「牽制」と書いて


美夜の朝は早い。が、眠る時間が学園にいた時よりも早いので、睡眠時間は以前よりも長い。しかし早いことに変わりはない。外が明るくなる前に起床し、支度を済ませて訓練兵団の駐屯地まで行かなければならないからだ。訓練中に合流したのは初日だけで、それ以降は、訓練開始時には既に合流しているのだ。

理由はそれだけではない。部屋の掃除をするからである。毎朝、リヴァイの指示で隅から隅までーーベッドの下はもちろん窓のさんも全てーー掃除しなければならない。潔癖症な上官の命令である。

起床などはリヴァイの"壁ドン"で起きているのでーー美夜がノックの音で起きることが判明してから、ペトラは来なくなったーーリヴァイがわざわざ入ることは無いのだが、状況報告や確認の為に、リヴァイは美夜の訓練後に入室するのだ。毎朝の掃除チェックの際にも入室する。たとえ短時間とはいえど、ホコリの落ちている部屋には入りたくないらしい。

「……よし」

美夜は外がやや明るくなってきたと同時に呟いた。掃除の終了である。リヴァイのチェックがあるが、これが終れば洗顔や朝食を済ませて出発である。そしてタイミングを見計らったかのように、ドアがノックされた。

「はい、どうぞ。おはようございます、リヴァイさん」
「ああ」

軽く頭を下げて言う。入って来たのは、三角巾と布のマスクをしたリヴァイだ。人類最強で目つきが悪くて足癖も悪い兵士長が、潔癖で掃除にたいそう厳しい、というのは訓練兵は知らないだろう。

美夜の部屋は毎朝、掃除とチェックがある。リヴァイも私室を毎日掃除している上、リヴァイからの指示だろうーーそれ以外に考えられないがーー食堂をはじめとした施設全てが清潔に保たれている。

「……そこ、と、そこ。もう一回やってから飯」
「はい……っ」

ペシン、とリヴァイが美夜の頭を叩く。リヴァイの躾はかなり痛いものばかりだと美夜は聞いているが、それを与えられたことは初対面時以外にない。左腕が完治すればハンジのように跳び蹴りを喰らうのかと、美夜は今から若干の恐怖にさいなまれている。

美夜は掃除があまり得意ではなかった。単にリヴァイが細かすぎる、ということも当然あるのだが、窓のさんを毎朝掃除するなど考えたこともなかった。そのせいか初回はかなり手間取ったが、リヴァイの顔を思い出しながら掃除をすると不思議と効率が上がっている。

ドア口に立つリヴァイの視線を感じながら、サカサカと掃除を済ませる。ちらりとリヴァイをうかがい、彼が三角巾を外しにかかっているのを見て頬を緩めた。合格の合図である。




食堂に行くと、ミケと遭遇した。ミケはハンジと同じ分隊長という立場にある男で、初対面の人間の臭いを嗅いで鼻で笑うという癖がある。混乱した美夜が思わずリヴァイの背に隠れたのは記憶に新しかった。拳骨を喰らったが、見知らぬ人間にあれほど接近されて、また近くにいたのがリヴァイだけだったのだ。

「訓練兵団はどうだ、ミヨ」
「そこそこ楽しくやってます」
「なんだそれ」

リヴァイは適当な席に向かいながら、続いている二人の会話を聞く。出そうになった欠伸は噛み殺した。美夜を訓練に間に合うように起こすにはーー壁を殴るだけだがーー当然見張りのリヴァイも早く起きなければならない。朝早い食堂は、まだ人が少なかった。あと三十分もすれば賑わうだろう。

相変わらず、兵士は美夜を避けている。得体がしれないからだ。美夜の事情を全て知っているのは分隊長以上の数人のみで、それ以下の兵士には調査兵団預かりになった、ということしか伝えられていない。美夜を発見した時の壁外調査にいた者には、厳しい箝口令がしかれている。

リヴァイが進む先にいる兵士たちは、挨拶をしながら去っていく。以前もそうだったのだが、美夜が来てから、増して道が開けている。美夜本人も気付いているのだが、どうしようもないので口にしない。

