過去とは


(長谷部)

へし切り長谷部は、書庫から自室に持ち込んだ文庫本を読みふけっていた。本日は内番で出陣はなく、内番仕事もーー馬小屋の掃除と洗濯と屋敷の掃除ーー終わっている。夕食まで気にせず読書に没頭できるのだ。

他の本丸では<社畜>と呼ばれているへし切り長谷部が日の出ている内から読書ーー兵法書でもないーーしているなど、見る者が見れば泣く。ようやく休んでくれた、という意味で。しかしこの本丸の彼は、半月前に迎えられた新入りで、そこまで社畜根性が染みついていない。個体差というやつである。主命に執着する所は変わらないが、主命の褒美に主命を求めるような永久機関ではなかった。

ただ、読書と主が無関係でないあたり、やはりへし切り長谷部なのだった。

本丸の主は二十代半ばの女性で、桁違いの霊力を持つ訳でもなく、兵法の才がある訳でもなく、戦の経験がある訳でもない、いたって平凡な人間だ。審神者歴は二年と少し、集めた刀剣は十二ほど。ある一点を除けば、審神者は凡庸な人間だった。審神者は一つだけ、常識外の力を持っていた。

長谷部はあとがきを読まず、文庫本を閉じた。まだ時間には余裕があるので、別の本に手を伸ばす。連続物ではないが、どの本も系統は同じ。異能を持つ者と持たない者が登場し、そこにある些細な圧倒的差異に戸惑ったり理解したり、場合によっては和解(物理)が行われていた。

長谷部が次に手に取った本の表紙には、目の大きな少女とポップな字体の題名が印刷されている。ブックカバーなど当然ない。もしもここが学校で、今が休み時間だったとしたら、長谷部を揶揄う者もいただろう。そうでなくとも、少なくとも審神者が見たら笑い転げるかもしれない。

ひねりのない文章を読むのに時間はかからない。眉をしかめたくなる理解に苦しむ展開を目にしても、長谷部は読むのをやめなかった。突然前世がどうの、隠された力がどうの、封じられた宝具がどうの、という物語には耐性をつけてしまっていた。

陳腐な文章を撫でるように読んで、一時間ほどでそれを閉じた。時計を確認して、主に茶でも持っていくかと立ち上がる。ついでに自分も何か飲むつもりだった。

茶汲みは基本的に近侍の仕事だが、ここの審神者は、不要だからと近侍をつけていない。刀剣がさらに増えれば検討するそうだが、現段階では買い出しが必要な時は手が空いている刀剣に声をかけ、戦略については初期刀の歌仙兼定や初期鍛刀の乱藤四郎を呼んでいるため問題ないらしい。書類仕事と経理は全て自分でさばいているのだ。

近侍がいたとしても、審神者が刀剣に茶を淹れさせるかといえば謎だ。よく仕事の息抜きがてら厨まで出てくることは長谷部も知っていた。だからと言って茶を持って行くことを咎められることはない。よほど忙しい時でない限り、審神者は休憩に入り、刀剣たちに構うのだ。

長谷部が仕事中の審神者に茶を持って行くのは初めてだ。持って行こうとしたことはあるが、今までは他の刀剣に先を越されていた。

長谷部は審神者お気に入りのガラスタンブラーを取り出した。柄は朝顔と桔梗の二種類あり、出したのは朝顔。ちなみに同じシリーズで、椿と梅の陶器の湯呑みもある。

四種類が食器棚にあれば、審神者の手元に飲み物がないということがわかる。どれか一つが干されており、かつ濡れていれば、近い時間に飲んだことを示すのだーーそうやって見分ければいい、と言われていた。わざわざ聞きに行くと審神者が落ち着かなそうにするから、と。今回は椿が干されており、すでに乾いていた。

審神者は湯呑みで冷えたものも飲み、タンブラーで熱いものも飲むため、利用済みの種類を見ただけでは分からないが、時期が時期なので冷たいもので構わないはずだ、と長谷部は躊躇わなかった。タンブラーに梅昆布茶の粉末を入れ、ポットの湯で溶かし、氷と水で調節する。茶菓子は不要、とは歌仙兼定の談。長谷部は片手間に冷えた緑茶を飲むと、梅昆布茶を盆に乗せて審神者の執務室へ向かった。

