幸せな家


 夜の九時を回った頃、凌は光に声をかけられてダイニングチェアに座った。風呂上りの錦も光に呼ばれ、分厚いクッションの上に座っていた。
 凌の隣には光が座り、光の対面には錦。夕食は済んでおり、ダイニングテーブルにはテレビのリモコンとティッシュ箱、それから光の変装道具(イヤリング)が置いてある。
 今夜はバーが定休日なので時間を気にする必要はない。凌は、緊張が見てわかる光を一瞥して、心持ち姿勢を正した。

「錦ちゃん、私、生き返ろうと思う。この家を、出ようと思う」

 凌は光と前もって話をしていたので驚かなかった。そっと錦をうかがうと、驚いたような仕草は見せているもののリアクションは薄い。
 
「錦ちゃんも知ってるような気がするけど、諸星大って人……私の元恋人なの」
「ええ」
「彼がね、事故に遭って……亡くなったかもしれないの。それで私、考えたわ。知ってることはほとんどないし、私に出来ることはないのかもしれないけど……妹のことも心配で」

 光よりも先に組織に殺された凌は、彼女の妹がどうなったのか全く知らない。科学者という立場ながらコードネームを与えられるほど優秀なので、組織も簡単に切り捨てはしないだろうが、断言は出来ない。

「妹さん?」
「錦ちゃんが言ってた、白衣の人よ。ここを出るのを先送りにして、妹にまで何かあったらと思うと……!」

 凌とは異なり、光は身を隠す重要性がさほど高くない。
 凌は、未だ組織に食い込んでいるはずの仲間に潜入捜査官の疑いがかからないよう、死人でいる必要があった。対して、光は"銃殺されかけ生き延びた"だけだ。元々、組織の情報もほとんど持っていない。病院に搬送されたとしても、組織にとって不都合はほぼない。十億円強奪事件の犯人として逮捕されても、そこから組織に繋がるものは出てこないだろう。
 この家にいる理由も、凌は潜伏のため、光は療養のためのはずだ。いつまでもここにいる必要はない。保護者役の凌がいれば尚更だ。
 彼女が生き返り、組織に狙われる可能性も残念ながらある。戸籍制度のきっちりしている日本には、米国の証人保護プログラムのような制度はないのだ。だが、日本の警察は彼女の身柄を守ってくれるだろう。元組織の一員としても、十億円強奪を成功させた犯人としても。

「分かったわ」

 錦が穏やかに言う。組織云々を全く知らないはずの立場で"分かった"と口に出来てしまうあたり流石である。
 凌は光と視線を合わせてかすかに笑った。きっと錦はこころよく送り出してくれるだろうと予想――否、期待していた。もし反対されてしまったら、凌にも光にもどうしようもない。橙茉家の柱は錦なのだ。

「なら、凌はどうするの?」

 凌は笑みを引っ込めて、錦に向き直った。この問いかけも予想の範囲内だ。
 予想していても、凌は答えを出しあぐねていた。
 戻りたいとは日頃から考えている。諸星大こと赤井秀一が事故に遭ってからというもの、その思いは強くなっている。
 死んでから早三年、そろそろ本来の職場と連絡を取りたい。踏ん切りがつかないのは、数か月前にうっかり生き返ってしまったことと、錦の存在だ。自分の生存を明かすことで仲間を危険にさらすのも、錦が危険な目に遭ったり孤児になってしまうのも避けたい。
 
「凌。光の、この家での記憶を消すかどうかは、あなた次第よ」

 光や凌の緊張など全く伝わっていない様子の錦が、さらりととんでもないことを付け加えた。
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