「……ああ、ミヨ」
「はい」

リヴァイはテーブルにトレイを置いて、隣に座った美夜を見る。初めに食堂で食事を摂った時に隣同士だったからか、自然とそうなっていた。

「今日は俺と馬に乗って行く」
「?……はい」
「なんだその顔」
「えと……今日、訓練にいらっしゃるのがリヴァイさん、ということですよね」

美夜が朝に駐屯地まで向かう際に同行する兵士が、その日の訓練中に監視をする。それは美夜も承知しているが、リヴァイの言い方が少々引っかかった。

「そうだが……壁外調査の報告がとりあえず一段落したんだ。たまには真面目に監視してやるよ」
「はい……ありがとうございます……?」
「礼を言う所か……?」

リヴァイが食事を始めると、ミケもパンに手を伸ばす。そして美夜は両手を合わせた。


* * *


美夜は混乱していた。リヴァイは至って冷静で、加えて無言である。こうなる直前に手をちゃんと洗うように言われはしたが。

「……」
「……」

リヴァイの愛馬に二人して乗っていた。手綱を握るリヴァイの前に美夜が乗り、振り落とされないよう鞍にーー片手だけだがーー手を付いていた。小柄な体躯とは裏腹に、リヴァイは筋肉の塊のようなものだ。美夜は背中に感じる体の硬さに、密かに驚いていた。

もちろんリヴァイは、なにも意味なくこんなことをしている訳ではない。今まで美夜は、訓練兵団と調査兵団の往復には調査兵団の馬を使い、授業中は訓練兵団の馬を使っていた。美夜が授業でイングヴァルーー気性が荒いが足は速いーーを使っていると知ったリヴァイは、イングヴァルを調査兵団で引き取ることにしたのだ。

そうすれば、美夜は兵団の往復でも授業でも、イングヴァルを使うことが出来る。ただそうする為に訓練兵団までの足がないので、リヴァイは美夜がともに乗ることを許可した。帰りはイングヴァルに乗ればそれでいい。

調査兵団の馬は、品種改良がされている。壁外を長時間最高速度で駆けることを可能にするためだ。なぜ訓練兵団のイングヴァルが調査兵団に入れるのかと言えば、元々イングヴァルが調査兵団の馬だったからである。あまりの気性の荒さに調査兵団でももてあまし、訓練兵団まで流れたのだ。そうなってからは、調査兵団の馬の補欠のような扱いだった。

美夜は馬に乗ってからそれを説明され、そういうことかと納得した。人がいない場所では遠慮なく加速するリヴァイに、美夜は舌をかまないよう口を閉じていた。

「……おい」
「はい」
「左腕はどうだ」
「順調だそうです。日中は、刀のお陰で治癒力も高いですし」

今この話をするのか、と思いながら返答する。単に思いついただけだと思われた。リヴァイはそれだけ聞くと無言になった。そして駐屯地が見えてくると馬の速度を落とし、前に座る美夜に声をかける。美夜は、耳元で話されるくすぐったさとリヴァイの短気で、恥ずかしいやら恐ろしいやらだった。

「どこだ」
「……え?!いえ、自分で歩いてーー」
「落とすぞ」
「道なりに行って、あ、曲がる所は言います……」
「ああ」

今日の午前は対人格闘訓練だ。広場までは少し距離があり、そこまで馬で送ってもらえるのは美夜としては助かる。ただそれがリヴァイなので、どうも裏がありそうに感じてしまうのだ。実際は、リヴァイが書類仕事に一応の片がついたことでやや機嫌が良いだけだった。




美夜は広場で馬から下り、深々と頭を下げて礼を言った。蹄の音が遠くなるまで頭を下げ、上げたところに見知った顔が駆け寄ってくる。広場に到着した時から彼らがいるとは分かっていたが、リヴァイの見送りを優先したのだ。

「おいミヨ、あれって人類最強だよな……?」
「うん、リヴァイさん。おはよう、ライナー」
「あ、はよ」

兵士長を足にするってお前、とライナーを初めとした数人にーーベルトルト、マルコ、ジャン、クリスタ、ユミルーーじとりとした目を向けられる。リヴァイが新兵の頼みを聞き入れるとは皆信じがたいが、美夜ならばやってのけてしまうのでは、という妙な確信があった。美夜が慌てて理由を話すと、なんだと納得してくれた。

「私がリヴァイさんを足にするなんてあり得ないってば」
「してただろ」
「ジャン……うん、まあ、結果そうなっちゃったんだけど。私の寿命縮んだよ」
「ミヨ大変だったんだな……」

