78


 緩んだ空気と内容の薄い会話、適度に騒がしい教室。
 数日前には激しい戦闘が行われ、生徒たちも決して安全とは言えない状況だったことなど、微塵も感じられない。
 記憶の改竄はもちろんだが、校舎と陽の寮に被害がほとんどなかったのも、理由の一つだろう。月の寮は倒壊し、表向きは"老朽化の為取り壊し"ということになっている。
 そんな平和な教室で、零は伏せったままだった。休み時間の今、顔を上げていれば"覚えている"生徒に絡まれるのは明白だからである。
 壱縷はクラスメイトと他愛ない会話を交わしており、とても話をふれるような状態ではない。零に話しかけたがる生徒はお世辞にも多いとは言えないが、事が事なだけに、睨まれるリスクを負ってでも話しかけようという空気を、零自身察知していた。
 だが、寝ている零を起こす度胸はないらしい。
 記憶持ちの生徒が気にしているのは、もしかしなくても、美夜が登校していないことである。
 余談ではあるが、長期休暇明けにあの事件が起こり、術式によって臨時休校という処置が施されたので、零と壱縷が学校を欠席した日数は長くない。目立つことなく、家の事情だと適当に済ませていた。
 美夜についても"家庭の事情"が貫き通されているらしい。

「……」

 零は、探るような視線を常に感じながらも、身じろぎ一つしない。だが寝ている訳でもなかった。呆と伏せって目を閉じているだけだ。

「――ねえ」

 斜め前に座る生徒が、おもむろに口を開く。しかし誰からも返答はない。

「零くん、起きてるんでしょ。伊達に優姫や美夜と連んでないわ」
「…………」

 零が座る席も、彼女、沙頼が座る席も、優姫や美夜がいた時と変わっていなかった。故に沙頼と零の位置は近い。沙頼は前を向いたまま話しているようで、声はどこか遠く聞こえる。
 零は伏せたまま反応を返さなかったが、淡々とした沙頼の声を一応拾っていた。

「……どうして二人(あなたたち)だけ戻ってきたのかについては、聞かないわ。まだまだ、私の知らないことがあるんでしょうし」
「…………」
「美夜に何があったかも、根掘り葉掘り聞かないわ。どの道教えてくれそうにないんだもの、皆。……だから一つだけ、あの子を大事にしている零くんの口から、直接聞きたいの」
「……何を」
「あら、起きたのね」

 本当に零くんはあの子に弱いわよね、との言葉にはどことなく棘があった。
 零はそれを否定せず、軽く首を回しながら体を起こす。
 沙頼は零を一瞥しただけで、前を向いていた。

「美夜はちゃんと、笑えるようになったのかしら。最後に見た顔、ひどいものだったから……」

 沙頼の言う「最後に見た顔」がいつのものなのか分からないが、長期休暇明けの美夜はどことなく"らしくない"表情ばかりだったので、零にも想像は出来た。

「……そうなるように、俺も、やれることはする。今はまだ……」
「……そう。ありがと、嘘つかないでくれて」
「あいつも若葉を気にしてた。……『約束果せたらいいな』だと」
「!……楽しみだわ」

 ぽつりと呟いた沙頼の言葉は嬉しそうである。
 その約束の内容も、それを有耶無耶にしていたことも、零は美夜から聞いていた。すぐに叶えるのは無理だが、出来るだけ早く三人がそろえばいいのにと思う。
 そこまで考えて、"美夜は仕事"という文字が零の頭の中に浮かんだ。
 無意識に眉が寄り、振り向いた沙頼が首を傾けてくる。

「……嘘を言ったことへの罪悪感なのだとしたら、怒るけれど」
「違う。別の話だ」
「そう?」
「……今日はやけに刺々しいな」

 疑り深い沙頼の反応に、零はため息を一つ。
 一方で沙頼は、当然よ、と涼しい顔で頷いた。

「私、二人とは親友だと思ってるもの。事情が分からないもどかしさが零くんに向かってしまっても、仕方ないとは思わない?」
「……」

 ああ、八つ当たりか。
 沙頼が、行方の知れない優姫と仕事中であろう美夜に再会したとき、嬉しさを通り越して怒りをにじませる様子が起こりそうだと素直に思ってしまった。
 零は美夜と優姫に申し訳程度の同情をしつつ、あれほどの出来事があったにも関わらず"親友"を躊躇わない沙頼に、密かに感心していた。





