16.都合の良い味方

名前は食事の支度を始め、僕は風呂の支度をする。名前の手先はひどく冷たかった。湯船を掃除してお湯を張る。貰い物のバスソルトがあったはずだ。使おう。
今日はかわいそうなことをした。偶然だったと言えばそれまでだけど、少なくとも毛利探偵事務所であった事件に樫塚圭と名乗る人物がが関与していること、死んだ男が自殺でないことはわかっていた。確証はなかったと言え、名前を連れて行ったのは間違いだったかもしれない。
だけど、ポアロの前に立ちすくむ名前の怯えようを見たら、彼女を1人にすることも憚られた。その結果がこれだ。ため息も出ない。

彼女が苗字名前になったのは、組織の仕事を目撃したのが原因だ。誰よりも自分が責任を持って、彼女を見届けようと思ったためにこの家に置いていた。
以前の家庭環境がそうさせたのか、彼女は滅多に感情に動かされない。動かされた様子を見せない。本当は新しい身分を渡し、暫く様子を見たあとは他に住まいを提供し、どこか遠くに行ってもらう予定だった。
しかし、時々様子を見にくるたびに痩せている彼女を見ると、まだ手を放すことはできないと感じるようになった。文句や疑問の一つや二つ、それ以上でもいい、なにかぶつけて欲しいとすら思っていた。
考えてみれば突拍子もない話だ。彼女からしてみれば、殺人現場を目撃して、犯人と思われる人物から新たな身分を渡されて、以前の自分は死んだと報道される。僕は自分が警察だということも話していない。もしかしたら察しているかもしれないし、気付いていないかもしれない。明らかに説明不足の状況だというのに、彼女はされるがままだった。

父親が暴力を振るう人間だったようだから、何か口を出すと害されるかもしれないという考えがあるのかもしれない。無意識だとしても。
ある時、彼女がハサミを胸に向けているところに遭遇した。そんな馬鹿なことをするなと叱り付けたくなったが、縋るように「やめてくれ」と頼むことしかできなかった。僕が巻き込んだんだ。この人が死ぬのは見たくない。

会うたびに困ったことは?要望は?と訊いても、答えはいつも「特にありません」の一言。あまりに無気力で、息をする死人のようだと思った。時期的には予定外だったが、彼女を社会に出すことにした。
僕の目の届く範囲となると、場所は限られてくる。ポアロでアルバイトがまだ募集されていたので、マスターに相談した。彼女は言われるがまま面接に行き、普通に採用され、働くことになった。
渡された履歴書の内容をすぐに覚え、苗字名前という名前にも慣れている様子だ。理解も早くて都合がいい。名前は本当に都合がいい存在だった。車内で僕の名前を聞かれて初めて彼女が僕を呼んだことがないと気付く。いつも何に対しても与えられたものだけを飲み、絶対に踏み込まない。名前は職業どころか名前すら知らない男に言われるがまま軟禁されていたのか。僕にとっては手間もかからず住んで良いことばかりのはずだが、言葉にし難い、もやもやとした感情があった。

ポアロで働き出してからは、世間の一般人と何も変わらない。接客では愛想の良い表情を浮かべ、真面目に業務をこなしていた。変なトラブルも、目を覆いたくなるようなミスもなく、僕が他の仕事でポアロ に入れない時はヘルプに出てもらえるし、都合がよかった。彼女を家に送った時は、わざわざ他の家に帰る必要性を感じなくて、そのまま彼女と同じ家で寝たりもした。嫌がるだろうか。少しでも嫌そうな雰囲気があればすぐに帰ろう。そう思っていたが、やはり彼女はいつも通り変わらず、何の反応もなかった。
いつも、どんなことでも、自分に関することでも全く動揺や焦り、意見を表さない。人間誰しも感情的になることもある。それが見られない。何も求めない。苗字名前はそんな人だ。

その名前が、怯えた顔で僕を見た。僕を頼るような目をしていた。言葉では決して表さない。しかし、置いて行けるはずもない。同行するのは彼女とは面識もない人物ばかりだったが、問題ないと考えた。
樫塚圭の自宅で盗聴器を見つけただけで怯えていたように思う。死体を発見したときは、耐えられないというように外に出た。当然の反応だ。室内にいるよりはいくつかはマシだろうと車の鍵を渡しに追いかける。怯え切って立ち竦み、ぎゅっと握られた彼女の手は、力を入れすぎて真っ白になっていた。ゆっくりとほどいて、車の鍵を渡す。震えていた。少しでも心が安らぐようにと力の入った肩に触れて室内に戻った。

誘拐されたらしいコナンくんを追い、樫塚圭が運転する車を止めようとしたとき、また名前を怖がらせることになると思った。怖がらせてばかりだ。シートベルトが上手く外れないようでもたつく彼女の名前を急かすように呼ぶ。弾かれたように僕に抱きつき、体を固くする名前を強く抱きとめる。そういえば安室透としてポアロでは苗字さんと呼んでいたっけ、と思い出しながら。