わたくしの世界へようこそ


※すごくIF※



 詳細は省くが、錦は瞬間長距離移動が可能である。ただ、多少無理をすればという注意書きがつく能力であり、寝ぼけて使えるような代物ではない。従って、景光と買い出しに出かける道中急に景色が変わったとき、錦は何者かからの襲撃を考えた。
 昼が夜になり、街から森に。喧騒は消え去り、そよ風に木々が揺れる音だけがする。
 神経を尖らせても、何者の気配もない。

「……錦、これは」
「わたくしは、関与していないわ。けれど、攻撃の類でもなさそうね」
「こんな攻撃アリか? 後ろから殴りかかってくるとか、分かりやすいやつにしてくれ」

 話しながらも、警戒は止めない。しばらく立ち尽くしていたが、本当に何も起こらない静かな森だと分かると、お互い顔を見合わせ、静かに歩き出した。

「獣道は危ねぇな……でも今手を塞ぎたくないから、気をつけて歩いてくれ」
「はぁい。どこへ向かおうかしら」
「開けた場所を探そう。星が見たい」
「なるほど。それなら、わたくしが見るわ」
「ここからじゃ木が」

 軽い跳躍で木の枝に上がり、そこから夜空へ垂直跳びをする。空中で体をひねって星を見ると、枝葉に擦れつつ地面に降りる。
 と、と、とん、すとん。
 異常事態だ、景光の前だからといって色々と遠慮はしていられないのである。
 景光が呆気にとられつつも「金メダル」と口にした。錦の行動に対する慣れが垣間見える。
 錦は軽く服を払った。

「どうだ?」
「とっても天気が良いわよ。きれいに見えたわ」
「ここがどこか分かる?」
「ええ、大まかには。……景光、重ねて言うけれど、この移動はわたくしのあずかり知るものではないわ」
「ん? ああ、疑ってないよ。それで?」

 景光が続きを急かす。特殊な職業で危険と隣合わせな彼が、早く安全圏へと考えていることがわかる。
 錦は、珍しく心底困った顔をした。どうしてこうなったのか分からないし、ここがどこかも分からない。ただ、大雑把に判明したことがあった。

「わたくしの世界へようこそ」



「待って」

 景光が頭を抱えてしゃがみこむ。
 錦はさすがにかわいそうになって、景光より小さくしゃがむとその顔を覗き込んだ。

「ここがわたくしの世界な以上、わたくしは無関係とは言えなくなったわ。けれど、わたくしは確かに知らないし、おそらく巻き込まれた側よ」
「黒幕が錦だとは思ってないさ。ただ、そもそも世界って何」
「わたくし、多分、景光が生きている世界とは別のところからきたの。つまりここなのだけれど」
「ええ、なに、えええ……? 俺普通の人間だけど大丈夫?」
「大丈夫よ。わたくしは特殊なほうだから」
「錦の特殊さって異世界共通なんだな」

 景光がしゃがんだまま顔を上げる。より小さくなっている錦を見て少し笑った。

「なら、まあ、ちょっとは安心していいか?」
「おそらくね」

 錦も笑う。
 なんとかなるだろう。何とか、出来るだろう。実際に錦は一度、現金から家の調達まで全てどうにかなった経験がある。戸籍だってねじ込めた。
 現在地が森ということだけが問題だ。
 とりあえず動こう、と。森を抜けるかひとと出会えるか、水場を見つけるだけでもいい。じっとしていても始まらない。
 そうして動き出した矢先、錦は景光のズボンをつかんだ。

「ストップ」

 視線の先には狼がいた。距離は五〇メートルほど。黒い毛並みは暗闇に溶け込んでおり、錦の目でなければ気づけない。案の定、景光は暗闇に目を凝らしてしばらくしてから後ずさっていた。
 
「狼はまずいだろ」
「いえ、あれは多分……」

 錦は景光より前に出て、じっと狼をうかがう。狼は錦らを見ながらも近づこうとはせず佇んでいた。
 ただの獣ならば錦がとっくに気付いている。獣特有の匂いがないのだ。それどころか同族の気配がする。とても"濃い"同族だ。自分と同じ、はじまりのひとりだと思われた。その中でも、この気配は。
 錦は声を張った。

