それでは来世で2




 テレビを見る限り、世間は男児の誘拐事件で持ち切りのようだった。誘拐事件そのものではなく、警察側の不手際で盛り上がっていた。事件の詳細までは報道されなかったが、身代金を丸ごとを奪われ、犯人を取り逃がしてしまったらしい。男児が無事に戻ってきたのが幸いだ。だが、マスコミはそう優しくない。
 誘拐時の男児の足取りを報じているコーナーをのんびり眺めていると、寝室からのそりとジウが起きてきた。
 今は午前十一時を過ぎている。

「あ、おはよう。良く寝てたね。帰ってきたの何時頃だったの?」
「四時とか、多分。覚えてない……」
「もう朝じゃん。コーヒー淹れるね。パンも焼く?」
「うん」

 キッチンに入ってジウの朝食を準備していると、不意に雑音が消えた。パンを焼いて、コーヒーメーカーを動かしている間にリビングダイニングをうかがうと、テレビが消えていた。部屋は、ミル式全自動コーヒーメーカーの豆を挽く音しかしない。ジウはいなかった。
 珍しいこともあるものだ。わたしは驚いた。音量を下げる、番組を変える、ではなく、電源を落とすのは初めてだった。
 コーヒーを待っている間に、ついでにベーコンエッグも焼く。このくらいならわたしでも出来る。
 すべての準備を終えてダイニングに持って行くと、ジウが座って待っていた。

「嫌いなアナウンサーでもいるの?」
「なんで?」
「テレビ。消してたから」
「……別に、なんとなく」
 
 ジウは理由を言わずに食事を始める。何もないわけはないだろうが、追及するのも気が引けた。言いたくないなら、それでいい。わたしはジウに対して<繊細>というイメージが強いのだった。
 ジウが黙々と食事を進めるのを何となく眺める。本当に、何を考えているのかよく分からない。
 ただ、何となく、さきほど付けていた番組はこれから見ないでおこうと思った。ジウが何を気にしていたのか分からないが、小さなことでもわたしはジウを理解したいのだ。



 我が家は部屋数こそ少ないが、高級マンションとあって一室一室がとても広い。わたしの寝室も、とてもじゃないが使いこなせないほど広い。運動器具や据え置きゲームや本棚はこれまた無駄に広いリビングに置いているので、本当に寝室は空間の無駄遣いなのだ。広すぎるキングサイズベッド、やたらと立派なドレッサー、あとはほとんど使わないソファがぽつんと置かれている。大して数のない服やカバンは衣装部屋に置いているので、ウォークインクローゼットはただ空気を抱え込んでいるだけだ。
 わたしは完全消灯して就寝する派なので、夜中に目を覚ましたとき、暗闇の中に放り出されたような気分になる。天気によっては月明りが入ってくるが、それを反射するのはフローリングだ。散らかった服や化粧品でも照らされれば生活空間らしいが、生憎、わたしはそこそこ綺麗好きなのだった。
 暗闇にぽつんとベッド。そこにぽつんとわたし。それだけの夜。
 急に寝苦しくなって体を起こした。時計を見ると深夜二時。草木も眠る丑三つ時だ。物理的に驚かせてくるものはともかくホラーは苦手ではないので、二時かあ、とそれだけ思いながらベッドを降りた。瞼は非常に重いが、なぜか眠れない。キッチンで水でも飲んで、トイレでも行って、それからまた横になったら眠れるだろう。
 部屋のドアを引き寝ぼけ眼で歩き出そうとして、そこそこ大きなものに足を取られて前に転倒した。ゴゴン、と大きな音が静かな部屋に響く。廊下の電気は自動点灯なので、わたしの無様な転倒を即座に照らしてくれた。
 部屋の前に何か荷物でも置いただろうか。いやそんなはずは。ジウが何か置いたのだろうか。いまいち状況が飲み込めていないわたしに、手が差し伸べられた。
 当然、ジウだった。

「ごめん」

 どことなく申し訳なさそうに、ジウがわたしを立たせてくれる。部屋着で、髪は雫がたれない程度に水分を持っていた。わたしが眠るまでは戻っていなかったので、わたしが眠ってから帰宅し、シャワーを浴びて着替え、そうしてなぜかわたしの部屋の前に座っていたらしい。

「……え、わたしはジウにつまづいたの?」
「うん」
「なんでここに……。わたし蹴っちゃったでしょ、大丈夫?」
「それは、俺のセリフ」
「痣にはなるかもだけど、大丈夫だよ」
「……ごめん」
「わたしに用事? なにかあった?」
「……」

