「壁外」と書いて


筋肉は使わなければ衰える。元々鍛えていた人間がぱたりと運動を止めた時ほど顕著である。筋肉は幾つになっても鍛えられるというが、"つくる"のと"壊す"のと、どちらが簡単かと問えば言わずもがな。

美夜は細い左腕と、むしろ太くなった右腕を見比べる。自由に動かせるようになったのが五日前、それから急ピッチでリハビリを行い、今日から器械体操・立体起動の訓練に参加する。

訂正。美夜の参加が決まっている壁外調査までの期間、"調査兵団で立体起動の訓練のみ"を行うのだ。

訓練兵団の方はどうなるのかと思ったが、キースも美夜が早く成果を上げなければならないと理解は示しているらしい。あくまで地下街出身者として、という視点ではあるが。

美夜にとってのタイムリミットは刻一刻と迫っている。早く成果を上げなければ、調査兵団内の不満が抑えきれなくなる。"地下街の者を調査兵団が引き抜いた"と憲兵団の耳に入りかつ確認などとられれば、調査兵団が地下街へおりる許可を取っていないとされ処罰が下るだろう。美夜は壁外調査で何らかの成果を上げ、存在が公となった時にそれを盾にするしかないのだ。

「加減などしない。生き残りたければ応えろ。……わざわざ俺が教えてやるんだ、分かってるな?」
「はい……」

彼に実力があることは知っている。実力者から直々に享受されることの重要さも、貴重さも、幸運さも、理解はしている。それでも、私って師匠運ないのかなあ、と思ってしまうのは仕方のないことだった。




調査兵団敷地内の林を前に立つ。訓練に使われることが少ない林の一角で、二人以外には誰もいなかった。美夜は刃のついていないグリップを両手に握り、同じくグリップを握るリヴァイを注意深く観察していた。

「……とはいっても、訓練で死なれては話にならん。操作方法は知ってるだろう。一連の動作をスムーズに行うことに集中しろ」
「はい」
「今日は木の幹でいい、飛ばなくていい。歩かずにこの林を三分で往復出来るようになれ」
「はい」
「初めは見てやるが、俺も暇じゃない。代わりにぺトラを寄越す」
「はい」

 リヴァイは会話をしながら、一番近くにあった木に向かってワイヤーを操作する。美夜はタイミングを頭に焼き付けるように、グリップの動きを見つめていた。技巧の授業で操作方法は学んだが、あくまで知識としてであり、使ったことは一度もない。

「リヴァイさんが、右を逆手にしているのには理由が?」
「削ぎやすいからだ。順手に持つのが基本だろうが、やりやすければいい」
「なるほど」

グリップにはトリガーが三つある。人差し指に一つ、中指に一つ。薬指と小指はもっとも大きなトリガーにひっかけるのだ。右だけ逆手に握るリヴァイは、本来人差し指で操作するトリガーを小指で引いていることになる。美夜は、グリップを脇のホルダーに仕舞うリヴァイを見、レバーの硬さを調節しているのだろうかと首をひねる。グリップに付属するどのトリガーも、誤作動防止のためにも、そう柔らかくはないはずだ。加えて、ワイヤーの方向を操作するスイッチも小指で操作する場面が出てくるだろうに、リヴァイはしれっとワイヤーを射出していた。

……人類最強、かあ。

美夜は腰に下げた刀の位置を再度確認し、目の前の木にアンカーを飛ばした。



「――二分三七秒」

大きく息を吐いて林から出てきた美夜に、ぺトラは目を見開いた。次いで、昼時だからと姿を見せたリヴァイを見た。リヴァイは立体機動を外した軽装で、駆け寄ってくる美夜を腕を組んで見据えていた。

「……悪くないな」
「習得が早過ぎます……まだ、半日しか経ってないのに」

朝方、リヴァイと入れ替わりで美夜の訓練をみていたぺトラは、美夜がみるみる技術を習得する様を目の当たりにしていた。最初こそ、所作を小声で確認していたのだが、すぐに林の往復を五分以内にこなすようになった。そこから少しずつタイムを縮め、三分を余裕できっている。

ぺトラは、壁外での美夜の様子を知っている。立体機動に並ぶ走力、高い状況判断力、リヴァイですら一瞬遅れた敏捷性。それを踏まえ、立体機動装置をものにすることもそう難しくはないと予想していた。けれど、これは予想以上である。

「まさかとは思うが、痛めたりは?」
「ありません。刀と離れれば、何か影響が出ると思いますけど……現段階では何も」
「……試しにカタナとの連携を切ってみろ」

リヴァイが言った直後、美夜の顔が瞬時ゆがむ。どうやらベルトの締め付けが辛くなっているらしい。立体機動訓練の初期は誰しもが通る道で、ぺトラは懐かしささえ覚えた。ただし、美夜ほど根を詰めた訓練は行わなかったため、美夜の苦痛はぺトラの想像以上だろう。

