そうして彼女は笑う


 帰宅すると、そこにいるはずのない見知った人間がいた経験はあるのだが。
 起床して、どことなく見覚えのある知らない人間がいるのは初めてだった。

「なん……え……どちら様……?」

 光と共にダイニングテーブルにつく女性がいる。トーストをかじっている光の前で、彼女は悠々とティーカップを傾けていた。
 すらりと長い脚を組み、丁寧な動作でティーカップをソーサーへもどす。影を落とすほどのまつげで飾った目を細め、ゆるりと凌へ顔を向けた。
 光のシャツとズボンを借りているようだが、絶妙に似合っていない。残念ながら、橙茉家に上等な洋服はないのだった。
 一般家庭のダイニングのはずが、彼女の座る場所だけは、五つの星を誇るレストランや一泊で数十万かかるリゾートホテルのようだ。
 常と変わらぬ様子の光が、凌の問いに答える。

「錦ちゃんよ。調子が良いみたいで、なんだか"こう"なっちゃったんだって、錦ちゃん」
「……ほ、ほう?さすがの俺も面食らってるんだけど」

 いつのまにやら、光もずいぶん錦に慣れているようだ。びっくりだよね、と笑いながらトーストを食べている。
 凌は心底、嘘偽りなく驚いていたが、どこかで納得しているのも確かだった。
 錦は見た目こそ幼く小学一年生の中でも一際小柄だが、三十を超えた凌でさえ、時折年上ではと錯覚するほど老成している。
 声と引き換えに足を得た人魚のように。ある種の呪いをもってして、錦は子供の姿になっているのではないか。
 そんな戯言が頭を過ったこともある。

「寝る子は育つって言うもんな」

 自分で口にしておきながら、動揺の大きさを自覚する。錦は夜更かし常習犯なのだ。凌や光の目を盗んで夜更かししていることは想像に難くない。どうせ本でも読んでいるのだろう。
 錦は笑みを深めて、凌に座るよう促した。

「おはよう、凌。いい目覚めになったかしら?」

 相変わらず落ち着いた声は、普段よりも少しだけ低い。

「眠気が吹っ飛んだわ……。なんなんだ、結局錦は何歳なんだ?」
「以前、四桁と言わなかったかしら」
「逆サバを読むにもほどがあるだろ。二十代後半って所か」
「ふふふ」
「人間は伸び縮みしないんだぞ……呪いか薬かマジックか。お前が錦……ちっさい方の姉で、俺を驚かすために入れ替わったっていうのが一番納得できるんだけど」
「別人に見えるかしら」
「不思議と見えないんだよなあ。光はなんでそんなに落ち着いてるんだ?」
「だって錦ちゃんでしょ。どこからどう見ても」
「たくましくなったな……」

 光が、凌の分の朝食を用意する。凌は礼を言ってから、冷えた麦茶を飲んだ。




 凌は、そっと静かにコップを置く。

「と、いう夢を見たんだ」
「なんだか、笑い飛ばせないわね……」

 三人で夕食をとりながら、凌は先日見た夢の話を詳細に語った。

「わたくしが、大人になる夢、ね……」
「錦ならあり得そうっていうところが一番こわい」
「私も、なんだかんだ受け入れちゃいそうな気がするわ」
「だろ?」
「いくらわたくしと言えど、大きくなったり小さくなったりは不可能よ」
「それを聞いて一安心だ」
「……ところで、大人になったわたくしは、どうだったかしら?」
「見た目はそのまんまだな。それはそれは美人だったぞ」
「ふふ、そう。大人の姿……確かに、少し楽しみね」

 どことなく、含みを持った言い方だった。
 錦はそれ以上語らなかったが、凌の夢はどうやらお気に召したらしかった。 


(錦が大人になる話/匿名さま)
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