Cry, Cry, Cry.2


 最初の部屋と同様、凹み、傷ついた木製の扉を開く。赤黒い色もまとわりつく悪臭も相変わらずだ。
 目に入るのは、洗面台やトイレや浴槽。ビジネスホテルのユニットバスを広くしたような印象を受ける。間仕切りのカーテンはボロボロ、洗面台の鏡は砕け散っており、役目を果たせそうになくなっていた。
 幸村がゆるりと足を踏み入れると、望月はすいすいと入室してバスルームの真ん中に立った。そこでじっと、指示を待つように幸村をうかがっている。

「ここは、バスルームだったんだね」
「ちゃんと使ったのは、もうずっと前」
「木の扉はなく、鉄のだけか……」

 一人ではびくともしなかった鉄の扉が右手にあるのみで、木の扉は見当たらない。望月と協力すれば開くかもしれない、と幸村は頑丈な扉の前に立った。望月も一人ではこれの開け閉めが難しいはずだ、今まで探索出来ていないかもしれない。
 幸村は、何をするでもない望月を振り返った。

「これの向こう、何があるか知ってる?」
「廊下だよ。前は開いてたから」
「え、そうなの?なんで閉まってるんだろ……」
「わたしが全部閉めた」
「なんで?突きあたりになるのかい?」

 望月は自発的にほとんど話さない代わりに、幸村の問いには素早く簡潔に答えてくれる。機械的な対応に反した人間味ある話し方や声音はアンバランスで、しばらく慣れそうにない。

「部屋は全部で六つある」
「六つ……ってことは、俺が見てない部屋があと三つ?」
「そこを開けないと行けないけど、おっきいクモがいるから開けたくない」
「……クモ?」
「廊下に二匹」
「他に通路は?」
「わたしは知らない」

 望月がかすかに表情を苦いものにしながら、鉄の扉を見やる。
 虫だらけのこの場所にいながら、クモを嫌がるのは何故だろう。単にクモが大嫌いなだけなのか、虫が平気な人間が気味悪がるほど大きいのか。
 おびただしいほどの甲虫や死体や血に慣れながらもクモにのみ慣れない、ということを少々疑問に思いながら、幸村は鉄の扉に手をついた。

「これを開けるの、手伝ってくれ」
「……おススメしない。やめたほうがいい」
「じゃあ、少しだけにするよ。様子を見て、すぐに閉める。これならいいだろ?」
「……分かった」

 不承不承を隠さず、望月が幸村に並ぶ。せーの、と静かに掛け声をかけて力を籠めると、頑丈な扉がずるずると開いた。
 幸村は十五センチほど空いた隙間から、そっと廊下を窺った。
 人が二人並ぶと余裕がなくなりそうな狭い廊下には、糸が張り巡らされている。赤い糸には人間だったものが絡めとられ、身体を食い破られていた。
 しかし、幸村が呼吸を止めたのは、凄惨な死体を目撃したからではない。
 クモを思わせるフォルムだが、大きさがケタ違いだ。幸村の腰ほどはあるだろうか。一つは床に、一つは天井にいた。紫がかった膨らんだ体に、黒い毛でおおわれた長い脚。幸村の行動を待つように、キチ、キチ、と奇妙な鳴き声をあげている。
 ただのクモとくくるには巨大すぎるそれと、目が合ったような――。
 その瞬間、ずおん、と鉄の扉が閉まった。

「あ……ありがとう」

 呆けていた幸村に代わり、望月が扉を閉めてくれたらしい。一人で動かすには重かったのだろう、望月はよろけて扉を背に座り込んだ。
 幸村は深呼吸をして、なんとか鼓動を落ち着ける。望月に、恨めし気に見られているような気がした。

「……望月さんの忠告の意味が分かったよ。確かに、大きいクモだ。あれらに気付かれないように動くのは難しいな……」
「うん」
「ここ、消火器とかない?」
「うん、ない」
「そっかあ……でも、ここで行き止まりなんて俺は認めな……?」

 視界に何かが引っかかり、幸村は早足で洗面台に向かった。
 ぽつりぽつりと水滴が滴っているが、蛇口をひねっても水の勢いが増すことはないだろう。鏡は大きくヒビが広がり、割れて砕け散っている。
 幸村は、床に散った鏡の破片に視線を落とし、おもむろにしゃがみこんだ。
 嫌悪感をこらえて、床の虫や髪の毛、積もったほこりを取り除けると、鍵穴のようなものがあった。目を凝らすと、床にうっすらと境目があるのが分かる。手の甲で床を叩けば、鍵穴の周辺だけ響き方が異なっていた。
 続いて汚れた床に手を這わせると、浅いくぼみにひっかかる。指先が辛うじて入る程度だ。力を込めても、びくともしない。

「……望月さん、これ何か知ってる?床下収納?」
「開けたことないから、分からない」
「鍵がかかってるみたいなんだけど……どうにかして開けられないかな。鍵はない?」
「見たことないよ」
「あったら開けてるか、そりゃそうだな。……じゃあ、針金は?細くて硬いものはない?」
「……ヘアピンなら、多分ある」
「持ってきてもらえる?」
「うん」

 すぐに望月が頷く。コツコツぐちゃ、と床の虫を躊躇いなく踏みつぶしながらバスルームを出た。
 幸村は床のみぞと浅いくぼみをなぞっていたが、ごどん、と鈍い音がして顔を上げた。ヘアピンを探すにしては不可解な音だ。耳を澄ますと、虫の這う音と蛍光灯の音に混じって、重いものを動かすような音が聞こえている。
 