ユミルに同情の眼差しを向けられ、美夜は苦笑を返した。ついでに、今日教官たちとともにいる調査兵がリヴァイであることを告げると、訓練兵の顔が凍った。と同時に、どこからかエレンが走って来て美夜の肩を掴む。起床が遅い方のエレンは先ほどまでいなかったのだが、リヴァイが一日ここにいるということだけを聞き取ったようだった。

「あの、リヴァイさんが?!」
「そうそう。嬉しい?」
「嬉しい……ような怖いような。でも話せるかもしれねーと思うと……!」

エレンは興奮から顔を赤くして、しかしリヴァイの顔を思い起こして青ざめる。エレンはリヴァイと一対一で話したことなどないが、リヴァイがそう気さくな人間でないことは一目見れば分かる。それでも憧れの存在に変わりない。

一方で、エレン至上主義であるミカサの機嫌は急降下していた。気付いていないのはエレン本人だけで、幼馴染であるアルミンがなんとかなだめている。ギリギリと拳を作るミカサの視線が美夜に向き、美夜は頬を引きつらせた。ミカサとはそれなりに友好関係だったはずだが、完全に八つ当たりである。

「ミヨ……なんでアイツを連れて来たの……」
「え、いや不可抗力っていうか……本来私、リヴァイさん預かりの身だから」
「今までは違う人だった」
「やっと仕事に一段落ついて、様子を見るって」
「……」

ミカサは赤いマフラーに顔を埋め、整った顔で美夜を睨む。アルミンが「ミヨは悪くないでしょ」となだめるが、いまいち効果はないようだ。美夜は隣で怯えているクリスタを抱き締めたいという訳も分からない衝動に駆られながら、自分を奮い立たせて笑みを浮かべた。

「ね、ミカサ。エレンはリヴァイさんに憧れてるってだけで」
「知ってるわ。エレンの脳内を占めるチビが許せないの」
「…………。リヴァイさんは馴れ馴れしい感じじゃないから、今回のことだけでエレンと仲良くなるってことはないと思うよ。むしろ、話せなくって夕飯の時にへこんじゃってるかもしれない」
「エレンを無視するなんて許さない」
「言うと思ったけどちょっと待ってね。あのね、へこんじゃったエレンを立ち直らせるのは、家族であるミカサの役目なんじゃないかな。むしろミカサしか出来ないよ、エレンのことを誰よりも良く知ってるんだから。えと……だから、リヴァイさんが来たことは悪い事ばかりじゃないんじゃないかな?」
「…………」

美夜は特に『エレンのことを誰よりも良く知ってる』というフレーズに力を込めて言った。すらすらと言い終わると同時、ミカサの空気が柔らかくなる。美夜は微笑みを浮かべたまま心の中でガッツポーズを決め、またアルミンは親指を立てて美夜に向けた。

エレンは、やはり聞いていなかった。




対人格闘訓練が開始される。巨人を相手にするはずの兵士には必要ないように思われがちだがーー事実、成績評価に占める割合はもっとも低いーーこれもまた兵士として必要な訓練だ。二人一組になり、一方が木製の短刀を持った"ならず者"を演じ、もう一方がそのならず者を無力化する、というのがいつもの内容だった。

リヴァイは一歩も動かず、訓練兵の様子を見る。キースら教官は、取っ組み合いをする訓練兵の間を歩きながら指導を行っていた。リヴァイの手には[天守月影]があり、美夜は対人格闘訓練の時だけ刀を所持していない。理由は簡単で、さほど動き回る訓練でないから、注意して刀を持つ兵士から離れないようにすればいいからだった。

「じゃ、私が先にならず者するね」
「ああ、いいよ」

リヴァイの監視対象である美夜は、アニという少女と組んでいた。いつも決まった相手と組んでいる訳ではないが、美夜とアニが組むことは多かった。制服のジャケットを脱いでいる美夜は、右手に短刀を握る。アニが、襲ってくる美夜から短刀を奪えば終了である。

皆訓練兵団に入団して一年経っておらず、まだまだ技術は未熟だ。そんな中でもアニは対人格闘が上手い。しかし、美夜から短刀を奪うのは至難の業だった。

「ぅおっと」
「チッ……」

美夜がアニの手をかわすと、アニが舌打ちをする。鼻筋の通った綺麗な顔立ちのアニが睨むと、中々の迫力がある。美夜は短刀を握り直して、アニから少し距離を取る。ふっと息を吐いてから、短刀を振りかざした。

