森伊蔵、村尾、魔王


(4話。まだ加藤とは直接会ってない。)



 鈴江はロビーで呆然としていた。
 神戸大助が出て行ってしまった。鈴江の声もむなしく、彼は一度も振り返ることなく家を出て行ってしまった。
 ありていに言ってしまうと<家出>である。神戸家の御曹司の家出。

「大助様……うう、大助様……」

 鈴江の手元には、大助の携帯電話とピアス/ヒュスクがある。彼はあろうことか、携帯もヒュスクも財布も持たずに家出をしてしまったのだ。加藤春の呼び出しに応じたということなので、一人きりというわけではないものの、神戸家の御曹司が身一つで外に出るなど。
 鈴江は打ちひしがれていた。こんなことは初めてだ。家出の原因が自分にあるというのも、ロビーから離れられない一因だった。

「大助様……」

 しかし、泣いていてもどうにもならない。心配で心配で仕方がない。鈴江はしゃくりあげながら、体を引きずるようにして地下のモニタールームへ向かった。
 いつものチェアに座って、ヒュスクを起動する。街中の監視カメラを使って大助の居場所を特定し、同時に加藤の連絡先も把握する。――しかし、大助は自らの意思で出て行ったのだ。鈴江が加藤に連絡をするのも、車で迎えに行くのも、とても正しい和解方法だとは思えない。

「わたしはどうすれば、大助様…………――アッ」

 大助の居場所を把握して多少は落ち着くと、重大な問題を思い出す。今までどうして忘れていたのだろうかと思うほど、大切な問題を。
 神戸佳乃。大助の妹であり、一時は神戸家の顔として学生ながら活動をしていた人物。大助が大層大事にし、佳乃もまた大助を大層慕っている。並ぶと花のエフェクトがあふれるほど相思相愛の兄妹だ。
 佳乃が大助の家出に心を痛めないはずがない。原因である鈴江に腹を立てないはずがない。

「と、ともかくご連絡をしなければ……! お叱りを受けるとしても、お知らせしないわけには」

 名門大学院の研究室に勤めている佳乃は、今朝早くに家を出ている。大助の家出は知らないのだ。
 鈴江はしゃくりあげながらヒュスクを起動した。

「ひゅ、うう、ヒュスク、佳乃様にお電話を」
『かしこまりました』



 大助様が家出したらしい。
 教授に頭を下げて車を飛ばして帰宅した。
 居場所を特定していても迎えに行かないという鈴江さんの提案には賛成だ。大助様をより意固地にさせてしまうような気がしている。だが、気にならないわけがなく、「そのうち帰ってくるでしょ」と呑気にもなれない。仕事が手につかなくなることは目に見えているので、とっとと帰宅したというわけだ。
 帰宅して荷物を部屋に放り、地下のモニタールームに急いだ。

「鈴江さん!」
「おかえりなさいませ佳乃様大変申し訳ございません大助様のご無事は確認しております」
「お兄様はどこに」
「加藤様からお呼び出しが」
「ああ、お兄様の職場の……お仕事?」
「犬を探しておられます」
「犬……?」

 不意の和みワードに拍子抜けした。モニターに映し出されている大助様を確認して少しは安堵するも、心臓の不快な感覚は消えない。
 憔悴している鈴江さんは、わたしに椅子を勧めた後その場に崩れ落ちる。さすがにその状態でわたしだけ椅子に座るのはためらわれるので立ったままだったが、冷静かと言われると全く全然これっぽちも落ち着いていなかった。

「お兄様はわたしよりも一人行動に慣れていないのよ。わたしが言うのもなんだけど、完全な一人暮らしもされたことがない超箱入りの神戸家御曹司。それが、携帯や財布どころかヒュスクまで持たずに家を出るなんて」
「申し訳ございません」
「お兄様、ああ、大丈夫かな、葉巻もないのに……」
「申し訳ございません」
「いざとなれば加藤さんのおうちに泊めていただくか、電車賃を借りるか……」
「申し訳ございません」
「そもそも、お兄様はどうして家出なんて」
「申し訳ございません!」

 鈴江さんが崩れ落ちた上に頭を下げるので、床に這いつくばる体勢になっている。うめき声も上げているのでゾンビのそれだ。

「わたしが……わたしがいけないのです。大助様の靴を……その……」
「靴? 汚れていたとか? 紐が切れたとか?」
「…………こっそり、五センチを、七センチに」
「それは家出も止む無しね」
「申し訳ございません」