 何も言わない。ただ、わたしを立たせてくれた手を離さないので、何か思うところはありそうだ。

「怪我とか? 気分悪いとか? 熱ある?」
「ん、大丈夫、平気。何でもない」

 そうは見えないが、話してくれそうにもない。
 手をつないだまま、わたしはキッチンへ移動した。意外にも、そのままジウがついてきた。水を入れるときには手を離したが、それでもジウはそのまま動かなかった。
 コップ半分の水を飲む。ジウにも渡すと、なにも言わずに飲んだ。もしやただすごく眠たいだけでは、とそんな予想が頭をよぎる。しかし、それなら尚更、わたしの部屋の前にいる理由はない。
 もう一度、今度はわたしから手をとって、ジウの部屋へ連れて行く。立ち入り禁止というわけでもないので、そのまま開けた。ジウの部屋は、案外わたしの部屋より散らかっている。ナイフやら、銃やら、その手入れ道具である。また増えてるなあと思いながら、大きなベッドに誘導した。

「ほら、おやすみ。疲れてるんでしょ」
「眠い」
「そうみたいね」
「……トトリ」
「うん?」
「トトリ」
「うん」

 夜がこわいとか、そんな歳でもない。しかし何か、ジウにとってよくないことがあったのかもしれない。
 ジウの背中に手をまわした。子どもをあやすように背中で手を弾ませる。こうすると、顔は女の子みたいでも男のひとなんだなあと実感する。ジウは上半身裸でリビングにいることがあるので、今更といえば今更だが。
 よしよし。疲れたね。お疲れ様。もう休もうね。
 猫背をあやしていると、だらりと下げているだけだったジウの腕がわたしに回ってきた。そのままわたしを持ちあげて、二人してベッドに転がる。

「お、お、お?」
「……」
「ジウ?」

 嫌な思い出があるので身を固くしたが、ジウはそのまま寝息を立て始めた。ただの抱き枕としてのご指名らしい。
 脱出を試みたが、ジウの手足が重かったのと、ベッドに埋もれて眠気が襲ってきたのとで、ろくに力が入らなかった。
 眠いしもういいや、と投げやりな気持ちで目を閉じる。
 誰かと眠るのはいつぶりだろうか。眠れるだろうかと不安もあったが、わたしはあっさり睡魔に負けた。


 食器が当たるようなかちゃかちゃした音で目が覚めた。目を細めて置時計を探すが、目に入らない。そういえばジウの部屋で寝たのだったと気づいたのは、時計を探すうちに、当のジウがベッドに背を向けてフローリングに座っているのが目に入ったからだった。
 赤。シンプルな服装の多い――わたしの趣味ともいう――ジウにしては珍しく、全身赤色のコーディネートだった。
 ベッドでわたしがもごもごしていることに気付き、ジウが振り返る。

「おはよう、トトリ」
「……はよ」

 寝起きを見られたくないとか、そういう感情はあまりない。五年家族同然に過ごしていれば慣れもする。髪を手で梳きながらベッドに座る。あくびも一つ。深呼吸をすれば、目も覚めてくる。

「今何時?」
「六時」
「ジウはやいね……おしゃれもしてる。あ、ご飯食べた?」
「トトリ」
「パン焼こうか」
「違う、トトリ」
 
 ベッドに座ったままのわたしに、ジウが金属の板のようなものを差し出してきた。黒くて平たい。寝起きの頭では大きいキットカットのように見えたが、わたしはこれが何か知っていた。バタフライナイフだ。端についている留め具を外すとこれが二股に分かれ、間から刃が出てくるのだ。わたしの手には少し大きいそれは、おそらく、刃渡りが二十センチ近くになると思われた。
 受け取って、ジウを見る。

「あげる」
「えっ……いらない……」

 こんなおそろしいもの。ジウはたまにリビングでこういったナイフを弄んでいるが、わたしは触ったことが無い。
 速攻で拒否をしたが、ジウは「あげる」と言って返品を受け付けてくれなかった。

「トトリ」
「ジウ、ナイフ返す」
「しばらく、外、出ないで」
「出るもなにも、鍵かかってるし」
「トトリ」
「何かあるの?」

 今日はよく名前を呼ばれるなと、そんなことを思う。
 ジウはわたしの問いに、首を少しだけ傾けた。あざとい仕草も様になってしまう。全身赤の服も相まって、何か物語の登場人物のようだった。赤色だが戦隊モノという見目ではない、どちらかというとお姫様だ。間をとって、王子様とか、そのあたり。
 何かあるのは確実だろう。ある、というか、起こす、というか。きっとあのオジサンも関わっているに違いない。

「トトリ」
「うん」
「チンメイシィ」
「ん?」

 ジウはなにか中国語を口にする。わたしは、ニーハオとかシェシェくらいしか分からない。しかし意味を聞く前に、ジウは部屋のドアを開けていた。

「出かけてくる」
「あ、うん、いてらっしゃい……」

 わたしはナイフとともに残される。留め具を外して、おそるおそる二股を開く。ふらふらと揺れる刃が出てきて、そっと戻した。とてもよく切れそうなことだけが分かった。
 猫が人間にねずみの死骸を持ってくるような感じなのだろうか。ジウなりのプレゼントなのだろうか。物騒だが、一応、喜んでおいていいような気もする。
 冷たい金属を握って、フローリングに立つ。

「あ」

 散乱していたナイフと銃器の部品が、きれいさっぱり無くなっていた。


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