この世の全てを手に入れた
わたしは所詮、代理に過ぎない。本物が戻ってきたのなら、用済みとされるのも致し方なしーー大人しくしているつもりもないけれど。
詳しく話せば長くなる。
神戸家はアドリウムという化学物質を秘匿研究しており、そのいざこざでわたしは母親を喪い父親も死んだことになった。研究の責任者は密かにわたしに引き継がれ、わたしは慎重にその情報を管理していた。
兄は何も知らない。知らないことを知るために帰国を決意したのだ、と後で知った。
なぜ引き継いだのが兄ではなくわたしだったのかというと、両親を失った兄は家のことに関わることを拒否したからだ。それを責めるつもりは一切ないので置いておくが、神戸家として表立って動いていたのがわたしだったので、成人したときに研究や母の死について祖母から明かされたのである。
兄や加藤さんがアドリウムと神戸家について調べていることは、本当に知らなかった。兄がわたしに帰国理由を明かしたのは、ヒュスクが兄の言葉を拒否してからだ。ヒュスクの反抗を受けた兄は、当然わたしに連絡をした。そこで帰国理由や追っている事件をわたしに明かして、わたしに、ヒュスクへ問いかけるように頼んできたのだ。
まずいと思った。わたしに対して情報はロックされていない。とっさに、質問を「なぜ情報を神戸大助に開示しないのか」とすり替えることで事なきを得た。
わたしは、兄にアドリウムのことを知らせるべきか咄嗟に判断出来なかった。だからヒュスクにも喋らせなかった。兄がアドリウムのことを知れば、母のように世間に公表しようとするのではないかと。殺されてしまうのではないかと。
一度、祖母にきちんと相談しようと考えている間に、二人の警察官が殺された。加藤さんがお世話になっている人たちだった。
兄に数日のホテル暮らしを命じられていたわたしは、ホテルで殺人事件を知り、兄がわたしを巻き込むまいとしたことを知り、わたしが現場にいれば二人が死ななかった可能性を知った。
黙っていられなかった。〈知り合い〉は傷つけないでくれと、自分勝手な願いを常々伝えていたから。
そしてわたしはブチギレて――今腹にナイフが刺さっている。
兄に真相を伝えに行こうとした途端これだ。通り魔に見せかけた犯行。ヒュスクを警戒して車を使わなかったのがあだになった。人通りの多い道を選んだものの、これである。あの執事はアサシンとして優秀すぎる。
意識を保っているだけで拍手喝采だ。誰でもいいから褒めてほしい。いや先に救急車。これでは兄のいる家までたどり着けない。
兄が、正当な神戸家の後継者が帰ってきたのだ、わたしはどうなっても良いということだろう。心臓をひとつきではないあたり、まだ利用できると判断されているのかもしれないが。祖母は本当に人の心がない。アドリウムの扱いには同意するけれど、人としては微塵も尊敬できない。
崩れ落ちるわたしに気付いた通行人が、ナイフを見て悲鳴をあげる。幸運にも医者がいたらしく、何やら指示をする声がした。
幸いというべきか、わたしはこの展開を予想していた。
そっちがその気なら、わたしもなりふり構っていられない。
*
深呼吸をしてダイヤルを押していく。ピ、ピ、という音が心電図モニターのように感じられて嫌な気分が加速した。 しかしやらねばならない。なんとしてもやりとげなければ。 仕事用のスマホを耳に押し当て、出てほしいような出て欲しくような複雑な気持ちで身構える。
――〈上〉に宿泊している、神戸佳乃と申します。
そう、超VIP客が声をかけてきたのが半日前。自分の勤める高級ホテル系列の筆頭株主一族だ。
分かりやすく派手ではないが、明らかに根っからいいとこ育ちの上流階級っぽさが滲み出ていた。宝石をジャラジャラではなく、上品に高級品を身に着けている。高級ホテルに勤めているだけの一般人の自分はさほどブランドに詳しくないが、金持ち風か本物の金持ちかは見極められる。
よりによって大富豪神戸家の人間に声をかけられて咄嗟に腹に力を入れたが、彼女も何やら急いでいた。ド深夜にレセプションへ駆け込んでくるあたり急用には違いないのだろうが、なぜレセプションへという疑問が浮かぶ。VIP客には専属のバトラーがつき、二四時間待機している。そちらではなく、なぜ。
――頼みがあります。