 とある地方の、とある人里離れた山奥に、築何千年という洋館が立っていた。こまめな手入れのお陰か、外観も内装も歴史を感じこそすれ、みすぼらしい印象は受けない。
 現在その屋敷では、一人の青年と、一人の少女と、少女の家庭教師的役目を果たす少年の三人が主に暮らしていた。ただ、青年に関していえば"家"は確かにここであるが、忙しく世界を移動している為に滞在時間は短いものだった。
 よって普段二人しかいないその屋敷には、毎日訪問客がある。もちろん、家政婦などとは別である。
 身なりを整え手土産を持ち、人当たりのよさそうな笑みを浮かべる訪問者たちは、しかし誰一人として屋敷に入ることができず、さらに、青年がいない間は屋敷の主代理でもある少女と会うことすらできない。
 追い払うのは、もっぱら家庭教師の英である。家政婦相手ならばいざ知らず、上流階級の中でも上位の家柄である彼に対しては、訪問客らも強く出ることができないのだ。
 住人も訪問客も皆、吸血鬼。
 今夜も今夜とて訪問客を追い返した英は、広々としたダイニングに入った。キッチンからは食器のぶつかる音や慌てた声が聞こえている。

「あ、センパイおかえりなさーい」
「おかえりなさいませ、英様」
「うん……うん。焦げ臭いぞ」

 気配で察したのだろう、厨房から優姫の声がした。
 家政婦である女性の声も聞こえたが、姿は見えない。場合によれば「失礼にあたる」ととがめられるだろうが、今家政婦の彼女が厨房を離れるのは非常に危険だと英も把握していた。
 英はあきれた表情で厨房へ足を踏み入れ、ボウルと泡だて器を持って真剣な表情の優姫を確認する。その隣でハラハラと落ち着きのない初老の女性に、小声で声をかけた。
 無論、物理的距離が近い以上、吸血鬼相手に小声は何の意味もないのだが。

「クッキー作るって言ってたよな、僕が応対(あっち)行くまで。今はなんなんだ?」
「もう一度同じものを……。先ほどは、電話で私が離れたタイミングでクッキーが焦げてしまったようで……」
「タイマーとかセットしてなかったのか?」
「あの……その、少し触られたようで……」

 家政婦のいない隙に勝手に設定を触った挙句クッキーを焦がしたようだ。英のじとりとした視線を感じたのか、優姫がびくりと肩を揺らす。
 そもそも、上流階級である自分や最高位の吸血鬼である優姫が料理技術を身に着ける必要などまずない。英自身、レシピがあれば作れる自信はあるが、実際調理器具を持ったことはなかった。

「別に好きにすればいいさ、お前の家だし、今日の課題は終わってるし」
「つ、次こそはちゃんとおいしいクッキー焼きますよ!センパイをびっくりさせるんですから!」
「あーはいはい。……で、そんな忙しそうな優姫ちゃんに朗報だ。ハンター教会から封筒が届いた」

 英の言葉に優姫が目を見開く。生地の入ったボウルが手から滑り落ち、家政婦が小さく悲鳴を上げた。



 結局、家政婦がおやつにと作っていたマドレーヌを食べることになった。
 後片付けも彼女に任せ――優姫も英も手伝おうとしたが、優姫があまりに挙動不審になってしまっていたため――二人はテーブルについていた。
 マドレーヌと茶の準備もされているのだが、封筒の開封が優先され、優姫はかじりつくようにそれを読んでいる。英はその向かいで、少し冷めた茶とマドレーヌを口に運んでいた。
 ハンター協会からの封筒は、しかし正式なものではない。宛名が"玖蘭枢"ではなく"玖蘭優姫"になっているのがその証拠だ。
 数十分経って、優姫が英へ、目を通していた書類を差し出した。
 英は空になったカップをソーサーへ戻し、皿を避けてからそれを受けとった。
 とっくに冷めた茶とマドレーヌを自分の前にセットした優姫は、大きな溜め息を吐いていた。呆れているような怒っているような、複雑な表情だが安堵の色が濃い。
 英は意外にも取り乱さない優姫を一瞥し、だが声はかけず、書類へ視線を落とした。
 書類というよりも手紙に近いそれは、現在ハンター協会協会長代理を務めている、帆泉七瀬という人物からだった。
 英は、理事長と同類の奴だったか、と記憶を掘り起こす。吸血鬼として新米の優姫は知らないだろうが、ハンターの中では理事長や零に並ぶ異端者だ。
 英は読み進めるにつれ、ゆっくりと眉を寄せた。書かれているのは、美夜の経歴や処遇に関するものだ。私的な色が濃いからか、かなり砕けた口調ではあったが、それで内容が変わるわけではない。
 概要としてはこうだ。
 晃咲美夜は、五歳で家族を失い、"餌"として元老院に保護されたこと。李土に気に入られ、そのすぐ後に吸血鬼になったこと。玖蘭家襲撃後は、李土の役に立つためにとハンター協会で修業し、[天守月影]の使い手として働いていたこと。学園へは、緋桜閑から優姫を守る為に潜入したこと。枢が始祖であるという情報は記されておらず、美夜が気を回したのだとはすぐに分かった。
 そして、最後には。

