小さなボディーガード


 錦は黒いセダンに乗せられ、後部座席から外の景色を眺めていた。
 電車に乗ったことはあるが、車は初めてである。慣れないにおいや動きを不快に思いながら、深くため息をついた。
 運転席に一人、錦の隣に一人、男が座っている。錦が大人しくしているからか、彼らは錦を特に拘束せず、好きにさせていた。
 何をしているかという問いには、たった一言で返せる。

「わたくし、誘拐されているようなの」

 そう分かっているのに大人しく車に乗っている理由は、"今のところ"逃げられないからである。焦りや恐怖を一切感じていないのは、その気になれば逃げられるからだった。
 錦は律儀に、凌に言われたことを守っているのである。不思議な力で人を惑わせるな、カツアゲするな、とは出会った頃に言われていた。以来、錦は他人へ与える凌の印象を歪めているのみで、無暗に他人の感覚に干渉していない。"燃料不足"も一因であった。
 凌が知れば、俺はそういうつもりで言ったんじゃねーよ、と呆れただろう。
 加えて、騒ぎを起こすのは本意ではない。幼女とは思えない力で車のドアをこじ開け、走行中の車内から転がり出るのは最終手段だ。いかに穏便に脱出するかが問題である。
 ともかく、錦はいたって冷静だった。錦にとっては最早ドライブである。誘拐というイベントをきちんと理解していない、という点は否定できない。

「ねえ」
「うん?どうした?」
「どこまで行くのかしら」
「もうちょっとで、僕らのお家につくから。いっぱいお菓子も準備してるからね」

 錦は退屈そうに、車窓から外を眺めた。来たことのない地域まで移動しているらしい。
 終始機嫌のいい男に、弱々しく声をかける。

「……きもちわるい」
「あ、あー酔っちゃったか。もう少し頑張れる?」
「無理。……外の空気吸いたい……」
「じゃあそこのコンビニにでも、」
「馬鹿、逃げるだろ。窓あけよう」

 錦がはりついていた窓が、半分ほど開く。男らは、泣きも喚きもしない錦に油断していたのと、走行中の車から逃げられはしないとたかをくくっていたのだ。
 錦は、座席を蹴ると、ぴょいっと前転の要領で窓から外へ飛び出した。体を丸めて地面を転がる。歩道側だったのが幸いし、錦は轢かれることもなかった。
 男たちや周囲のドライバーの悲鳴には笑顔を返し、歩道で全身の汚れを落とした。
 小さなかすり傷が、瞬く間に消えていく。それを見咎める者はいなかったが、

「だ、大丈夫か……?」

 たまたま通りかかったらしい青年手前の男が、困惑をあらわに声をかけてくる。
 錦は服を整えて、しゃがみこんでくれた少年に頷いた。

「平気よ」
「みたいだな……。えーなんであんな無茶を?」
「かどわかされていたの。そろそろ降りないと、帰って来たパパが心配するだろうから」
「かどわかすって誘拐の意味でいいんだよな……?警察に通報、するぞ?」
「構わないけれど、わたくし、帰るわよ?彼らも慣れた様子ではなかったから、出来心じゃないかしら」
「おじょーさん可愛いもんな」
「良く分かってるわね」
「すごいこと言うな、びっくりした」
「通報は任せるわ。大事にもしたくないから……車のナンバーと、彼らが呼びあっていた名前なら分かるから、それだけ協力するわね」
「十分だな」
「わたくしのことも、告げなくていいわ。匿名の、情報提供者にしてくださる?」
「了解。おじょーさん、いくつなの?四歳か五歳くらいに見えるんだけど」
「こどもだからって、侮ってはいけないわ」
「ごもっとも」

 幼さの残る少年は、何が面白かったのかケラケラ笑い、錦の頭を乱暴に撫でて立ち上がった。

「家まで送ろうか?」
「いいえ、一人で帰れるわ。ありがとう」
「さっきまで誘拐されてた子のセリフとは思えねー」
「次は防犯ブザーを鳴らすから大丈夫」
「なんでさっきは鳴らさなかったの!?」
「不審な行動の線引きが分からなかったのと、まさかわたくしを誘拐する輩がいるとは、思わなかったのよ」
「なんつーか、男前なお姫さまだな」
「家は距離があるから、あなたを付き合わせるわけにはいかないもの。気にしなくていいわ」
「そういう訳にはいかねーけど、用事があるのも確かなんだよな。っつーわけで、」

 少年のフィンガースナップと同時に、のし、と頭に重みを感じる。重さがあるだけではなく、暖かい。錦は手を伸ばして、柔らかい感触に頬を緩めた。指先でくすぐると、クルル、と満足そうに鳴く。
 
「鳩、かしら。一体どこから出したの?」
「秘密!そいつを付き添わせるから、なんかあったら俺が駆けつけるぜ」
「ふふ、ありがとう。心強いわ」

 にっこり笑うと、少年は照れたように頬をかいた。一度見たことのある少年にそっくりな顔立ちだが、目の前の少年の方が表情の変化が早く、青の目は好奇心に溢れているように見えた。
 少年と別れると、途端、鳩が錦の頭から羽ばたく。白い鳩は電線に止まり、立ち止まったままの錦を見下ろしていた。

- 21 -

prevブラックダイヤに口づけnext
ALICE+