 頭を横に振った。それは、大助様のプライドが傷ついたことだろう。大助様は、口にはしないが小柄なことをこっそり気にしている。わたしは一緒に暮らしている家族なのでスリッパの大助様も知っているが、革靴でないときはなんとなく距離を取られる。小柄であれ素敵なことに変わりはありません、と伝えたいがそれはそれでプライドを傷つけそうなので言ったことはない。
 そう考えていると、じわじわと<家出>という事実を認識する。
 家出……大助様の家出……今日中には戻らない可能性もある……。

「お兄様がいないなんて生きていけない……」
「申し訳ございません……」

 鈴江さんの隣に膝をつく。力が入らない。海外で離れて暮らしていたときとは訳が違う、あのときは離れているのが当たり前だった。今は一緒に暮らし、すぐに会える距離にいたのに。今日はもう会えないどころか連絡もとれない。
 大助様が帰宅するまで気を失っていたい。



 どうしても都合がつかず、翌日は一日研究室にいた。しかしとても業務に集中できず、十分に一回はヒュスクに大助様の無事を確かめる羽目になった。あまり人前でヒュスクは使わないようにしていたのだが、緊急事態故仕方がない。ヒュスクの存在を初めて知った教授や院生の質問攻めに遭ったが些細なことだ。「シリの進化系」と適当に説明した。
 鈴江さんから<お兄様帰還>の連絡を受けたのは、居残って論文をまとめる院生に協力していたときだった。

「ごめんね、急用が出来たから帰るね」
「<お兄様>ですか?」
「ダメ! お兄様って呼んでいいのはわたしだけなの!」
「今日イチ声出てるの笑えます。露骨に元気」
「また明日! お疲れ様」
「お疲れ様です」

 わたしが神戸家の直系だと知らないので、当然、お兄様がどんな立場なのかも知らない彼らは半笑いだ。わたしを筋金入りのブラコンだと今日で認識しただろうし、それは間違っていないが、もしお兄様が神戸家御曹司だと知ればわたしの心配ぶりにも納得してくれるだろう。
 車に乗り込み、帰路を急ぐ。
 信号待ちの間に指先でハンドルを叩いていると、メッセージを受信した音がした。

「ヒュスク、誰から?」
『神戸大助様からのメッセージです』
「読み上げて」
『【心配をかけたな】』
「心配しましたとも! ああもう! ヒュスク、帰り道の信号全部青にして!」
『かしこまりました。――バランス:アンリミテッド』

 信号の色が変わる。速度をむやみに上げずとも、これなら最速で帰宅できる。金があるからこそなせる技だ。無駄遣いはしたくないが、大助様にお会いするためのお金が無駄遣いであるはずがない。
 昨日も思ったことだが、会える状態が普通だと、少しの間会えないだけでひどく不安になる。以前は、連絡こそすれ、顔を合わせるのは年に三度程度がせいぜいだったというのに。
 一刻も早く帰りたい。


 扉を開けると、大助様が立っていた。門を開けたことでわたしの帰宅には気付いていたのだろう。

「おかえり、佳乃」
「ただいま戻りました、お兄様。心配しました、本当に」

 早足で近づいて、少しくらいは怒ってもいいだろうと見上げる。気持ち的には睨んでいるのだが、大助様を見ると自然と口元が緩むシステムなので失敗している気がする。
 大助様は目を瞬いたもののすぐに「悪かった」と笑う。笑うのだ。わたしは頬を噛んだ。

「反省の色が見られません。わたしは怒っているのですよ」
「ああ、悪い、心配をさせて。この通りなんともない」
「笑っていますけれど」
「佳乃があまりにも嬉しそうだから」

 否定できない。さらに強く頬を噛むと、大助様はまた笑った。
 
「もう二度と家出なんてしないでくださいね」
「ああ、分かった」
「せめてヒュスクを」
「それは俺も誤算だった。それより佳乃、腹は減らないか」

 大助様が手を差し出す。自然とその手をとると、メインダイニングに向かうようだった。大助様のエスコートに舞い上がりながら、どこか楽し気な様子を見上げる。何か特別なメニューなのだろうか。
 ダイニングテーブルにつくと、深い茶碗が前に置かれた。

「加藤家直伝、だそうだ」

 美味しかった。
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