「気付いてくれたの? ここがどこかも分からないの。手を貸してくれないかしら」

 狼がのそりと錦らに背を向ける。首をひねって振り返る様子は、ついて来いと言わんばかりだった。

「やったわパパ、これで安全よ」

 錦は景光の手をとって、狼の後を追う。

「もしかしてもののけ姫でも始まる?」
「のののけ?」
「もののけ」
「待っているのは、どちらかというと王よ」
「山の神じゃん」

 もごもごしつつも狼に続く。足取りの軽い狼は時々錦らを振り返りながら、二十分ほど道案内をしてくれた。
 狼が案内を終える前に、既に錦と景光は建造物を目にしていた。控えめな装飾の洋館だ。複数の棟が繋がっており、とてもじゃないが家の規模ではない。洋館の役割に気づいたのは、狼が廊下に入ったときだ。等間隔に並んだ扉と掲示物はここが学校であると示していた。錦と景光がいたのは、この学校の敷地だったのだろう。
 狼は、ある一つの扉の前で影に溶けて消えた。

「……景光、抱っこして」
「今?」

 扉の向こうからは、たくさんの同族の気配がしていた。



 扉の向こうからは、吸血鬼と人間の気配がしていた。
 英(はなぶさ)は、扉のわきに立っていた。暁(あかつき)も扉の近くに待機している。扉の正面、窓際には我らが寮長が悠然と立っている。
 「誰かいるなと思ったら、どうやら友人だったから。ここに呼んでも構わないかな」寮長がそう言い、授業を中断させたのはつい先ほどのこと。教師もクラスメイトも異を唱えるはずもない。授業は中断され、みんなして自分たちの主の友人を待ち構えていた。
 寮に呼ぶべきでは、と副寮長が言ったが、その提案は却下されていた。英はその理由を、今になって理解する。人間がいるからだ。吸血鬼が暮らす月の寮に、いくら寮長の友人とはいえ人間が足を踏み入れるのはよろしくない。対して、昼は人間が使っているこの学舎ならば問題がない。
 外でなにやら話す声がしてから、扉がノックされた。
 英は、主の様子を確認してから暁を見る。壁にもたれていた暁が、溜めを置かずに扉を開いた。
 廊下には、人間の男と、男に抱き上げられている吸血鬼の女児がいた。男が自身に集まる視線に硬直しているしている一方、女児は教室内をきょろきょろ見回していた。

「こ……こんばんは……?」

 男の声は困惑一色だった。

「こんばんは」

 女児の声は柔らかかった。
 返答したのは、扉を開けた暁だ。

「こんばんは。あー……あんた、そんな緊張すんな。取って食いやしねぇよ」
「そ、そうか……?」

 男は、暁の言葉に少しばかり肩の力を抜いたらしいが、居心地は悪そうだ。好奇と値踏みの視線にさらされているから当然である。
 アポイントもなく突然学園にやってきた事情を聞こうと、英も口を開きかけたとき、穏やかでよく通る声がした。

「枢(かなめ)」

 女児が、我らが寮長・玖蘭枢(くらん かなめ)様の名前を呼び捨てにした。
 教室に衝撃が走る。吸血鬼は、純血種を尊ぶように出来ている。そういう風に刷り込まれている。枢のことを呼ぶ捨てに出来る吸血鬼と言えば、同じ純血種か、幼い頃から枢の友人として対等の副寮長くらいなものだ。
 英も玖蘭家の派閥で、幼小から枢と夜会で顔を合わせているが、とても呼び捨てには出来ない。純血種とはそういう存在だ。
 女児は吸血鬼だ。それは間違いない。階級までは見抜けないが、純血種ではないことは確実だ。
 生徒の視線が枢に集まる。彼に、副寮長以外にここまで親しい吸血鬼がいるなんて。副寮長も驚いたような顔をしていた。
 女児が続ける。

「枢、お迎えありがとう。助かったわ」

 生徒たちが緊張する中ようやく、枢が口を開いた。

「まさかと思ったよ。どうしてあそこに?」
「わたくしが聞きたいわ」
「それに、"それ"……まあいいか。元気そうで何よりだよ」
「あなたも」
「そちらは?」
「わたくしのパパ」
 
 母親が吸血鬼で、父親が人間なのだろうか。父親と枢に面識はなさそうだが。
 枢の視線が男に向く。男が息をのんだのが分かり、英は内心で「分かる」と頷いた。枢のことは敬愛しているが、純血種は独特の圧がある。それは人間/昼間の生徒に対してすら作用する。一対一で対面するときは、嬉しさとおそろしさが渦巻くのだ。
 きっと、生徒一同が男に同情していた。

「ちょっと、枢。わたくしのパパを値踏みしないで」
「パパ……ふふ、ふ、楽しそうだね」
「楽しいわ。それより、いつまで立ち話をするつもりなの?」
「きみは立ってないだろう」
「"こんなところ"に、人間のパパを丸腰で入れるわけにいかないでしょ」
「賢明だね」

