77


 ゆるりと瞼を上げた美夜は、ここ数日自分を悩ませていた飢えが消え、喪失感や焦燥感が薄れていることを、鈍った頭で認識した。そして部屋に残っている彼の残り香に、ふわりと一人で微笑む。

「ああ……そうだ」

 零が、私の傍を選んでくれたんだ。
 泣きなくなるくらい嬉しいのと同時に、近くに彼の気配がない事に不安を覚える。協会内にいることは恐らく確かなのだが、今は近くにいてほしいと素直に思ったのだ。
 美夜はベッドから下りると、置いてあった靴に足を突っ込んで、上着を持たずに部屋を出る。廊下は少し冷えていたが、寒さは二の次になっていた。
 [天守月影]があれば――吸血鬼として覚醒したことも手伝って――すぐに居場所が分かるだろうが、生憎刀は取り上げられている。
 気配を探りつつ、速足で移動する。
 途中、すれ違うハンターから怪訝な目を向けられるが、美夜のことを聞いているのか声をかけてはこない。また美夜自身も、何故か零の居場所を聞く気にはなれなかった。

「どこ、だろ……」

 まさか、もう学園に戻ってしまったのだろうか。もしくは任務に出てしまったのか。
 零がここにいないかもしれないという考えが浮かび、美夜はゆるく眉を寄せ――ハンター協会に本来あるはずがない吸血鬼の気配に、足の動きを速めた。
 そして一つの扉をノックもせずに開く。案の定、そこには少し驚いた様子の零がおり、しかし零も美夜の気配は感じていたようで、すぐに微かな笑みを浮かべていた。

「みつけた……」
「……起きてたのか」

 零がいるという安堵で、強張っていた表情から力が抜ける。
 ふわりと笑えば、歩み寄って来た零が美夜の頭を撫で、あやすように背中を叩いた。
 美夜は抵抗せずにそれを受け入れ、零の肩に額を摺り寄せる。

「悪い」
「ううん、ごめん」
「……大丈夫だ」
「うん」

 自分の不安定さと、零を精神安定剤にしてしまっていることに、密かに自嘲する。
 するとそこに、心底呆れた声がかけられた。

「若者よ、よそでやれよ。喧嘩売ってんなら買うぜ……?」
「ししょっ……あっ違います、離れます、すみません」

 この部屋にいたのは零だけではなかった。
 美夜は、はっとして零から体を離す。途端に表情を引き締めて背筋を伸ばし、白けた顔の帆泉に体を向けた。
 零は行き場の無くなった手を下ろし、だが美夜の傍から動く様子はない。
 じとりとした帆泉の目に、美夜は冷や汗をかきつつじっと立つ。零のことしか頭になかったので気付かなかったが、帆泉と夜刈も同じ部屋にいたのである。

「独り身の俺らへの当てつけか。なあ、夜刈」
「あんたはいるでしょう、奥さん」
「とっくに逝ったっつーの」

 帆泉が言いながらにやりと笑うのを見て、美夜はお叱りは免れそうだと胸を撫で下ろす。
 退室のタイミングを逃してしまったが、乱入した立場でいつまでも留まる訳にいかず、半歩後ろに下がった。

「すみません、退室します」
「あ、いや待て。丁度いい、アマモリにも話しておいてやる」
「?はい……」
「チッ」

 何故か不機嫌になる零。美夜は上司であり師匠でもある帆泉へ顔を向けたまま、横目で零をうかがった。すっかり見慣れた険しい顔つきに、帆泉からの話は彼にとって煩わしいものだと推測する。
 帆泉はテーブルに肘をついて、口角を上げる。これは零を面白がっている顔だ、と美夜は直感した。

「ハンター協会次期協会長は、そこの錐生零。まだ仮だがほぼ決定だ」
「……だから俺は、」
「お前が適任なんだよ、馬鹿弟子が」

 夜刈がぴしゃりと言い、零に反論も許さない。零は心底不服なようで、遮られても反論を続けようとする。
 美夜は数度瞬きを繰り返し、何を言われたのかをゆっくり把握した。ハンター協会長にいずれ零が就任するとは寝耳に水だが、実力や年齢を考えれば申し分ない。

「師匠か帆泉さんがするべきでしょう。俺は吸血鬼ですよ。そんな柄じゃありません」
「錐生兄……そんなに喋れるのか」
「馬鹿にしてるんですか」
「まあな。……別に、今すぐにってんじゃない。しばらくは俺が仕切るし、黒主が学園に戻れば夜刈が協会長代理だ。最低、錐生兄が高等部卒業するまではな」

 夜刈が書類を片付け始めたのを見て、美夜はちらりと時計を見る。もう日付を越えてしまっており、働きづめの彼らは休むべき時間である。
 夜刈は疲労を隠せない表情で、深くため息をついていた。

「状況が状況なんだ、向き不向きは二の次。血の気の多いハンターらにとって脅しになるかどうかってことなんだよ」
「実績だけで言えばアマモリでもいいんだが、ハンターの家系じゃねーしな」
「……零、私も頑張るよ」