梅昆布茶をこぼさないように静かに歩き、到着すると廊下に座した。名乗りと茶を持って来たことを告げると、中から「どうぞー」と女の声がした。

執務室ーー審神者は仕事部屋と呼んでいるーーはすぐ近くに池があり、障子を開けていれば必ず目に入る。審神者は障子を開け放っており、日光を受ける水面がいっそ眩しかった。

審神者が書類をわきにどけるので、長谷部はその空いた場所にコースターとタンブラーを置いた。そして正座で控える。審神者の文机は、分厚い座布団に合わせて高めに作られており、正座した長谷部は審神者よりも視線が低い。審神者はタンブラーを半分まで減らすと、沈黙を埋めるようにため息をついた。

「なんとなく、今日はへし切りが持ってくる気がしてた」
「長谷部です。……流石主、というところでしょうか」
「未来視(プレコグニション)は専門外」
「ぷれこぐ?」
「予知って言えば分かるかな」
「ああ、なるほど。主が視るのは過去ですからね」

この主は、過去を視ることが出来るという。審神者は別にそれを隠しておらず、この本丸では誰もが知っている。実際にその能力を使ってどうこう、という場面に遭遇した刀剣は少ないが、誰も疑ってはいない。

初期刀曰く、失くした物があれば主が見つけてくれる。初期鍛刀曰く、贈り物で驚かせることは難しい。他にも、慣れれば平気、とりたてて害も益もない、など言われている。聞かなければ話さないが聞いたら答えてくれる、とも。

長谷部が分からないのは、そこだった。

審神者は口を閉ざし、呆と外を眺めている。沈黙に対する緊張はないように見える。長谷部と言葉を交わした回数はそう多くないはずだが、審神者は長谷部に対して全く人見知りというものをしていない。

「……今日、俺は内番ですので。空いた時間で、本を読んでいました」

そう切り出すと審神者は、うん、と頷いて先を促す。

「ここの書庫は大きいのですね。圧倒されました」
「うん。大家族だから。時々入れ替えるから、気に入ったのがあったら部屋に置いててもいいし、言ってくれればとっておくから」
「入れ替えですか?」
「うん。皆の好み分からないから、知り合いが仕切ってる図書館とか古本屋とかと色々してる」
「そうでしたか。覚えておきます」
「うん。あの辺りの本は古参だけどね。残しておいたほうがいいよって、歌仙が言うもんだから」

長谷部は返答に窮した。<あの辺りの本>が、長谷部が借りてきた一角を指していることは察せられた。審神者が書庫に行き、本がない状態を目にしたのなら分かるが、おそらくそうではないのだろう。

「……俺を見ただけで、そこまで分かるのですか?」
「ううん」
「聞いても?」
「うん。私、厠は部屋の方使うんだけど。その途中で、本持って歩いてるへし切り視ただけ」
「長谷部です」

部屋、というのは寝室のことだ。本丸内に数カ所厠はあるが男女分かれておらず、審神者は女性であるため、いつも寝室近くの厠を専用として使っている。そこに行く途中で長谷部を見たというが、長谷部は気付いていなかった。審神者が長谷部の持つ本を把握できる程度の距離にいたなら、長谷部も気付くはずだ。こと主に関しては刀剣一倍気を配っている。

長谷部は素直に驚いた。審神者の持つ過去視という能力は、単に物の過去を視るわけではないらしい。

「廊下を歩いた俺を視たのですか」
「そうだよ」

慣れれば平気、と言った刀剣の言葉を思い出す。直接遭遇していなくとも、こちらの行動は大方が筒抜けというわけだ。確かにこれは心臓に悪いし、審神者には隠し事など出来ない。

時代が違えば、とんだ諜報員だったろう。そこにもう人がいなくても、そこで行われたいたことを視ることが出来るのだ。

「……へし切り」
「長谷部です」
「湯呑みは小さじ半分、こっちは小さじ一杯ね」

長谷部は平謝りして、空になったタンブラーを回収した。







「『主は自分のことを話されないのですね』」
「は?」
「うん、と仰られるだけだった……」
「ああ、あー。大将らしいな」

長谷部は薬研藤四郎に誘われ、長谷部の部屋で酒を飲んでいた。薬研は五退虎と前田藤四郎と同室なためだ。今まで母屋の縁側で飲んだり、他の刀剣に誘われて飲んだりしていたという。粟田口で飲むこともあるが、外見が幼いと睡魔が勝つとのことだ。