彼女が取り出したのはスマホと携帯番号の書かれたメモだった。それを見せるのではなく、渡してくる。
――わたしは今から外出します。もしもわたしが十二時間以内に戻らない、もしくはホテルに連絡をしなかった場合、このスマホを取りに来るよう兄の神戸大助に連絡をしてください。
予想外の頼み事に、直接お渡しにはならないのですか、と素直な疑問を返した。これではまるで、遺言のようではないか。
――わたしでは、渡せないかもしれません。わたしからの電話も、盗聴されている恐れがあって。〈わたしに〉用意されたものを信用できなくて。
――家のいざこざです。申し訳ありませんが引き受けてください。
彼女は早口で謝ると、別のメモを渡してきた。横長で独特の手触りのそれはドラマでしか見たことのないもので、自分が幻覚を見ているのでなければ、ゼロが六つついた小切手だった。
どっと汗が吹き出る。彼女の兄に電話をし、スマホを取りに来るよう伝えるという任務は、自分にはわからないが数百万円が動く重大なものなのだ。単に彼女の金銭感覚が狂っている可能性もあるが、家のいざこざと言うのだから重要なものには違いないのだろう。
当然、怖気づいた。遠回しに拒否をしようとすると、彼女は小切手を引っ込めた。安堵したのも束の間、ゼロが一つ増えて返ってきた。彼女に躊躇いは無かった。
気が遠くなる。大富豪怖すぎる。
――引き受けてください。ああ、兄の番号は燃やしてくださいね。
そんなこんなで、現在電話をかけている。小切手を受け取ってしまってから十二時間と十分、彼女は戻ってこなかった。彼女の身が気がかりだが、まずは頼まれ事を果たさなければならない。
彼女のスマホを前に、片手で仕事用スマホを持ち、空いたほうの手で胸ぐらを握りしめる。汗が止まらない。
コール音は長かった。たっぷり三十秒は無機質な音を聞いていたように思う。
『誰だ』
穏やかな、しかしやや硬さのある男の声がして心臓が止まった。
磨き上げた接客スキルをフルに使って用件を伝えると、彼が電話の向こうで焦っているのが分かった。
『佳乃が? スマホを俺に? ……すぐに行く』
そのまま電話を切られそうだったので、ビビりながらも慌てて呼び止めた。彼女はどうしているのかと問うと、彼は苦さを滲ませながら答えてくれた。
『意識不明の重体だ』
彼は本当にすぐやって来た。細身でオールバックの男前だ。スリーピーススーツだけではなくシャツも靴も当然オーダーメイドだろう。よく似合っていたし、華美ではない上品な高級感は彼女と同じだった。彼女と違ってやや高圧的だが、妹が意識不明の重体という状態で周囲を気遣えと言うのも難しいだろう。
彼はスマホを手にとってすぐ、画面を見て顔をしかめていた。思案気にした後、
「佳乃の部屋に案内してくれ」
小切手を差し出してくる。ゼロは六つ。ぎょっとして受け取らないでいると、彼がペンを取り出したので慌てて止めた。ゼロを増やす気だ。
「ここは、宿泊客以外の立ち入りをロビーまでとしているだろう」
彼はそう言って、小切手をポケットに押し込んでくる。黙認しろということだ。拒否するべきなのだろうが、意識不明の彼女のことも考えると案内しないのは後味が悪すぎる。
懐の重さを感じながら、エレベーターへ先導した。
【神戸大助様の指紋を確認しました。】
【声紋認証に移ります。発言をお願い致します。】
【確認しました。】
【マスターによる緊急指示により、操作権限を神戸大助様に拡大します。】
【おひとりであることをご確認ください。】
【おひとりであることをご確認ください。】
【端末情報の閲覧は神戸大助様にのみ許可されています。】
【おひとりであることをご確認ください。】
【カメラ、録音機器、AIがないことをご確認ください。】
【おひとりであることをご確認ください。】
【端末ロックを解除します。】
『はじめまして、神戸大助様。わたしは〈リティス〉、マスターの話し相手であり、バックアップです』
*
目が覚めると病室だった。なぜこんな所にと混乱したのは一瞬で、すぐに腹を刺されたことを思い出す。血の気が引くのを感じたが、今ベッドの上でこうして起きているということは、生きている証に他ならない。腹を軽くさすった。