『ちゃんとしたモンは後でおたくの当主あてに届くだろうが、玖蘭優姫が心配だって弟子が落ち着きねぇんだよ。だから片手間に書いて送った。こっちのことは心配すんな。俺の弟子も錐生兄弟も、ついでに灰閻も夜刈も仕事に駆けずり回ってるだけだから。お前はお前のすべきことに集中してろ』

「……偉そう、ですよね」
「だな。仮にも初対面の<純血種>に送る文章じゃないぞ……」

 英は封筒にそれを戻し、深く息を吐いて椅子にもたれた。
 皿を空にした優姫も、同じように脱力している。

「…………センパイ、帆泉さんって美夜の師匠ってことでしょうか」
「そうなんじゃないのか?美夜も何と言うか……厄介な師を持っているな」
「そうなんですか?」
「百歳は超しているはずだ。各地を飛び回って密集区駆除を一人でやる凄腕。――――さて。現実逃避はここまでにしよう」

 英は高い天井に向けていた顔を正面に戻し、封筒を見つめて髪をかき上げた。

「美夜が。……最初から玖蘭李土様とつながっていたとは思わなかった。緋桜閑様の襲撃を知っていたとも、思わなかった」

 それを見越して学園に来たというのだから、元老院の情報網や美夜の行動力は本当に侮れない。

「私もです。予想外も良い所ですよ……なんか、なんて言ったらいいか、分かんないです。美夜はずっと前から、たくさん悩んでたんですよね。私、本当に何も知らなかった……」

 英は、美夜がハンターであると李土の襲撃の際に知ったのだが、閑襲撃の時にも活躍していたとつい最近優姫から聞いた。詳細まで事細かに聞いた訳ではないが、美夜のお陰で零が助かったことも聞いていた。
 美夜はその時から、自分自身の矛盾に苦しんでいたのだろうか。
 ハンターとして力があり、李土に間接的に両親を殺された零が、いつか敵になるということは予想していたはずだ。にも関わらず、美夜は零を助けることを選んだ。優姫の家族だからという理由だけでは、恐らくない。
 美夜が"閑の粛正"か"優姫の護衛"か、どちらに重きを置いていたのかは知らないが、少なからず"零を助ける"という目的も――自分の意思で――持っていたのだろう。
 美夜は零が危険因子であると承知で、それでも助けたいと望んだ。自分の首を絞めることになっても構わないと思ったのだ。

「私を守ってくれたけど、美夜はぼろぼろじゃないですか。何なんですか。学園を守って、でも、美夜はおじさまが大好きだった訳で。……コレには詳しく書いてないけど、あの時の美夜を思い出したら、ほんと、辛かったろうなって」
「落ち着け」
「落ち着いてます」
「嘘つけ」

 話していて思い出したのだろう、優姫の表情は安堵から泣き出す直前までシフトしている。
 英は深呼吸する優姫から視線を外して、吸血鬼と人間を分けて考えていなかった美夜を思い出す。彼女はこの結末に満足しているのだろうかと不安になりつつも、何も知らなかった自分が、今更口を出す問題でもないと首を振った。
 すると、ぱしん、とどことなく間抜けで乾いた音がする。正面の優姫が、自身の両頬をはたいていた。思い切り叩いてしまったらしく、うっすら赤くなっている。

「センパイ、今から勉強、お願いできますか」
「……今日の予定は終わったが?」
「今の私のすべきことは、この世界について知って、自分で考える事だから」

 切り替えたらしい優姫が、真剣な目で英を見つめる。
 英はぱちりと瞬きをして、口の端を上げた。

「分かってるじゃないか、優姫ちゃん。……いいのか?協会に返事っていうか、美夜に手紙とか」
「……いいです。あんなこと言われたら、出す訳にはいきません」
「そうだな」

 英は苦笑をこぼして、手紙の追伸に書かれていた言葉を思い起こす。
 優姫が美夜を気にしていると察しているからこそのそれは、帆泉が冷徹なハンターでないことをほんのりにおわせていた。


『追伸。
俺の弟子本人から連絡がないのは、気にすんな。あいつなりのケジメだ。あんたと直接向かい合えるようになるまでは、合わす顔が無いってな。察してやってくれ。許す許さないじゃなく、あんたの前で胸張って立ちたいってよ』
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