薬研が、長谷部の部屋の隅に置かれた本を見て、なるほどと苦笑した。長谷部はやや眉を寄せたが、皆考えることは同じらしいとすぐに気付いた。どうりで、読み込まれた形跡があるわけだ。

「全然違うだろ?そういう書物に出てくる能力者と、うちの大将は」
「全くだな。主はそれのように、自分のことを話さない。過去が視えることについても、それに伴う考え方についても。俺は主に第一の臣下にしていただきたいのに……!」
「聞けば教えてくれるだろーよ」
「何から聞くべきなのかも分からんだろう。片っ端から全てなどただの尋問だ」
「過去視(レトロコグニション)持ちなんて、そういないだろうしなあ」

長谷部は聞きなれない言葉を小さく反芻する。夕食前に聞いたのはプレコグニション、審神者は予知のようなものだと言った。ならば、レトロコグニションこそ審神者の能力、つまり過去を視ることを指すようだ。

長谷部が酒を煽ると、漢だねえ、などと薬研が茶化す。長谷部は、良い具合に酒の回った薬研をじとりと見た。薬研が少年の体躯でも中身がひどく漢前であることを、既に十分知っている。時々漢前というよりおっさんくさいが。

「過去視がどういうものかについては、俺より歌仙の旦那や乱の方が詳しいだろうよ。俺が知ってることと言やあ……酒が嫌いだとか、リンゴが好きだとか。あんまり執着しないとか。大将はあまり喋らないお人だからなあ」

審神者は進んで言葉を発しない。聞かれたことにはきちんと答えるくせに、自分から発言する回数は極端に少ないのだ。人と違うものを持っているにも関わらず、審神者は語らない。周囲に理解されたい、非凡な能力ごと認めてもらいたい、あるいは、自分が唯一であると知らしめたい。審神者は、そういった意識とは無縁なのだった。

審神者は違うものを見ている。長谷部は、仕えるものとしてその視界を少しでも覗きたい。けれど審神者は、そこへ招いてはくれない。手を振れば振り返してくれるけれど。

長谷部は、厨から頂戴したポテトチップスをつまんだ。酒の肴がなかったのだ。ちなみにコンソメ。

酒も回り、愚痴じみた小言を垂れているとーー薬研は茶々を入れつつ笑っているーー断りなく部屋の障子が開かれた。

「お、まだやってる?ボクもまーぜーて」
「乱?寝たんじゃなかったのか」
「なんか寝付けなくってさあ。ちょっと飲もうと思って。そういえば薬研が長谷部さんとこ行くって言ってたなーと」

よいしょ、と長髪の少年が座る。薬研と同じく胡坐をかいて、寝衣がはだけるのも構わない様子に、昼間との差を目の当たりにする。昼はフリルのついたスカートで<女の子らしく>過ごしているのに対し、今はただの可愛らしい少年だ。長髪の刀剣も多いため、今の彼を見ているだけだと、とても昼間の様子とは結びつかない。

長谷部の混乱が伝わったのか、「こいつ大将がいないかつスカートじゃないと、大体こうだぞ」と乱を親指で示した。

「え、何々?ボクと乱れたかったの?」
「ほざけ」
「ひどい!」

乱が寝衣の裾を押さえて口元に手を添える。いっそ白々しいそれを鼻で笑うと、乱はむくれて手酌を始めた。

「大将の話をしてたんだ」
「へえ。あ、長谷部さんも主が気になる頃か」
「……も?」
「主に会ってしばらくすると、皆そういう本を借りてる」

乱が顎で、長谷部が借りてきた本を示した。紛れもなく古参である乱にとって珍しいことではないのだ。

「で、結局ボクとか歌仙さんに聞きにくる。薬研はすぐボクに聞いてきたけど」
「ああいうのは苦手なんだよ」
「主のことを理解したいけど主は話さないし、本に出てくる人たちと主は違うし、直接聞こうにも主の地雷が分からないから言いにくいーってね。皆そう言う」

長谷部から見ても、乱は慣れている様子だった。毎回問いかけられることに呆れているように見える。歌仙や乱は、審神者と直接接することで色々な情報を得ているのだから、気が進まないのだろうかとも思う。

長谷部は特にそれを気にしなかった。乱がこの場にいるのは偶然で、長谷部は審神者について彼に尋ねるつもろはないのだ。多少薬研にはぼやいたが、審神者の信頼を得るためには、自分自身でどうにかすべきだという考えが根底にあった。審神者のことを乱に問う、という選択肢はない。