枕元を探すがスマホがない。普通のスマホも、リティスもない。一体どのくらい眠っていたのだろう。壁掛け時計いわく朝の五時だが、なんとなく、刺された翌朝ではないのだろうと思う。
喉の乾きを感じながら、ナースコールを押した。
午後になって、カッカッカッと生きのいい革靴の音がした。察したわたしは、心持ち姿勢を正す。いつ顔を合わせてもいいようにと何となく身だしなみは整えてもらったが、ベッドの上ではとても格好つかないので落ち着かない。
ノックに返事をすると、返事にかぶる速さでドアが開かれた。
兄だった。
「お、おはようございます、お兄様」
スリーピーススーツにオールバックの大助様は、いつも通り決まっていた。手に包帯を巻き、オールバックがやや乱れているが、いつもの最高に格好いいわたしの兄だった。
大助様は後ろ手でドアを閉めると、息を吸って、吐いて、吐いて、吐いて、体の空気を全部抜いてから声を出した。
「……生きた心地がしなかった」
「ご心配をおかけしました」
ベッドに歩み寄ってきて、わたしの頬を撫で手を握り、軽く引き寄せる。
わたしも死んだかと思いました、と軽口を叩こうとしたものの、こめかみにキスされて声にならなかった。
「俺の唯一を、喪ってしまったかと」
大助様はベッドに浅く腰掛けてわたしを抱き寄せたまま、ことの顛末を教えてくれた。
色々あったらしい。色々、本当に色々あった末、大助様は手に包帯をまく羽目になり加藤さんは足を撃たれた。母が殺された背景を知っている身としては、大助様と加藤さんの命があるだけ良しとしたい。
というか加藤さん。加藤さんは、我が家の問題に最後まで付き合ってくれるらしい。
「ちなみに、船の話が昨夜で、アドリウムの情報送信が今朝だ」
「思った以上にタイムリーですね」
「我が家は、早速凄まじいバッシングに遭っている」
「ええ、そうでしょう」
「……目を覚ましたばかりの今、言うことではないのかもしれないが。佳乃には、犯人隠匿の疑いがかかっている」
「はい」
「何とかする」
「ふふ、頼もしいですね」
わたしは、母を殺した犯人を知っていながら黙っていた。背景も全て知っていて黙っていたのだ。大助様に全てを話そうと決めて死にかけた夜に覚悟はしている。
笑ったわたしが気に食わないのか、深いため息を頂戴した。
「ところで」
「はい」
「リティスだが」
大助様がポケットから二つスマホを出す。どちらもわたしの物だ。「念の為どちらも借りていた」律儀にそう言う。
「役に立ちましたか」
「とても。佳乃の友人でありバックアップと言っていた。これはなんだ? 鈴江も知らないと」
「友人に作ってもらったAIです。お祖母様から研究のことを聞いたときに、もしもわたしに何かあったらお兄様には全てお伝えすべきと思い、わたしの全てを記録するよう日夜お喋りしました。お祖母様がきちんとお兄様に事実を伝えると思えなかったので。情報漏洩対策として、完全オフライン端末です」
「ヒュスクを警戒してか」
「はい。認証は厳しくしていますが、リティスはあくまでも記録用で……ヒュスクに敵うAIは、そうそうプログラム出来ませんから」
「ああ……だからリティスか。ヒューリスティクススケーラーからヒュスク、その後ろでリティス」
「はい。ヒュスクのような万能性はありませんが、変わりに人間っぽくしています」
「レスポンスが早かった。誰かいるのではと思うほど。……だが、その、なんだ」
「権限をお兄様に拡大しましたから、不便はなかったと思うのですが……」
歯切れの悪い大助様に不安になる。リティスにはわたしの知っていることほぼ全てを覚えさせている。わたしが意識不明の間も、情報源としては問題ない働きが出来ていると思っていたのだが。
大助様は口元を隠しながら「俺の好奇心のせいでもあるんだが」と前置きをして続けた。
「何でも答えるだろう、リティスは」
「はあ、そのようにお兄様に権限を……」
「俺が時計を贈ったときには飛び上がるほど喜んだとか、年数回顔を合わせるときにはエステ通いしていたとか」
まずい気がする。
