美夜はそう気付いて、汚れた服を洗濯機に放ってベッドに戻った。
 横になっている零が眠っていたのは十五分ほどで、その間に互いの首回りを拭き、美夜は着替えていた。
 ベッドに腰掛けるのも躊躇われ、椅子を引き寄せて座る。
 浅紫が現れると、美夜はどこかほっとした。

「……おはよ、零」
「……ああ」

 寝ぼけているのか、それとも何か思う所があるのか、もしくは両方か。零は呆と美夜を見てからゆっくりと体を起こした。
 そしてこちらに向き直り、強い言葉を発するのを遮って言った。

「どこまで行ってきたか分からないけど、大方、見てくれたと思っていいかな」
「ああ……色々なことを、見た。でも、それでも俺は――――」
「私、今ならまだ大丈夫だから」

 微笑もうとしてやめる。どの道上手く笑えはしないし、作った笑みは零の眉間に皺を作ることになってしまう。
 ただ背筋を伸ばして、膝の上で手を緩く握った。

「今なら大丈夫……私、耐えられるから」
「……何を」
「零と離れる事」

 零は純粋に驚いたらしく、眉を寄せつつ目を見開いていた。
 あまり見ない彼の反応に、美夜は小さく苦笑する。

「沢山迷惑かけておいてなんだけど……いや、だからこそ、これ以上迷惑かけたくない。李土のことで分かったと思うけど、私、結構重いからさ。……記憶をみて、私に嫌気がさしちゃってたら、今のうちに見捨ててほしいんだ」
「……」
「私は、零や優姫の敵を……李土を、忘れるなんて出来ないから」

 それで零を苦しめたくない、と呟くように付け足した。直接でないとは言え、李土は錐生家夫妻殺害に関わり、玖蘭家夫妻殺害の犯人だ。美夜はそんな李土を今でももちろん大切に思っている。
 敵(かたき)の置き土産を、好き好んで傍に置いておきたい訳がない。
 視線を落としてしまうと、深いため息が聞こえた。おい、と掛けられた声は低く、零が怒っているのは明らかである。
 ちらりとうかがうと、ほとんど向けられたことのなかった目が――自分の立場を明かした時ぶりに――あった。

「お前、馬鹿だろ」
「……失礼だなあ」
「玖蘭李土を忘れろ、なんて俺は言ってない」
「っでも、嫌でしょ……?」

 もう一つ、零がため息をつく。

「それなら、俺も美夜に言っておく。……俺は緋桜閑も玖蘭李土も許せない。そんな俺でも、美夜は求めてくれるのか?」
「う、ん。うん……」
「だったら、もうそれでいい」

 零が、呆れたような笑みをかすかに浮かべる。
 美夜は力の入らなくなった手を訳もなく動かした。
 嫌わないでいてくれるのはどうしようもなく嬉しい。それは確かなのに、でも、と思ってしまう自分がいる。
 零が李土を許せないのは当然だ。それ相応のことを彼はした。そして美夜もまた、零らにひどい仕打ちをしてきた。全てを知ってなお知らない振りを突き通し、何度も嘘を吐いてきたのだから。
 どうして、零は私を許すのだろう。それが分からないために怖いのだ。

「私、皆を騙して、優姫と仲がいいって理由で零にも……」
「俺と美夜の関係は、確かに厄介で複雑かもしれない。……けど、それを無理に解決しようとしなくたっていい。それに、」

 零は一度言葉を切って、きつく眉を寄せる。その苦しそうな表情に美夜は唇を引き結んだ。
 抑えられない不安が、高所から落下するときのような浮遊感となってつきまとい、姿勢を保つことで精一杯だった。

「納得出来ないまま美夜と離れるのは、この数日でうんざりなんだ」
「っ」
「迷惑になる訳がないだろ。俺はもうとっくに、美夜無しじゃいられない。――――もう、何だっていい。今お前がここにいて、俺を見てくれるなら」

