Cry, Cry, Cry.3


 階段を登った先にある蓋は、下から押すと簡単に開いた。幸い、鍵がかかっていなかったらしい。
 他の部屋のような血生臭さはなく、段ボールが所狭しと積み上げられている。正面には木の扉が、右手には鉄の扉があった。
 物置だ、と望月が呟く。地下の廊下は、鉄扉の向こうにある廊下をまたぐように作られていたらしい。
 幸村は、手近にあった段ボール箱を開いてみた。缶詰をはじめとした保存食や掃除用具や食器など、雑多なものが詰められている。
 ふと、幸村は望月をうかがった。保存食がここにあるということは、望月はろくに食事を摂っていなかったのではないか。地下通路は知らなかったようだし、鉄扉を閉めたというのも最近の話ではないだろう。どうやって飢えを凌いだのか疑問が浮かぶと同時に、彼女と出会った場所を思い出した。
 調理室、肉包丁、調理台の女性の死体――。
 幸村は深く考えるのを止める。

「……何か役に立ちそうなものがあればいいんだけど。ここは来たことあるんだよね?」

 段ボールの間で立ちすくんでいた望月が頷く。

「うん、物置」
「隣の部屋は何か覚えてる?」
「寝室だよ」
「何かあるかな……この場所の手がかりとか、監禁のこととか」
「レジュメを置きっぱなしにしてると思う」
「レジュメ?」
「うん」

 望月は幸村の言いたいことを察したのか、躊躇いなく木の扉を開く。扉を全開にして、一人でさっさと進んだ。
 寝室らしい部屋からは生臭いにおいがしている。幸村は埃っぽい臭いを目一杯吸ってから、気を引き締めて寝室へ移動した。
 寝室は他の部屋よりもやや広く、また、ひどく荒らされていた。行儀よく並んでいたであろうベッドは全て壊れている。あちこちに大きなクモの巣が張り巡らされ、予想通り、凄惨な死体が転がっていた。また、正面には木の扉、右手には鉄の扉がある。
 望月は、おそらく机だったものの傍にしゃがんでいた。バキバキに壊れた木製の机は触れるのを躊躇うほどだ。望月は机の残骸を触って動かしているが、手には木のトゲが刺さっているだろう。

「あった。これだよ、レジュメ」
「あ、ありがとう……」

 渡されたのは、血とホコリで汚れた紙だ。十枚程度は束ねられていたと思われるが、途中から千切り取られており、無事なのは表紙ともう一枚だけだった。
 表紙には【計画書】の文字がある。幸村は表紙をめくり、もう一枚無事な紙に目を通した。

【[アトラック=ナチャについて]
 その神は恐ろしいほど巨大で、黒い毛に覆われた蜘蛛のような外見をしている。
 彼は地中に棲み、深い深い割れ目に橋をかけようとクモの糸を絶え間なく紡ぎ続けている。そのため、彼はその手を止められることを極端に嫌うだろう。しかし時折、彼は私達に恐るべき偉大な神の恩恵を与えてくれる。

[アトラック=ナチャの娘について]
 彼女らは地中にて、彼女らの親でありわれらの偉大なる神、アトラック=ナチャが壮大な巣を織るのを手伝っている。
 彼女らはみな、親であるアトラック=ナチャと同じように一見真っ黒で巨大な蜘蛛の姿をしているが、その脈打つ膨れた腹部は緑と金の縞模様になっている。彼女らはもともと、死のひと噛みを生き延び、アトラック=ナチャに選ばれた人間の女性たちである。】

 幸村は、二度、その文章を読み返した。神というこれ以上ない胡散臭い存在に加え、人間がその眷属になるという信じがたい内容だ。
 幸村にとっては信じがたい内容だが、廊下にいた巨大なクモの存在から推測するに、この神は実在する。
 地下の男が――あるいは、男"ら"が――何らかの理由で望月らを集め、何らかの理由でアトラック=ナチャを怒らせてしまい、この惨劇が生まれた。このことは望月の発言から分かっていた。"アトラック=ナチャの娘には人間の女性が選ばれる"という点は、おそらく、望月らが集められた理由に関係しているのだろう。

