わたしもその引きこもりの一員で、海から上がらないことに不満はなかった。里は大きいし、同じく海の底のあるコウジン族の里<碧のタマミズ>へ出かけることは出来るし、そもそも当然のこととして海が広い。散歩をしたいならば泳げばいいのだ。陸地と違って海中には基本的に魔物もおらず、安全に過ごすことができる。言わずもがな、スイの里の者は海神の加護を受けているので、里外の水中生活も容易い。
オノコロ島へ行こうとしたのは、単なる思いつきだった。スイの里から出る気がないアウラが多いだけで、何も禁じられているわけではない。わたしは過去にも何度か陸に上がったことがあり、海賊衆に知った顔もある。たまには深い海の底の魚でも手土産に持って陸の空気を吸おうかと、そう思いついたのだった。
そろそろオノコロ島だろうと顔を出す一瞬に違和感を覚え、水面から出ると、オノコロ島の土や山岳とはかけ離れた庭園が広がっていた。香りも、潮や土のにおいではなく、緑のにおいがする。自分が立っている水地も海水ではなく淡水で、紅白めでたい色の魚が泳いでいた。出くわした赤髪の青年の言う通りに帰ろうとしたものの、潜って見たのは海の景色ではなく、海より遥かに浅い池だと分かった。
赤い青年は抜丸と名乗った。幸いにも物腰の柔らかい優しいひとで、若草色の狩衣の青年が人間太鼓判を押すと、屋敷に案内してくれた。人間かどうか疑われたのは初めてのことで狼狽えたが、ヒューランしかいないというこの土地でのアウラは確かに異様に見えただろう。
屋敷は、庭園に見合う広さがあった。抜丸さんは城と言っていたが、我々の紫水宮(しすいきゅう)のような煌びやかさはなく、屋敷という表現は適切だった。城とは役割としての呼び名で、建物の構造のことではなかったのだろう。オノコロ島とどこか似た建築な気がするので、ヤンサやドマの風土とも近いのかもしれない。
一緒に暮らしているというヒューランたちは子供から大人まで様々で、みな興味津津とわたしに視線を送ってきたが、年嵩の人間はいなかった。会釈をすると返してくれるひとばかりなので、ほっと肩の力を抜けた。
通されたのは応接室で、抜丸さんと石切丸さん、あとは城主代理だという山姥切国広さんに経緯を話した。大して語れるものでもないが、どうやらここは紅玉海から遠く遠くとんでもなく遠く離れた土地のようで、わたしの言う全てが未知のことらしかった。
「事情はまあ、大体分かった」
山姥切さんが頷く。
「分かったが、どうにも解決できる気がしないので、ひとまずこちらで調べることにしよう。担当とこんのすけに託す」
「その丸投げ具合、きみらしくていいと思うよ」
石切丸さんが少し笑って続けた。
「謎は多いけれど、人間なのは確かだから。しばらく本丸にいることになるんじゃないかな」
「だろうな。上の連中は得体のしれないものを政府施設に入れたくないだろうし、本丸は何かの隔離に都合がいい」
政府、という大きな言葉に驚くも、城の役割があるというのならば当然かもしれない。隔離という言葉も気になるが、スイの里も隔離された環境なので、そう身構えることでもない。
処遇はどうなるのやらと山姥切さんの言葉を待っていると、山姥切さんは手のひらの大きさの何かを触ってひとつ頷いた。
「ヒサメ、と言ったな。この本丸にある、活用場面ゼロだった客間を準備してもらうから、そこにいるといい。必要なものは準備出来るが、ここの連中は女に慣れていないのが多くてな……ひとまず、あんたも落ち着けそうな奴を側につける」
「わかりました。破格の対応です、ありがとうございます」
「礼を言われることでもない。自由はあまり効かないかもしれないが、縛る意図もないから、まあゆっくりするといい」