 零が言い終わると同時、美夜は立ち上がって零に腕を伸ばしていた。ベッドに乗り上げて抱きつくと、彼も腕を回してくる。
 いつの間にか、零は自分に依存していたらしい。今までのことを思えばあり得ない話ではないが、零を危うくさせてしまったのは、きっと美夜自身のせいだ。
 もしも、零を支えたのが優姫であり続けたのなら、違っていただろう。優姫は人を照らして導くような、明るさと笑顔を持っている。一方で自分は――体質ゆえのものなのか――そう上手くいかないらしい。

「美夜の世界になるなんて、他の何にも譲ってやるかよ……」

 零を李土の代わりだと思っているわけではない。だが、自分の絶対的存在を失って浮遊しているところを繋いでくれる存在に、これ以上なく安堵する。執着の原因は自分にあるにせよ、傍にいてくれることが嬉しかった。
 零の肩に顔を埋めて、うわ言のように名を呼んだ。それに零が応え、美夜を呼ぶ。美夜が応えれば、抱き締める力が増した。

「美夜、もう俺から離れて行くな」
「零、いなくなったりしないでね」

 自分は本当に、どうしようもなく弱くて厄介な性質だ。
 美夜は密かに自嘲をこぼしながらも、腕の力は緩めなかった。





 美夜の部屋を出た零を待っていたのは、ほっとしたように微笑む理事長だった。と言っても、本当に零を待っていたのではなく、零に気付いて足を止めただけらしかった。

「大丈夫だと思っていいよね」
「……持ち直したとは、思います」

 ベッドに寝かせてきた美夜を思い起こし、零は小さく頷いた。最も不安定な状態からは抜け出せたと思いたい。
 理事長は、髪を下ろして黒いコートを着込んでおり、学園の責任者に相応しい格好をしている。出掛けるのかと問うと、理事長は苦笑して肯定した。

「あと少なくとも二月は落ち着かないだろうね……」
「……学園と協会は」
「学園の方は、しばらく夜刈くんに任せるよ。綻(ほころ)びが出ないように、数人のハンターが留まる予定だからね。……協会の方は、七瀬くんがしばらくは仕切ってくれる」

 帆泉の存在は、確かに協会を引き締めることになるだろう。しかし、大幅な戦力削減につながる。
 理事長もそれは重々承知なようで、苦い表情で息を吐いた。

「さっき雑談の延長で決めたことだし、まだ会議にかけた訳じゃないから、確定ではないけどね……。僕が学園に戻れば、夜刈くんが協会長代理に代わる予定だよ。七瀬くん、書類仕事大嫌いだからさ」
「美夜に仕事、させるんですか」
「最終的に許可を出すのは七瀬くんだけど……指令は下ると思う。七瀬くんと美夜ちゃんが抜ける穴は大きすぎるから」

 零は眉を寄せて視線を落とした。
 ハンターとして働くことは美夜本人も望んではいるが、本来ならば、ゆっくり休養すべき所である。
 本当に、世の中は美夜には優しくないな、と思わざるを得なかった。
 渋い表情をする零の肩を、理事長が軽く叩く。小難しい話はまたゆっくりすることになるよ、と今は休むように促してきた。

「夜刈くんは当然だけど、君も宿とってるんだろ?とりあえず着替えてきなよ」
「……そうですね」

 珍しくコートをきっちり着ている零は、首元に意識をやった。その部分のシャツは血で汚れており、乾いて変色してしまっていた。首筋に血痕がなかったのは、美夜の記憶を見ている時に、美夜が気を利かせてくれたからだろう。
 察しているらしい理事長は、それについて言及する様子はない。ハンター協会内での吸血行為など褒められたことではない――お互い吸血鬼のため、吸血自体に後ろめたさはない――が、理事長は柔らかい笑みのままである。

「今から夜だけど、ちゃんと休むんだよ。書類仕事を手伝わせられるかもしれないかど」
「分かってます。……理事長も、」
「うん?」
「……美夜が罪悪感に駆られるので、ほどほどにして下さい」