「望月さんは、これを知ってたんだよね」
「うん、前に読んだから」
「……他にも知ってること、あるの?アトラック=ナチャは、何故怒ったんだい?」
「殺したクモが、アトラック=ナチャの仲間だったみたい。それで怒って、ここを作った魔術師たちを皆食って、クモを殺したわたしを閉じ込めた」
「他の人たちも、アトラック=ナチャに?ほら、山積みになってた死体の……」
「あれは……ほとんど、わたし」

 濁しながらもはっきりと肯定され、幸村は一瞬呆けた。感情らしいものをほとんど失いながらも知能を保ち、幸村に協力してくれた望月が、まさか進んで人を害するとは思わなかった。

「っ望月さんが殺したのか……?」
「皆どんどん狂っちゃって。殺されないためには、殺すしかなかった。魔術師たちの目的がそれだったから」
「ん、待って、どういうこと?」
「魔術師たちはアトラック=ナチャの娘を作るために、人間の女を一人選ぼうとしたの。沢山の女の人と虫を閉じ込めて、"蟲毒"をやったんよ。残った一人をアトラック=ナチャに捧げて、アトラック=ナチャの娘にするつもりだったみたい」

 こどく?と聞きなれない言葉を復唱すると、望月はすらすらと答えた。

「ムシのドクで、蟲毒。密閉容器に色んな種類の虫を詰め込んで共食いさせて、生き残った最後の一匹を使う呪術のこと。古代中国で用いられた呪術で、すごく強力だって言われてる」

 ならば、ここで唯一生き残っている望月が"最後の一匹"にあたる。アトラック=ナチャの娘になるはずだった生き残り。望月がアトラック=ナチャの仲間のクモを殺したことでアトラック=ナチャが怒り狂ったため、娘にならずに済んだのだ。
 幸村は、レジュメを放るように手放した。二枚しかつづられていないレジュメは、机の残骸の隙間に落ち、見えなくなる。
 正気を疑う話だ。生きている人間を殺し合わせ、生き残りを化け物に捧げるなど。B級映画のほうがよほどマシだが、残念ながら現実だ。夢であってほしいと願うが、夢なら夢で自身の精神状態を見直さなければならない。
 人を人とも思わぬふざけた実験を行う魔術師とやらと同様に信じがたいのは、望月だ。彼女は自分たちが集められた目的だけではなく、アトラック=ナチャによって出口を塞がれたことも知っていた。それでも、こうして人間としてのかたちを保っているのだ。
 監禁され、殺し合いを生き延び、出られないことを知り、絶望し続けたに違いない。

「望月さんはよく……よく、生きてたね」

 素直に述べると、望月は大きく頷いた。

「何度か死にそうにはなったよ」
「うん。それもそうだろうけど、なんというか……この状況で、よく生き続けたよねって。外に出ることを諦めてしまったのかと思ってたけど、そうじゃないんだな」
「諦めてたよ。出られないことは知ってたから。アトラック=ナチャの怒りを買ったわたしは、どうやってもここから出らないから」
「……じゃあ、どうして」
「?死にたくないから、生きてるだけだよ」

 ぼさぼさの髪の間から、きょとんとした目が見えた。相変わらず目には光も感情もなく、人形じみている。

「でも、幸村くんが来たから、何か状況が変わるんじゃないかと思ってる」
「俺が?」
「アトラック=ナチャの娘を作ろうとしてた場所だから、ここは女の人しかいなかった。だから、幸村くんが来た時点で、この場所はちょっと変わってる」
「俺が、出口を見つけられると思ってるのかい?」
「うん。でも気負わなくていいよ。わたしはもう慣れたから」 
「……はは、せっかくなら応援してほしいなあ」

 幸村は、絵に描いたようなホラーな出で立ちの望月に苦笑を向けた。激励を期待するだけ無駄だろう。
 瓦礫に落としたレジュメはそのままにして、物置部屋へと戻る。望月いわく、このフロアの部屋数は六だ。寝室が五部屋目であり、その次の部屋が最後である。そのまま進むのは何となく気が引けたので、役に立ちそうなものを探すことにしたのだ。
 だが、雑多なものばかりで目ぼしいものはない。積み上がったダンボール箱の一番上を全て開け、幸村は嘆息した。

