安全運転


 錦は動物に好かれない。
 草食動物は一目散に距離をとり、肉食動物には威嚇される。友好的な態度をとられたためしがない。
 錦の目の前には、呑気に昼寝をする野良猫がいた。錦を前にして眠り続けているのは猫の肝が座っているからでも、神経がしめ縄並みだからでもない。錦が意図的に、気配を殺しているのだ。
 野良猫は、風が吹くたびにヒゲや耳をくるりと動かす。錦はその様子をじっと観察し、ほこほことご機嫌だった。
 しばらくそうしていたのだが、遠慮のない足音が近づき、猫が目をあける。間近にある錦の顔をみるなり、「ニギャッ」と不格好な鳴き声をあげて飛び上がる。寝起きとは思えない身のこなしで逃げてしまった。
 残念だが、十分眺められたので満足だ。錦は腹這いになっていたそこから"おりた"。
 服を払っていると、足音の主がため息をついたのが分かった。

「猫を見ていたのかい?」
「ええ。これ、あなたの?」
「そう、僕の車だよ。傷はついてない……良かった」

 くすんだ金髪に、褐色肌の男だった。柔らかい口調のわりに目は厳しく、白いボンネットを撫でている。汚れがないことを確認してから、錦の前で膝をおった。
 
「君は?一人?」
「ええ。ただの、お散歩よ」
「君のような子供が、一人で駐車場にいるのは感心しないな」
「大丈夫よ。感心しないのはわたくしもよ、あなた、随分寝不足に見えるわ」
「……気のせいだよ」
「いいえ。だって、とてもまずそうなんだもの」
「ま、まずそう?」
「安心なさい、取って食いやしないわ」
「うん……?」

 男は不思議そうな顔をして、もう一度ため息をついてから、少しだけ億劫そうに立ち上がった。

「家まで送ろうか、賢いお嬢さん」
「あら。じゃあ、図書館にお願いするわ」

 いきつけの図書館の名前を告げると、男は整った顔を歪める。呆れた様子で後部座席のドアを開けた。

「遠いね。家は?」
「図書館の方向よ」
「そこからここまで、子供が歩く距離じゃないよ?」
「わたくし、体力には自信があるの」
「そうみたいだね……」

 男は丁寧に錦をエスコートした。「チャイルドシートなんてないんだよなあ」とぼやきながら錦を座らせ、シートベルトをセットする。
 男は運転席へ移動して、慣れた様子でシートに座る。寝不足だという錦の見立ては間違ってないはずだが、鼻歌混じりの男は上機嫌だった。

「君はしっかりしているようだけど、心配になるよ。初対面の男の車に乗ってしまうなんて」
「ここに防犯ブザーがあるのだけれど」
「それを鳴らす必要はないな、少なくとも僕のそばではね」
「いざとなれば飛び降りるから安心して」
「どの辺に安心する要素が?」
「あ、わたくし、橙茉錦よ。あなた、お名前は?」
「あ、うん。僕は安室透だよ。錦ちゃんか、いい名前だね」
「ありがとう」

 安室がキーをひねると、白い車がいななく。独特のエンジン音に目をしばたたくと、運転席の安室が楽しそうに笑った。
 発進した車は、なめらかにスピードを上げていく。

「不思議な音ね」
「スポーツカーだからね」
「スポーツカー……」
「錦ちゃんは車が好き?」
「興味深いけれど、よく知らないわ」
「あはは、そっか。免許取得を考える頃には、色々見てみるといいよ」
「安室さんは、車が好き?」
「うん。一番はこの子だよ。錦ちゃんはいくつ?」
「今年六歳になるわね」
「来年小学校かな。今時の子はしっかりしてるなあ……」
「と、いうことにしているわ」
「サバを読むには早くない?」
「安室さんはおいくつかしら」
「うーん、いくつに見える?」
「幼い子供」
「童顔どころの話じゃないよね、それ」
「ふふふ」
「もうとっくに成人したよ。錦ちゃんみたいな、賢い子供ならほしいなあ」
「ごめんなさい、わたくしはパパの子供だから」
「振られちゃった」
「子供にはなれないけれど、お友達にはなれるわよ」
「それはちょっと犯罪臭がする」
「そうかしら」
「だって未就学児と三十路前だよ?」
「百歳以内なら、あってないようなものよ」
「あはは、中々パンチのきいたフレーズだね。さあ、着いたよ」

 図書館の駐車場に入った安室は、手早くシートベルトをはずすと、後部座席のドアを開ける。手を差し出してエスコートする安室に、錦はすっかり気をよくしていた。
 
「暗くなる前に帰るんだよ」
「ええ。安室さんもね。ドライブ、楽しかったわ」
「僕もだよ」

 目線を合わせてくれている安室にそっと手を伸ばして、労るように頭を撫でた。

「錦ちゃんって、なんだか年上みたいだ」
「ふふ、存分に甘えなさい」
「なんだろうなあ、こう、癒される」

 安室は深いため息をつく。錦は、彼が我にかえって立ち上がるまで、くすんだ金髪を混ぜていた。

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