 零が淡々と言うと、理事長は一瞬目を見開いてから、微笑んで頷いた。





「…………行ったか」

 李土はソファに深く腰掛けて、長い足を組み直した。
 どこからともなく現れた幼い美夜が、ソラを抱えたまま隣に座る。彼女はわざわざ、訪問者の見送りをしてきたらしい。
 この空間は美夜の心に出来たもので、当然、李土が生きている訳ではない。美夜が李土から多くの血をもらっていたからこそ生み出された、ただの幻想だ。
 李土は決して美夜に会えないし、話すことも出来ない。
 美夜もまた、李土とコミュニケーションをとることは不可能である。自分の中にこのような空気があることも知らないだろう。
 ならばこの幼女は何かと言えば、李土にも分からない。だが、この時間という束縛を受けない空間において、これ以上ないパートナーである。
 李土は、いつも自分のことを考えてくれた彼女からの気遣いだろうか、と推測している。滅んでも尚、李土を一人にはしないと。
 しかし、深く考えても分かる訳がないので、「そういうものらしい」と思うに留めている。なにせ死ぬ経験などこれが最初で最後だ。

「寝るか?」
「んー……おさんぽいこう!」
「散歩?」

 李土はここに存在してから、この奇妙な空間以外を目にしていない。そもそもここには、時間はもちろん場所に関する概念も通用しないはずだ。ある少女の心の中なのだから。

「ここは、みんないっしょだからね。リドだっておひさまヘーキだよ!」
「……へえ、それは、面白いな」

 美夜は座ったばかりにも関わらず立ち上がり、やはりソラを抱えたまま笑う。幼いころからそれなりに空気の読める子供ではあったが、今目の前にいる美夜には、現在の美夜が強く影響しているような気がした。
 どの道やることもないのだし、と李土も腰を上げる。
 すると周囲の白い空間が一転、写真や絵画で目にするような野原が広がった。青く澄んだ空と、微かな風に揺れる草花、白く照らす太陽に、李土は珍しく目を見開いた。

「リド、おはなのわっかできるー?」

 表向きだけではあるが監禁されていた吸血鬼の自分が、何の障害もなく陽の光を浴びている。今まで太陽に憧れたことなど無かったにも関わらず、その事実がどこか面映ゆく感じた。
 太陽が高く昇る時間に、美夜と外に出たことなどない。美夜が好きだと言っていた青空の下は、思いの外居心地が良さそうだった。

「花冠のことか?」
「おはなのー……?」
「花冠だな。……さあ、どうだろう。なにせ、このような状況自体初めてだからな」

 美夜がソラを抱えたまま、とととと、と駆けていく。ソラが汚れるのではと思ったが、美夜にとってはソラと一緒にいることが重要だとは知っていたので、苦笑しただけだった。
 気に入る花を探す美夜を追いながら、ふと、現実の美夜が夜の住人に戻ったことを思い出した。
 年齢が上がっているので昔ほどではないが、陽の刺激は強いだろう。それでも、美夜には明るい場所の方が似合う。
 いけ好かない狩人が、その傍らにいるのだろうが。

「そうえいば、僕は嘘を言ったな……」

 彼に向けた自分の言葉を思い返し、薄く嘲笑を浮かべる。

『三度目はない、必ず壊れる』

 あの時確かにそう口にしたが、より適切な表現はないだろうかと思案する。美夜の記憶をみた――程度は分からないが――あの男は、もう知っているかも知れない。
 美夜はとっくに、綺麗に壊れているだろう。『三度目はない、必ず滅ぶ』といったところか。

「自分を喰らおうとする者……まして家族の仇に尽くすなど、正気の沙汰ではない」

 李土は嘲笑を深くして、蒼穹を仰ぐ。
 以前は白く塗りつぶされていたはずの視界は、手を伸ばせば届くのではと錯覚してしまうほど、どこまでも青かった。
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