「望月さんも一緒に探してほしいんだ。何か便利そうな……電子機器や武器とかあったら教えて。あ、虫除けスプレーなんかもいいかもね」
「うん、分かった」

 一番上のダンボール箱を抱えて動かす。新たに箱を開いたところで、はっとした。決して軽くはないダンボール箱をやすやすと抱えて動かせるほど、自分は回復していなかったはずだ。
 そもそも、支えがない状態で問題なく歩行し、階段を登り降りし、床扉を持ち上げられたこともおかしい。
 ここはやはり現実ではないのだと実感する。夢にしてはリアルすぎても、現実にはなりきらないのだ。

「こんなことで、非現実だと分かりたくはなかったな……」
「幸村くん」
「うん?」
「殺虫剤があるよ」

 幸村とは別のダンボール箱を掘り返していた望月が場所を開ける。確認すると、確かに殺虫スプレーが数本入っていた。どこにでも売っていそうなデザインで、表記は見慣れた日本語だ。
 幸村は一本取り出して、フィルムを剥がし、寝室から入ってきた虫めがけて噴射する。シュオ、という音とともにスプレーは虫に命中し、すぐ動かなくなった。
 虫がわんさかいる中では到底足りないが、気休め程度にはなる。随分と心強く見えた。

「ちょっとだけ安心できるよ。何本かあるし、望月さんも持っておくかい?」
「持っていこうか?」
「ん?ああ、持ってて」

 彼女は、虫だらけのこの場所で長い時間を過ごしている。今更、殺虫スプレーの必要性を感じていないのだろう。幸村が必要だから自分も持つ、というだけだ。
 望月もフィルムをはがし終え、再度寝室に入る。
 悪臭と虫の多さに物置へ引き返したくなるものの、自分の目でもざっと見て回るべきなのだからと堪える。バスルームのときのように、望月も気付いていない手がかりがあるかもしれない。
 幸村は片手に殺虫スプレーを持ち、片手で鼻と口をかばいながら部屋を見回す。

「うん?」

 望月がレジュメを見つけた場所とはまた別の、ベッドの残骸にしゃがみこんだ。木片でもなく布でもなく、なにか文字が見えたのだ。
 そばに転がっている死体は意識から追い出し、薄汚れた紙切れを拾う。書いてある文字は"いたい"。ベッドの残骸を動かしながら目を皿にして探すと、同じような紙切れを複数発見した。どれも書いてある文字はバラバラで、一枚のメモをビリビリにやぶいてしまったのだろう。
 幸村はしゃがんだ体勢のまま、集めた紙切れを眺める。紙の形やとぎれた文字を頼りに並べ替え、あらわれた文章に絶句した。

【もう帰らせて
助けてください
ゆるしてください

お兄ちゃんに会いたい】

 ここにはいない、妹の声が聞こえた気がした。
 今幸村がいるのは、薄暗く埃っぽく、ベッドが木片になり、虫がうごめき、死体が転がる凄惨な部屋だ。棺桶の中だと言われても否定出来ない、生気のない環境だ。もし、自分の妹がこんな理不尽な目に遭ったとしたら。気を狂わせながら助けを信じ、兄を頼っていたとしたら。
 ここで生き残るのは蟲毒の頂点となった一人だけで、そのたった一人でさえ、解放されない。
 このメモを残した誰かはどうなったのだろうか。クモに殺されたか、唯一の生き残りである望月が終わらせたのか。これを書いたのが望月でない限り、誰かは助けられることのないまま、ここで果てている。

「幸村くん?」
「なん、でもないよ」

 声をかけられ、慌てて立ち上がる。しゃがんで黙々と作業しておきながら"なにもない"とは白々しいが、望月が追及してくることはない
 幸村は並べた紙片を蹴って、動揺を飲み込んだ。

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