 枢が窓から背を離した。

「理事長のところへ案内するよ。一条、あとのことはよろしくね」

 副寮長・一条拓麻が指名されて軽く承諾する。

「いいけど、友達の名前すら教えてくれないの? 無理にとは言わないけれど、僕すら彼女のことを知らないからさ」

 みんなも気になるよねえ、と拓麻が教室内を見回す。挙手する者も声を上げて賛同する者もいないが、よくぞ聞いてくれたと視線で語っていた。
 女児を抱き上げる男の前に立った枢は、教室内を見て、女児を見て、小首をかしげた。

「だ、そうだけれど」

 判断は任せるということらしい。枢に集まっていた視線が女児に移った。
 女児にためらいは特に見られず、父親だという男の腕に収まったままで、生徒たちに笑顔を向けた。

「自己紹介が遅れたわね。わたくし、橙茉錦よ。こちらはパパの景光。よろしく、枢のお友達」
「じゃあ、行こうか」
「待、待ってください」

 さらっと出ていこうとするので、今度は英が生徒を代表して声をかけた。
 とてもじゃないが、聞き流していい名前ではなかった。"橙茉"は純血種の家だ。血縁だとしても、混血はその苗字を名乗れない。

「枢様、彼女は純血種……ではないですよね? 橙茉家の血筋ということですか?」
「ほら、きみが本名を名乗るからややこしくなる」
「わたくしが、己を偽るとでも思ったの?」
「いいや」

 本名らしい。
 純血の家系を名乗った彼女は、愉快そうに英に顔を向けた。そこに枢ほどの圧はないが、確かに、普段顔を合わせる上流階級/クラスメイトとは違った雰囲気があった。

「あなた、お名前は?」
「え、藍堂英(あいどう はなぶさ)だが……」
「枢。あなた英さんに"入れる"わよね」
「やろうと思えば」
「英さん、そういうことよ」
「枢様を呼び捨てなら僕もそうしてくれ……ませんか」

 つまり、彼女は貴族階級に憑依している純血種だと。
 しかし、現在の橙茉家に錦という名前の吸血鬼はいただろうか。

*

 景光は、玖蘭枢(くらんかなめ)というやたらめったら美麗な男子生徒に続いて歩いていた。
 白いブレザーは黒のラインで装飾されている。カッターは黒。ネクタイは臙脂色。カフスやベストのボタンはすべて銀の薔薇。特に驚くべきは靴で、彼らはみなとても学生靴とは思えない上等な革靴を履いていた。濃いセピア色で、レースアップのウィングチップ。
 彼に限らず、皆が上流階級の家柄なのだろう。教室にいた全員が、佇まいも雰囲気もただの学生ではなかった――それは、人間ではないからかもしれないが。
 理事長室へ向かうという枢は、耳触りのいいテノールの声でゆったりと説明をしてくれた。

「ここは黒主(くろす)学園です。昼間に授業を行う普通科がメインですが、高等部には夜間に授業を行う夜間部があります。僕らは夜間部です。夜間部には学年制がないので、やりたい研究をやりたいだけ行うという生徒もいます。全寮制なので、生徒はみんな寮暮らしです」
「ええと、玖蘭さん、は」
「枢、でいいですよ」

 アイドルのように外見の整った男子生徒から「枢様」と呼ばれていた彼を、とても呼び捨てには出来ない。しかし錦の友人だというのに堅苦しいのも味気ない。

「じゃあ、枢くん。枢くんは、夜間部の中心的な存在なのか?」
「寮長をしています」

 納得していると、抱き上げている錦が口を挟んだ。

「枢は王様なのよ」
「山の神?」
「ええ。だから、彼らは枢に逆らえないわ」
「それは錦もだろう?」

 先を歩く枢が笑ったのが分かった。
 純血種、という言葉が景光の脳裏をよぎる。あのアイドルのような彼は、ためらいがちにそれを確認していた。錦が純血種かどうか。そしてそれを錦と枢が肯定すると、彼は錦へのため口を止めたのだ。
 なんの血統の話かは景光には分からないが、ここでは――おそらく人間ではない者が集う夜間部では、血筋がとても重んじられ、枢と錦は"王様"なのだろう。
 夜間部の教室を最初に見たとき、ここはアイドル養成所なのか、と思った自分はおそらく相当に楽観的だった。

「ああ、そうだ」
「はい?」

 枢が肩越しに景光を見る。
 黒いくせ毛も、長すぎるまつ毛も、ワインレッドの凪いた目も、玖蘭枢を形成するすべてが出来すぎなくらい美しい。
 錦で見慣れていなかったら、腰を抜かしそうなくらいだ。

「良かったです、景光さん。あなたが今抱え上げている存在は、この世界では敵なしですよ」

 そうなのだろうか。枢と同等だというのならば、そうなのかもしれない。

「自慢の娘だよ」

 返答に迷った末にそう言うと、枢はなぜか嬉しそうに目を細めた。
 国が傾きそうである。

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