「カタナとの連携を続けることに、負担はなかったよな」
「はい」
「……なら、ずっと繋いでろ。切っても支障がなくなる程度鍛えるまでだ。所持は訓練中のみ、これは変わらん」
「分かりました」
「分かってると思うが、不審な行動はするなよ。俺の目についたら?」
「削がれます」

少しだけまがった美夜の背筋が伸びた。刀の補助なしでは辛いのが目に見えて、ぺトラは思わず小さく笑う。リヴァイからの視線を感じて慌てて表情を取り繕い、自然な話題を振った。

「午後も立体機動訓練でしたよね。目標はどうします?」
「地面に降りずに、だな。……昼休憩は長めにやるから、その間は体を休めろ」
「はい」

すい、とリヴァイが美夜に向かって手を伸ばす。ぺトラは首を傾げたが、美夜には伝わっているらしく、外した刀を渡していた。思いの外良好な関係だよね、と心の中で呟く。

リヴァイはそのまま――自動的に美夜も――昼食に行くとのことなので、ぺトラも続くことにした。午後の訓練も任されているので、ともに行動した方が都合がいい。

ぺトラは歩きながら、美夜に立体機動について問い掛ける。美夜いわく、「操作方法は知っていますし、速い移動には慣れてますから」とのことだった。そんな軽く言われても、というのが正直なところだ。いまいち納得は出来ないが、問い詰めても意味がなさそうなので止めた。

「次の壁外調査までって無理難題だと思ったけど、なんとかなりそうね」
「でしたら、良かったです。でも成果も上げないといけませんし……足手まといにならない程度じゃ、駄目ですね」
「それは、そうだけど……無茶して死んだら元も子もないよ」
「……はい」

言ってしまってから、ぺトラはしまったと気づいた。成果を上げようとやっきになって命を落とすのは、確かに無意味なことだ。しかし身を守るあまり何の成果もあげられなければ、審議で不利になる――どうあっても、美夜のリスクは避けられない。巨人に狙われないとはいっても、それが実戦でどの程度生かされるのか分からない。さらに――可能性としては低いが――リヴァイを上回るような力をつけてしまっても、危険因子として判断されかねない。いざというときに対処できる人間がいないのだから。

状況としては、巨人に対する恐怖に打ち勝つことも満足にできない"新兵"に、ベテラン並の討伐数を求めているようなもの。美夜はすでに巨人と対面しているが、人間が捕食される場面は見ていないらしい。果たして、彼女は耐えられるのか。

「けど、大丈夫です。私はまだ、死ねませんから」

ぺトラの心情を読み取ったかのように、美夜が微かに笑む。ただの自己暗示ではなく、強い自信が感じられた。彼女は本気で、死なず、壁外で巨人と戦い、盾となる成果を上げるつもりなのだ。流石、元の世界で危険な仕事をこなしていただけある。ジャケットこそ新品だが、面構えは一人前だった。

***

細い鎖のこすれる音がした。カチン、という金属音は、向けられた銃のセーフティが外れたことを示す。誰に銃を向けられているのかは分からない。

セーフティ解除を合図にしたかのように、四方八方から金属音がする。どれもが武器を取る音、あるいは構える音で、状況が呑み込めず身構えた。応戦しようにも丸腰である上、何故か"警戒"よりも"動揺"が遥かに上回っていた。

誰に刃を向けられているのか分からないにも関わらず、こんなはずはない、と頭の中で叫ぶ。彼らが、彼女らが、自分に武器を向けるなどありえない。あってはならない事態のはずだ。彼らに何があったというのだろう。自分が、なにをしくじったというのだろう。声を上げたくとも、息をするので精いっぱいだった。

「――うそつき」

誰かが言った。感情のこもっていない、録音されたような声だった。敵意も殺意も感じない。声の方へ顔を向けると、しかし目に入るのは武器だ。声の主がどうしても見えず、じっと目を凝らした。

「うそつき」

もう一度同じ言葉をかけられる。どうしても顔が見えず、人物の特定ができない。ようやく見えた武器以外のものは、きらりと光る一滴だった。




「……泣いてるの?」

美夜はベッドの上で体を起こし、行き場のない問いかけを落とす。

窓からは白い光が差し込んでおり、手で眩しさから目をかばう。こらえきれない欠伸をしてから、緩慢な動作でベッドから降りた。起床時刻よりは幾分早いだろうが、寝付けそうにない上、二度寝をしたほうが体が重くなりそうだった。

