黄泉がえり


 人の記憶から消えるまで――完全に死ぬまでは、長い時間がかかる。圧倒的に死の事実を突きつけたとしても、わずかでも疑いがあったのなら、死者は簡単に甦る。
 橙茉凌は、ほんの短い間眼鏡が他人の手に渡っただけで"スコッチ"して生き返ってしまった。まさか、組織の関係者がバーに来ており、スコッチの顔を知っているとは思わない。
 スコッチは、他組織からの諜報員であることがバレて自殺した男だ。だが、あの場でのやりとりから、チームを組んでいた男がスコッチを殺したことになっているだろうとは推測できる。情けをかけて見逃したのでは、という疑惑が浮かぶのも当然だ。
 あの二人ならば上手くスコッチの死を手柄としてのし上がっていくだろうが、一度抱いた疑惑を完全に払拭することは難しい。事実こうして、スコッチは生き返ってしまった。
 バイトあがりを待ち伏せされて、凌はわき目もふらず駆けだした。人混みにまぎれ、路地を駆け、バスを乗り継いでも、しつこい男は諦めない。眼鏡はもちろん装着しているが、"そう見せなくする"作用のある眼鏡は、"そうだと気付いた"者への効果が薄い。

「家には戻れねーな……」

 このままスコッチを殺さず、公安警察に駆けこんでしまってもいい。周囲を驚かせることにはなるが、自身の身の安全は保障されるだろう。問題は、橙茉凌と関わった者の保護だ。日本には、アメリカのような証人保護プログラムがない。あの巨大組織から身を隠すのは至難の業だ。
 橙茉凌イコールスコッチであると知られた以上、今無事に逃げおおせたとしても、拠点を移すのは必須。待ち伏せに気付いた直後に伸してしまったほうが良かったかもしれない。
 いや、だとしてもその後は。まさか殺すわけにもいかないが、口外するなという口約束などただの気休めだ。証拠のない状態――スコッチを捕縛出来ていなければ、男が何を言っても妄言にしかならない点は幸いだが。
 後ろ盾がないと、こんなにも動きにくいとは。

「あいつらにも、まだ知らせらんねぇな……決別してないといいんだけど」

 チームを組んでいた二人の男が頭をよぎる。己の生存だけでも伝えたいとは常々思っていたのだが、思いのほか、スコッチはまだ組織の中に残っているらしい。
 凌は時計を確認しつつ、大通りを横切り、暗い路地へ入った。帰宅予定時間を大幅に越えている。夜はすっかり更け、気温も下がる一方だ。走り回っているので体は温まっているが、この気温の中で夜を越すのは遠慮したい。
 走りながら錦にメールはしたので、心配はしていないはずだ。そもそも寝ている時間なので、凌が帰っていないことに気付かないだろう。夜更かしをしていなければ。
 振り返ると、男も大通りを横切っているのが分かる。手柄を上げようと躍起になっているのだろうが、執念深さに舌打ちがこぼれた。
 路地を右に左にと曲がり、やみくもに走る。筋トレをしているので疲労は少ないが、精神的に余裕は全くない。
 今逃げ切れたとしても、その後は。処理すべき問題が頭の中を駆け巡る。
 頭も体もフル稼働させて走り抜けた先――高いフェンスが行く手を遮った。

「クソ……ッ」

 地理は頭に叩き込んでいるが、細かい状況など地図から分かるはずもない。上れない高さではないが、上っている最中に攻撃されるだろう。
 フェンスを握り、荒い息を整える。外気は冷たいのに、息は熱い。温度差が妙に気持ち悪く感じた。
 凌はフェンスを背にして、男を振り返る。

「っは、ようやく、追いかけっこも終わりだな……!スコッチ!」

 凌と同じように息を荒くした男が、姿を現した。手には銃を構え、声音は興奮している。暗闇のせいで表情は見えないが、笑顔を浮かべているような気がした。
 うるせえ。こっちは笑えねぇよ。

「スコッチ?酒がどうかしたか」
「ここまで逃げておいて、今更すっとぼけるってか」
「そりゃあ追いかけられたら逃げるだろ」
「ほざけ」

 銃を持った相手を、丸腰で制圧することは難しい。加えて、トリガーにかかった指先も全く見えない。目を凝らし、瞬きすら止めて、相手の動きに神経を尖らせる。
 おそらく、相手も同じだ。片や組織の末端、片や組織でコードネームを得るに至った諜報員。実力では後者に軍配が上がる。
 その空間だけ時が止まっているかのような、冷たい空気に似合いの緊張感。互いに、うかつには動けない。死がじりじりと近寄ってくるのが分かる。つい懐かしく感じてしまう、命の駆け引きだ。
 しかし、にじり寄って来ていたはずの死神は、無遠慮に薄氷を叩き割った。
 
「ねえ、あなた」

 凌は自分が脱力したのが分かった。凌にとっては聞きなれている幼い声は、男を混乱させるのに十分すぎる。男"が"動きを止めたのか、男"の"動きを止めたのか、凌には判断が出来ないが。
  
「わたくしの許しを得ずして、その子に手を出そうなど……身の程をわきまえなさい」

 どこからともなく現れた錦が、銃を持つ男の前に立つ。男は緊張感をどこへやら、膝から崩れ落ちてしまった。凌は大きく息を吐いて、錦を回収する。

「色々言いたいことはあるが……まずは、ありがとうな」
「いいえ。息子の危機だもの」
「ドーモ。二つ目、また夜更かししてたな」
「たまたま目が覚めたの」
「三つ目、銃を持ったヤツの前に、ひょっこり出てくるんじゃない」
「急所に当たらなければ大丈夫よ」
「だいじょばない。やめなさい」
「はぁい」

 どんどん力が抜けていく。凌は、汗一つかかず澄まし顔の錦の頭を乱暴に撫でた。追いかけっこがただの悪夢であったかのような、呆気ない幕引きだ。
 男は気を失っているようで、凌が靴先でつついても反応を返さない。このまま放置してもいいが、スコッチの生存を知られた以上、何もしない訳にもいくまい。
 
「大丈夫よ」
「何がだよ……」
「彼は、好みの女性をしつこく追い回した末、手ひどく振られて気力を失ってしまったのよ」
「ストーカーこわいなあ」

 凌は深く考えることを止めた。我が娘の謎は、今に始まったことではない。きつく問い詰めるより、いち早く家に帰って風呂で温まった方がよほど良い。
 気にはなるが、必要なことは話してくれていると思っているし、何より、凌の味方であることに変わりないのだ。
 それに、明かしていないことがあるのは凌も同じだ。
 
「うん、そうだな。さっさと帰ろう」
「そうね、パパ」


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