その時だ。美夜は自分に強い敵意を向けられているのを感じ取った。殺意も交じっている気がした。

美夜が反射的に視線を走らせると、その元は広場からやや離れた位置にある茂みの中だった。殺意が真っ直ぐ自分に向かっていることは分かり、美夜の頭で警鐘が鳴る。茂みの中で何かが光ったのが見え、美夜は動きを一瞬止めた。

生じた隙を、アニが逃すはずがなかった。

「隙アリ」
「ッあ」

乾いた音がその場に響くと同時、敵意の元と美夜の線上にアニが割り込む。訓練兵や教官が音ーー発砲音の元へ顔を向けるのを、美夜はスローモーションのように視界に入れながら、アニの体を引き寄せて射程から外す。足がもつれ、美夜はアニの下になるよう倒れ込んだ。

美夜は背中から倒れ込んだ痛みに顔をしかめ、とっさに動かしかけた左腕に走った痛みにうめいた。

「痛っ……アニ、大丈夫?」
「な、あんた何して」
「あはは、ちょっと危なーーーー」
「リヴァイ!」

目を見開くアニが立ち上がり、美夜はアニの手を借りて体を起こそうとした時だ。キースが焦ったように名を呼び、美夜ははっとしてそちらを見る。アニも美夜も銃弾に当たらなかったのだが、美夜の鋭くなった嗅覚に血の匂いがしたのだ。

突然の銃声に訓練が中断され、訓練兵が右往左往する中、教官がリヴァイに話しかけている。キースは茂みに駆け寄っていた。流石に冷静だな、と美夜は一人ごちる。彼のお陰でーー毎日の訓練に必ずいるとは限らないーー混乱は大きくなっていない。

リヴァイは右の二の腕を抑え、その表情は険しかった。教官はリヴァイの無事を確認すると、訓練兵へ屋内に向かうよう指示を出す。

「発砲なんて誰が……ミヨ、助かったよ」
「ううん。無事でなにより」
「……あんた怪我は?私の下敷きに」
「気にしないで。さ、早く室内に入りなよ」

アニの気遣う言葉をありがたく受け取るが、美夜は訓練兵の流れに逆らった。アニをはじめとして親しい訓練兵から声をかけられるが、美夜はまっすぐリヴァイの所へ向かった。リヴァイは腕を抑えたままキースら教官と言葉を交わしている。抑えている方の指の隙間から、血が流れていた。

「リヴァイさん!」
「何をしている!訓練兵は屋内へ行くようにとーー」
「リヴァイさん、刀(それ)の所持許可をください」

リヴァイは、涼しい顔で教官を無視して言う美夜を睨む。許可が下りることを当然と思っているような声音に眉を寄せる。美夜がもたついているからか、訓練兵の一部が足を止めてしまっていた。

「理由は」
「発砲した人を捕まえてきます」
「それはこっちの仕事だ。今日中には見つかるだろ」
「私が行った方が早いです。三十分かかりません」

美夜がリヴァイ預かりだからか、二人の教官はもはや口を挟まない。リヴァイは握っている刀を一瞥してから、再び美夜に視線を戻す。そこで気付いた、美夜の目が冷たい色になっていることに。美夜はリヴァイに負傷させられた時でさえも、自分を殺したような冷たい目をしてはいなかった。

リヴァイは理解した。この賢い少女は、リヴァイが傷つけられたことに対して怒っているのだと。

「……根拠は」
「今なら火薬の匂いを追えます。それに、私は気配に敏感です」
「……殺すなよ」
「はい。流石にそこまではしません」

リヴァイは溜め息とともに刀を渡す。美夜は慣れた様子でベルトにそれを吊り下げて、リヴァイに頭を下げた。

「二十分で戻ってこい。でなければ削ぐ」
「分かりました」
「え、ミヨ?!」
「あ、クリスタ。ちょっと出かけてくるね」

駆け出した美夜にクリスタが名を呼ぶが、美夜は微笑んで小さく手を振った。そしてそれ以上話しかけられない内に、美夜は地面を蹴って駆け出した。

吸血鬼因子全開での全力疾走である、広場を横切るなどほんの数秒だった。美夜は茂みを跳躍してしまおうかと思ったが、訓練兵の視線があるので自重する冷静さは残っていた…
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