着替え途中、ベルトの跡を指でなぞる。治癒力が高いお陰で赤味はすっかりなくなっている。少し皮膚が硬くなっている気がして、少し誇らしかった。

入団当初に渡された白いブラウスを着て、兵服である白いズボンをはく。ベルトの装着も慣れてきており、スムーズに身に着けていく。体を軽く動かし、違和感のないことを確認してからブーツを履いた。髪は立体機動に巻き込まれないよう、高く結い上げる。いつもならこの後、掃除にとりかかるのだが――贅沢なことに、勝手に部屋を出られない美夜にも掃除をさせるため、数点の掃除道具が部屋にある――隣の部屋で休んでいる、三時間睡眠さえ危うい上司の邪魔をするわけにはいかない。美夜はまだ、刀の力を借りっぱなしだった。

顔を洗いに行こうにも部屋から出られない。立体機動装置の点検でもしようかと、簡易工具セットを出す。昨晩も整備したので、不備があるとは思えないのだが。

「用心に越したことはないよね――壁外調査だから」

グリップを握ってイメージトレーニングする美夜は、夢のことなどすっかり忘れていた。



五〇メートルもある壁を前に、調査兵団が隊列をなす。民衆が集まり、兵士に声をかけるが、帰還時には汚い野次へと変わっていることをベテラン兵は知っている。壁外調査の監査数が片手で十分足りる程度の元一◯一期生は、まだ民衆の視線に耐えかねているようだった。

一つの部隊をあずかるハンジは、もちろん熟練兵の一人である。野次へと変わるであろう声援に複雑な感情を抱きつつも、いつもの調子で周囲の兵士に声をかける。毎回、出立前に目の前に迫る巨人への情熱が抑えきれず、近くの兵士へ当たり次第に語りだすハンジだが、今回ばかりは標的がいた。

ハンジの右隣と右斜め前に、一際黒い毛並の馬がいる。血のつながりがあり、よく似た馬に乗るのはリヴァイと美夜だ。人類最強と呼ばれ始めて数年たつリヴァイは、名指しの声援があるにも関わらず不機嫌そうに前を睨んでいた。美夜は調査兵団の外套をかぶり、物珍しそうに壁を見上げている。リヴァイ預かりであり、リヴァイと行動を共にすることが多い美夜は、一部から"忠犬"だの"ペット"だの言われている。ハンジがはじめてそれを聞いたとき、それはもう盛大に笑った。

「ミヨ、緊張してる?私は興奮している!もうすぐ巨人に会えるからね!今は亡きカールに負けない可愛い巨人がいればいいんだけど……!」
「ハンジさん、テンション高いですね」
「ミヨは落ち着きすぎ!あーいや、浮つけばいいって訳じゃないよ、もちろん。けどもうちょっとさ、なあ?ミヨはあれか、リヴァイと一緒にいすぎて不愛想がうつったのか?」
「っせえハンジ……」

話に巻き込むな、と鋭い三白眼が語っている。新兵なら口をつぐんで目を反らしそうな鋭さも、ハンジにとっては慣れたもので、軽快に笑い飛ばした。美夜にとっても慣れたものらしく、フードの中で苦笑していた。

「体調は?」
「万全です」
「緊張は?」
「程よく」
「うん、初陣のくせにベテランみたいな肝の座り方だ」
「ありがとうございます」

美夜には、巨人に対する憎しみも、壁外への高揚も、実戦への緊張も、捕食されることへの恐怖もみられない。ただ自分がすべきことだという義務感や使命感を、ハンジは薄らと感じた。入団当初のリヴァイも色々と規格外だったが、彼女も相当である。

索敵陣形における美夜の配置は、初列・索敵班。陣形の中で最も巨人との戦闘が多くなる場所だ。当然死亡率も高いし、新兵が配置されることはまずない。普通の新兵にとっては死亡宣告のそれを、「あ、了解しました」と頷く美夜を見た時には笑うしかなかった。危険性もしっかり伝えていたにもかかわらず――リヴァイが言ったのだ、最早脅迫だった――あっけからんと了承していた。

「立体機動も調子いらしいし、怖いモンなしだ」
「……立体機動(ソレ)に関しちゃ、まだまだ甘いがな」
「誰と比べてる?あなた、自分を比較対象にしたらダメだよ?」
「ミケさんに、"立体機動訓練で落ちこぼれの新兵"だと評されました」
「新兵扱いなだけ十分だ。卒団生は三年間、体に刻み付けたんだから」

地下街で立体機動装置を駆使していたリヴァイは、入団当初からベテランをしのぐレベルだと言われていた。素質こそあれど立体機動を使って日が浅い美夜は、せいぜい新兵レベルらしい。ハンジは、なるほどね、と肩をすくめた。世の中うまくできている。

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