「望月さん?」

 立ち上がり、望月を探す。調理場には姿がなく、最初に幸村がいた部屋から物音が聞こえていた。 
 木の扉は開け放たれている。幸村は、脳裏に甦るショッキングな光景に気後れしながらも部屋をうかがい、すぐに視線を逸らした。
 一ケ所に積み上げられていた死体の山がくずれ、悪臭を一層ひどいものにしている。狭い部屋の半分ほどが、視界に入れたくない光景になっていた。ごどん、ごどん、という重い音は、望月が死体を動かす音だったのだ。望月は、死体からヘアピンを探しているらしい。
 幸村は視線を落としたまま後ずさり、調理場からバスルームへとゆっくり移動した。ただ死体の山を見るよりも、強烈で惨たらしいように感じた。積み上げるよりも、目に入る死の数が多い。

「いや、比べるのもおかしいだろ……」

 バスルームの一部、幸村自身がほこりを払って綺麗になった床に座り込む。片膝を立てて肘をつき、頭をかきながら目を閉じる。ずいぶん懐かしい気がするテニスコートとチームメイトたちを思い描き、投げ出したくなる気持ちを落ち着けた。
 とたた、と足音がして幸村の傍で止まる。きつい腐臭が鼻を突き、幸村は顔をひきつらせながら目を開けた。
 望月がしゃがみ込み、赤黒さがこびりついた手を幸村に差し出している。

「ヘアピン、見つけたよ。二つ」
「ああ……ありがと」

 ためらいなく死体を漁った手から、死体が身に着けていたヘアピンを取る。少し手が震えた。
 気を取り直し、ヘアピンの一本を鍵穴に突っ込む。引っかかっている感触はあるものの、上手く回らない。一度抜き、ヘアピンを力づくで開いてから再び突っ込んだ。コツコツと奥に当たる音がした。
 幸村には、鍵をこじ開けた経験などない。あてずっぽうで動かすこと数分、運良くカチャリと鍵が回った。
 
「!開いた……」
「幸村くん、すごい」

 幸村の傍でじっと見ているだけだった望月が、ぺちぺちと手を叩く。
 幸村は腰を上げて床扉の上から移動し、浅いくぼみに指先をかける。扉はそう重くなく、望月の力を借りなくとも開くことが出来た。
 人一人分が通れそうな、細い階段が下へ伸びていた。今いるフロアが地上か地下なのかはっきりしないが、まだ下に空間があるようだ。他の部屋と変わらず薄暗く、蛍光灯は気息奄々としている。
 幸村は、狭い階段を恐る恐る降りていく。すぐにローファーの音が続いた。
 幸村は、違和感にすぐ気が付いた。まとわりくつような悪臭がないのだ。埃っぽいにおいはあるが、血臭や腐臭が一切ない。虫もおらず、壁も床も白を保っていた。
 階段はおよそ一階分。階段を降りた先には狭く短い廊下があり、反対側にはまた階段が見える。廊下も階段と同じく、虫もなければ、目を覆いたくなるような惨状もない。ただ、点々と血が伝い、一人の男性が倒れ伏していた。
 普通ならそれだけでも狼狽するところ、幸村は顔をしかめただけだった。もう一生見たくない惨烈なものを見た後では、衝撃も薄い。ただ、直視したくはない。
 ちらりと見ただけで確認できたのは、男性の傍に拳銃が転がっていることと、腹部が不自然にえぐられていることだ。鉄扉の隙間から見たクモに応戦しようとして食われてしまったか、この環境に絶望して自殺した後に食われたか、そのあたりだろう。
 
「望月さん、この人知ってる?」

 後ろにいた望月が、幸村の脇をくぐるようにして前に出る。死体に驚いた様子ももちろんなく、男性をじっと見て頷いた。

「見たことはあるけど、誰かは知らない。ここの人」
「ここの?……どこの?」
「わたしたちをここに閉じ込めた人」
「……アトラック=ナチャ?」
「違うよ。最初にわたしたちを集めて詰め込んだ人」

 そういえば望月は、『最終的に蓋』をしたのは『アトラック=ナチャ』を『怒らせた』からだと言っていた。監禁を始めた者と、出口を塞いだ者は、別の存在なのだろう。
 ここで息絶えている彼は死後数分には見えない。幸村をここに放り込んだのは、彼ではないらしい。
 幸村は男の死体を横目で確認し、すぐに目を逸らして深呼吸をした。ここでは、深く呼吸をしても血生臭さがないことが幸いだ。

「その……望月さん。悪いんだけど、その人が手に持ってる手帳みたいなもの、取ってもらえる?」
「うん、いいよ。はい」
「……本当に、助かるよ」

 手帳はA8サイズで、表紙が黒くシンプルなものだ。表紙を開いた最初のページにボールペンでの殴り書きがあるだけで、後のページは真っ白のままだった。

【やはり望むべきではなかった、望んではいけなかった、あまりにもこの身に余るものを。
 たとえ願いを叶えたとしても、どんな顔であの子達に会えたのか。あまりにも穢れたこの手ではもう、あの子の手を握ることすら罪深い。
 身体中が痛い、熱い、苦しい。これが自分の犯した罪なら、もう  】

- 19 -

prevanythingnext
ALICE+