「禿も近くにおりましょう。他のものより数刻早く接しただけですが、話し相手くらいには」
「あら、ありがとうございます」
抜丸さんが申し出てくれるので、こちらにも礼を言う。
わたしが同意したのを確認して山姥切さんが腰を上げ、石切丸さんも続く。
「客間の準備が出来たら呼びに来る」
「僕はナキリさんにでも声をかけるね」
「チャタンナキリ?」
新たな人物だが、山姥切さんも抜丸さんも首を傾けるので、わたしだけが置いてけぼりになっているのではないらしい。石切丸さんは問われたことに驚く様子はなく、わたしを見て目を細めていた。
抜丸さんから、応接室から見える庭の花木の話を聞いていると、軽い足音とともに小さな女の子が現れた。髪も服も薄ピンクの、妖精のような子どもだ。
こどもはわたしと抜丸さんを見て、ゆったりと落ち着いた声を出す。
「はいさーい。お世話係に任命されたよ」
「まあ、そうでしたか。よろしくお願いします」
小さな子どもが来たものだ。山姥切さんが「わたしが落ち着けそうな人材を」と言っていたので、親しみやすさから決められたのだろう。わたしとて成人しているが、右も左も分からない状況では子どもでも頼もしく見える。
子どもは応接室に入ると、わたしをまじまじと見て笑顔を浮かべる。
「いいよー。おれはチャタンナキリ……ナキリでいいよ。食材を切るみたいな意味の菜切」
「菜切さん、わたしはヒサメです」
一人称が「おれ」だからといって男の子とは限らないので、「くん」とも「ちゃん」とも言えずに「さん」を選んだが、菜切さんは特に気にしてなさそうだった。
「うんうん、聞いてる。あと、ほんとに海神のにおいがするなー」
「分かります? スイの里の者はみなそうです」
「いいにおい。おれも海と縁があって、しかもこんな見た目だから、お世話係になったってわけー。ゆたしく、うにげーさびら!」
菜切さんは笑って、部屋の外を指さした。
「客間に案内するよー。あ、朝ごはんは食べた?」
「そういえば……わたし、夜に陸を目指していたのです。ここは時差が大きいのですね」
「ずいぶん遠いところなんだなあ」
「はい、本当に。夕飯は食べましたから、空腹ではないですよ」
「なら昼食は用意しようかねー」
「お気遣いありがとうございます」
菜切さんが促すのに従って立ち上がり、応接室を出る。ピンクの頭に続いて縁側を歩くと、庭から応接室に来るときも見かけた顔が様子をうかがってきているのが分かった。それに会釈をしつつ、すぐに客間に到着する。
客間は応接室と同等の広さがあり、文机や床の間もあった。陶器や竹の花器が所々に置かれ、珊瑚ではなくみずみずしい草花が飾られている。客間としての役割を果たしていなかったということは、この素朴で美しい部屋はわたしのために用意されたのだ。
誰に礼を言うべきか分からず、菜切さんと抜丸さんを交互に見る。
「こんな素敵なお部屋をありがとうございます。花の香りがする……」
「喜んでもらえて良かったよー。女性が過ごすのだからと気合いをいれてたから。おれから伝えておくねー」
「はい、とても感激していたとお伝えください。海の底に珊瑚はあれど、花はありませんから」
客間に入って、恐る恐る花びらに触れる。オノコロ島に上がることがあるとはいえ、オノコロ島の自然は土と緑だ。花やぎは少なく小さい。
自由が効かなくとも退屈はしなさそうだ。花の世話はどうすれば良いだろうか。そんなことを考えていると、縁側に立つ抜丸さんが言った。
「生けてある花はすべてこの庭のものです。名が分からなければ禿がお教えしましょう。庭を歩いて見に行くのも良い。禿が同行すれば、何も言われません」
「良いのですか! ぜひお願いします」
あまり柔軟には動かない尻尾が跳ねる。
これは予想を遥かに上回って充実した生活になりそうだ。