 お前は反論してくれないのか、と零に見下ろされる。美夜には、師匠である帆泉の決定を覆す力などないのだ。
 流石俺の弟子、と帆泉が満足そうに呟く。
 美夜は零に内心で謝りながら、苦笑を浮かべた。決定を覆すことは出来ないが、応援や手助けを惜しむつもりはない。

「いいか、錐生兄は高等部卒業と同時に、正式に協会長就任。で、アマモリ。お前には三日後……いや、日付越えてるから明後日からだな。馬車馬のごとく働け」

 帆泉は夜刈が揃えた紙束の一つから、数枚の資料を抜き取る。ヒラリと示すそれが自分宛の指令書だと分かった美夜は、表情を引き締めて受け取った。

「あんた、それはないでしょう。美夜はまだ……っ」
「ありがとう、零。でも私が望んだことだから」

 元老院の壊滅にハンター協会長の死亡。美夜は直接聞いた訳ではないが、素行の悪い吸血鬼の報告は後を絶たない。しかも夜刈と帆泉が、前線からの離脱を余儀無くされているのだ、美夜の望みに関わらず指令は下っただろう。
 また、帆泉が美夜の細かな体調を気にする訳がないのだ。美夜はそれを重々承知している。
 帆泉はそういう性格なので、美夜への聴取を遅らせるよう要望したのは、非常に珍しい事態であったと言える。
 生憎美夜はそれを知らないが、知ることがあれば驚きや感謝を通り越して悪寒ものである。

「了解です、師匠」
「まだまだ増えるぞ」
「大丈夫です」

 "馬車馬のごとく"という表現は大袈裟ではなく事実だろう。美夜はやや遠い目をしつつ頷いた。

「んで、最後にコレなんだが……」
「ハンターから抗議がありそうですけど」
「知るか。適任だろ」

 帆泉がそう言いながら、テーブルの隅に置いてある箱を指で叩く。
 一辺十センチの正方形で、三センチ弱の厚みの箱が二つ積んである。どちらも黒いそれの、上側を美夜に寄越し、下側を零に投げた。
 美夜は資料を持ちつつ、ひとまず箱を観察する。蓋には、銀色でハンター協会の紋章と何やら文字が入っており――美夜は首をひねって零を見た。零も同じことを思ったらしいが、口にするより先に帆泉の声がかかる。

「あってんだよ。いいから開けてみろ」

 ここで疑問を無かったことにして素直に従う美夜は、やはり帆泉の弟子である。
 そして目に入った物に、文字の意味も理解した。だが驚きはあり、目を瞠目してソレを見つめる。
 蓋の文字は"Kiryuu Zero"。箱の中身は、シルバーのブレスレット――吸血鬼の"飼い慣らし"のものだった。

「これ零の……?」
「ああ。隠居ボケの小娘が、部屋に置いていたらしい。んで零の方は、新しく出来た天然記念物の制御装置(ブレスレット)」

 美夜は資料を脇に挟み、ブレスレットを持ち上げた。紋章の入ったプレートの裏にも零の名前がある。零が持つものには美夜の名前があるのだろう。
 元人間の吸血鬼が生活するためには必須である。しかしお互いが"そう"である自分達が持つのは、いかがなものか。

「……俺らが、互いに持てってことですか」
「立場的にはよろしくないですよね……?師匠が持っていた方がいいのでは?」
「出来るならそうしたいわ、厄介者ども。お前ら自分の実力考えろ」

 苛立ちを声ににじませる帆泉に、美夜は口元を引きつらせる。

「錐生兄は名門錐生家出身で、緋桜閑が吸血鬼としての親。そいつの血に加え、玖蘭枢と<レベル:U>のアマモリ、さらにアマモリを介して玖蘭李土の血まで入ってる。……アマモリは玖蘭李土を吸血鬼の親として、お陰で<レベル:U>が持ってる始祖風吸血鬼因子が目覚めるわ玖蘭李土から結構な量の血をもらってるわ……。
 その上、お前ら互いの血を飲んでんだろ?血の活性は薄れてるだろうが無くなる訳じゃないんだ、お前らの吸血鬼因子事情は訳分からん域に達してる。<元人間>のくせにな。
 そんな奴等が暴走してみろ、ブレスレットを簡単に合わせられる訳ないだろ。本人の近くにいる可能性を考えると、互いに持つのが一番いい。……アマモリに関してだけ言えば、気配消されたらどうしようもないしな。
 ……つーのが、表向きの理由」

 気だるそうに早口でまくし立てたのだが、どうやら建前らしかった。
 美夜は最後の一言に突っ込みそうになるのを堪え、口角を上げる自分の師を見る。
 帆泉はこの件に関して関心がないのか、欠伸をかみ殺して立ち上がる。夜刈も腰をあげていた。

「そもそもお前達、<レベル:E>に堕ちないんだから"飼い慣らし"は形だけで、周囲へのケジメとしての意味しかない。つまり、ブレスレットは誰が持とうが関係ないってことだ。分かったか」