よって長谷部は乱に追求することなく酒をあおったのだが、乱の呆れた様子の矛先が刀剣に向いていないと分かると、酒を置いて顔をしかめた。

「まったく主もさあ。困った人だよね」
「……どういうことだ」
「旦那、顔」
「ここに来てすぐはもうちょっとお喋り多かったんだよ?けどボクらが大方理解したと分かった途端、自分からはめっきり話さなくなっちゃって。元々自分語りが嫌いらしいから、分かるんだけどね?」
「こういうこった。大将について何か気になったんなら、乱か歌仙に聞きゃあいいってな」

長谷部は、くっと呻いて顔を覆った。何故俺が初期刀じゃないんだ、と苛立ちを滲ませると二人がけらけら笑う。長谷部にとっては、審神者の側で、自力で信頼を勝ち取る機会が一つ減ったというのは由々しき事態であった。




「主はその人とか生き物の記憶を辿って過去を視てる訳じゃなくて、物に残った記録を視てるらしい。際限なく遡れるってこともないみたいだけど。
例えば、その長谷部さんが視られてたことは、屋敷内の廊下や障子ーーもっと言えば、木や紙に<へし切り長谷部がそこを通った>っていう記録が残る。主はその場に立つことで、そういう情報を一気に得て組み立てて、まるで目の前を過去の長谷部さんが通っているような状態になる。まさに空間の記録を視てるって感じだよね。
ちなみに本の記録を視たとすると<長谷部が借りた>っていう情報が得られるんだよ。
生き物相手?出来るよ。あくまで記憶をのぞくんじゃなくて記録を視るってことは。でも生き物って常に作り変えられてるみたいなものでしょ?だからほとんど視えないって言ってたよ。
『サイコメトリの応用であってレトロコグニションではないのかも』とかなんとか。この辺りは、ボクには分からないけど。
だから主にとって、ボクらってすごく不思議な存在なんだって。え?だってさ、ボクらを顕現したり作ったりするのって主じゃん。だからボクら、肉体も本体も、この本丸に来た時からの記録しかないんだって。でも、刀時代の記憶がある。主にとっては<生まれてすぐの子供が知るはずのない前世を語っている>ってことと同じらしいよ。
とりあえず主の能力についてはこんなものかな?」

乱の話ぶりは立て板に水のよう。酒を舐めつつも説明が滞らないあたり、朝飯前というやつである。長谷部は一言一句を叩き込み、会話が切れると咀嚼に勤しんだ。

「長谷部が思うほど、大将は気難しいお方じゃねーよ」
「そーそー。ボクらを所有物として大事にしてくれるし、戦にはほどほど関わってくれるし」

主人に対する態度としてそれはどうなのだろう、特に乱。長谷部はこの本丸と比較するための知識がないが、あっさりしているんだな、というのが正直なところだった。普段見ている限り、審神者と刀剣との関係は良好なので、これがこの本丸のあり方なのだ。円滑に回っているのならば文句はないが。

「長谷部さんがお望みなら、ボク、もっと色々喋っちゃうよ?」
「いや、遠慮しよう。いつでも話せる距離にいらっしゃるのだから、俺自身の言葉でお聞きする。主のお考えぐらい、察せるようにならねばならん」
「そーいうとこ長谷部っぽい」
「はあ?」
「旦那、他所の長谷部に比べて静かだからよ、やっぱり長谷部って基本そういう性格になってんだなっていう」
「分かる!主主主言っている印象が強いな。ここの長谷部さんは秘めるタイプなんだね」
「主に尽くすことは当然だろう。常々口に出さずとも変わらん」

目標は近侍として仕えることだが、まずは練度上げだ。少しずつ審神者の信頼を得てから、経理や編成といった仕事を手伝い、審神者の力となりたい。主に必要とされ、頼られ、役に立つことこそが何よりの喜びなのだ。

審神者との信頼関係では、乱と歌仙がはるかに優位に立っている。二人は長谷部と争っているつもりなどないだろうが。

長谷部がふとみると、ポテトチップスがいつの間にか消えていた。大きく薄っぺらいそれをぱりぱり食べている乱が何を思ったかウィンクを飛ばすので、ひきつった笑みで受け流してやる。長谷部は、袋の折り目にたまった砕けたものをつまんで、口に入れた。


fin

(私にとっては、一方的に閲覧するものであって、干渉するものではないよ)
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