「俺が葉巻を吸っている姿が好きだとか、サポートをする鈴江に嫉妬しているだとか、俺が腑抜けていた時期に『今が追いつくチャンスだ』とよく分からない決意をして苦手な財政の勉強に取り組んだとか、俺がヒュスクに命じる声が好きだとか、先日俺が大学院まで迎えに行ったときは大層喜んだとか、俺が結婚したら小姑になりそうだとか、俺に嫌われたら生きていけないだとか、俺と一緒に住めることがこれ以上なく嬉しかっただとか言っていたが、事実か?」
「お兄様記憶力が良過ぎませんか」
わたしは大助様の腕から逃れて布団に潜った。
こんな妹はさすがに気持ち悪かろう。ここまでリティスが喋ってしまっているならば、きっと。
「それから、俺のことを男として見ているだとか」
終わった。
全て大助様に話すように設定したのでリティスは責められない。わたしが喋りすぎている気もするが、わたしの完全なバックアップとして機能させるためにはわたしの全てをトレースさせる必要があったのだ。
これは多分、緊急時になにかしら無関係なことを問いかけた大助様が悪い。
合わせる顔がない。終わった。ジ・エンドだ。長い間ずっと好きでいたのだ、今更止めろと言われても止められない。気持ち悪がられると分かっていても、家族愛には到底戻れない。
「事実か?」
この後に及んで、大助様は。
わたしは布団の中から返答した。
「……良い妹でなくてごめんなさい」
「……」
「リティスの言葉は事実です。リティスはわたしのことを何でも知っています。わたしは、お兄様を、兄以上に見ています」
「……佳乃」
「気持ち悪くてごめんなさい」
「待て。気持ち悪いと誰が言った」
大助様は優しいから、わたしのことを拒絶しないでいてくれるようだ。しかし暴露された以上、ただのきょうだいとして振る舞うのは無理だ。大助様がわたしの気持ちを許してくれても、知られてしまったからには。
また大助様と離れるべきか、どこの別荘に移住しようか考えていると、掛け布団がはがされた。
大助様は笑顔だった。
「奇遇だな、俺も佳乃のことを妹だと思っていない」
どっちの意味だろう。
「きょうだいは永遠にきょうだいだから、それでも良いかと思っていたが。佳乃、俺を好きなままでいい。嫁には出さん」
ショックが大きすぎて都合のいい幻聴を聞いている気がする。
「きょうだいのまま、恋人として愛してもいいだろう。婚姻は難しいが、きょうだいでパートナーシップを結べる国を探してもいい。発展途上国の農村民ではなく世界に知られた家柄だ、子どもは諦めるしかないが……望むなら養子をとっても良いし、精子や卵子の提供を受けてもいい」
「えっおにっ……えっこっえっ?」
「もしかして、たまに俺を名前で呼んでいたのもそれでか。意識してしまうから止めるよう言ったんだが、そういう意味なら構わない」
「わたしは今夢を見ていますか?」
「俺が見る限り覚醒状態だ」
「夢かもしれません、ビンタしていただいても?」
「ああ、分かった」
キスされた。
「お兄様!」
「こういう意味の好きではなかったのか」
「間違っていませんけど、あの、お兄様、本当にいいんですか」
「駄目な理由が?」
「きょうだいですもの。養子などではなく、本当の、きょうだいですから」
「むしろ良いんじゃないか。婚姻しなくとも、俺と佳乃がともにいることは自然なことだろう」
「なるほど?」
納得していいところだろうか。いいのだろか? 大助様が良いと言うなら良いのだろうか。良い、気がしてきた。多分わたしは大変に混乱している。
大助様は微笑んだまま、上機嫌にわたしの頬を撫でている。息が出来ないので、一旦やめていただきたい。
「こんな褒美があるのなら、体を張った甲斐もあるというものだ」
「手加減してください」
「いつから?」
お兄様、容赦がない。わたしも開き直るしかない。
頬を撫でている大助様の手を取って、手のひらに口づける。少し強張ったのが分かった。
「今すべて分かってしまうのは、もったいないでしょう」
「……佳乃」
「はい、お兄様」
「真っ赤だな」
「お兄様も」
「……」
問題は山積みだが、わたしにとっては大助様がいればなんてことはない。犯人隠匿で逮捕されても、我が家がバッシングに遭っても、途方も無い後始末が待っていても。
自分勝手で何が悪い。わたしはいつだって、大助様のことしか考えていない。
腹を刺された甲斐もあるというものだ。
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