 帆泉が美夜にデコピンし、零の脛を蹴る。避けられたがあえて受けた美夜は、デコピンにあるまじき痛みに小さくうめき、零は足を押さえてうずくまっていた。

「じゃーな、アマモリ、錐生兄」
「夜に休めとは言わんが……貴重な休みだ、さっさと部屋に戻っとけ。特に馬鹿弟子、学校に戻るんだからそれなりの生活しろよ」
「はい、お疲れ様です」
「…………」

 師匠二人が退室し、美夜は肩の力を抜いて、改めてブレスレットを眺める。
 零はコートを払いながら立ち上がった。

「零は……私が持っててもいいの?」
「……当然だろ。美夜は?」
「大歓迎、だよ」

 自分の左手の甲に彫られた刺青。吸血鬼化を抑制するためには、零のように咬まれた場所に施すのが一般的だが、自分は違う。純粋な拘束の意味でのソレ。
 形だけだとしても、確かに戒めになる。

「……大事にする」
「うん、私も。……足大丈夫?」
「……あの人は俺に恨みでもあるのか」
「さあ……」

 美夜は箱の蓋を丁寧に閉じ、苦い表情の零に苦笑した。





 ハンター協会本部に隣接する宿泊施設を、美夜は見送りのために訪れていた。吸血鬼に戻って間もない美夜は、朝九時の日の光にやや眉を寄せる。
 ロビーには、学園に戻る者が荷物を持って、迎えの車を待っている。
 夜刈や壱縷や零も、もちろんそこにいた。ロビーのソファには年長組が座り、美夜を含む年少組は柱の傍に立っていた。

「壱縷くん、傷はどう?」
「大体塞がってるよ、お陰様で」
「顔色も大分いいね……良かった、本当」
「……感謝してるよ。色々とさ」

 美夜はまだ、壱縷とゆっくり話してはいない。時間に余裕がなかったことも事実ではあるが、話す必要を感じなかったからだ。この短いやり取りで十分なのだ。
 復讐の為に元老院に入った壱縷と、元老院を裏切った自分。今更、何かを深く話す必要はない。
 軽く目を伏せた壱縷に、美夜は遠くを見るようにして微笑んだ。その手は無意識にも、右手首のブレスレットをいじっている。以前は優姫がもっていたそれだが、今は美夜の手首におさまっていた。

「俺は今から、兄弟仲良く学園に行くわけだけどさ。こんな殺伐とした兄さんと長時間一緒にいると、気が狂いそうだよ」

 壱縷は大袈裟に息を吐いて、わずかに漂った重い空気を霧散させる。
 言われた零は伏せていた目を開き、じとりとこちらを見つめてくる。誰がどこからどう見ても不機嫌そうだった。

「協会本部(ここ)に来る時も相当だったけど」
「昨日も零、こんな感じで……」
「ご機嫌とっててよ」
「……なんかごめん」
「俺は退散するから、なんとかしててよ?零もいい加減、その刺々しさが周りの負担だって自覚してよね」

 壱縷が輪から外れ、美夜は苦笑して零を見上げた。
 零の不機嫌の原因は承知しているが、美夜はどうにも出来ない。それに、零は周囲の言葉をはねのけるほど子供ではないと知っているので、機嫌を直してくれと笑むしかなかった。
 零が不満なのは、美夜がハンター協会本部を拠点として働くのに対し、零自身は学園に通い続けることだ。簡単には会えない距離が出来てしまうことはもちろんだが、零が学校にいる間、美夜は命がけの狩りに出ているかもしれない。
 零は「のうのうと学園に戻る自分に苛立つ」と、昨日何度も言っていた。

「零、私は大丈夫だし、全く会えない訳じゃないし。ね?」
「……分かってる。どうにもならないと分かってるから、余計イライラする」

 零はそう言って、美夜の頭を混ぜるように撫でた。美夜はされるがまま、ぐらぐらと頭を揺らす。

「無理も無茶もするなよ」
「分かった」
「……怪我するな」
「努力する」
「ちゃんと休めよ」
「零もね」

 豪快に撫でる手が止まり、零が髪を整える。長い指が髪をすく感覚が心地よく、美夜は頬を緩めた。
 しばらくは会えなくなるのだから、このくらいのスキンシップは許されるだろう。

「……美夜」
「うん?」

 美夜の左手をとって、その甲に零が口づける。美夜が驚いたのは一瞬で、くすぐったく感じて小さく笑った。
 お返しとばかりに零の首筋に口づけると――コートの襟を引っ張り、少し伸びをし、ややかがんでもらう羽目になったが――彼は満足そうに微笑する。
 良い意味では決してない刺青だが、それに対応するブレスレットを零が持っているのだと思うと、厳めしい刻印も不思議と愛おしくなる。おそらくは、零も。

「いってらっしゃい、零」
「……行ってきます」

 余程何かが起こらない限り、今生の別れではない。
 美夜は寂しさを確かに感じながらも、心中は穏やかだった。自分は一度、十年耐えたのだから、と。
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