17.正直者の嘘

警察が到着してしばらくしても車から降りない名前が気になり、様子を見に行った。

「出てこれますか?事情聴取もありますし、移動するみたいですよ」

屈んで車内を覗くと、どうやら名前は泣いていたらしい。心底驚いた。無神経にも「泣いてる?」と聞いてしまったほどだ。
怯えてはいたけど、泣くまでだったのだろうか。泣くほどのことだったのだろう。自分の感覚は麻痺してしまっているな、と改めて思い知った。
彼女は無言のまま、左手で涙を拭う。そうじゃない。こっちを見てくれれば、僕がその涙を拭うのに。彼女は頑なに顔を見せてはくれなかった。自然と手が動いて、彼女を引き寄せる。バランスを崩して倒れかけた彼女は、抗議する。出会った当初はされるがままで、何に対しても意見も疑問も言わなかった彼女が、少しずつ僕に対して意見するようになったことが嬉しいのだと気付いた。物言わぬ人形だと思っていた。君にも心があったんだな、と思わず口に出ていた。
瞳から溢れた涙にそっと手を伸ばす。化粧で乗せたキラキラが混ざって光った。

怖かった?と聞けば、肯定する返事があった。力が抜けて立ち上がれないと言った。
あと一歩なのに。もどかしい。立ち上がれないから、手伝ってとか、助けてとか、そのあと一歩を踏み込んでくれたならと思う。

「何か要望は?」

いつもの問いかけをする。車から下ろして欲しいと、答えが帰ってきた。状況が状況なだけに、名前としては不可抗力かもしれないけれど、頼られている。その事実に、スッと心が軽くなった。正直かなり満足した。
気を良くして、彼女を抱え上げる。下ろしてと言われたが、彼女の手足は震えているし、そのままの方が効率的だと通した。抱えた体から震えと、心音が伝わる。血の気が引いて青白く、不安げな顔をしている。本当は事故の処理をしてから帰ろうと思っていたが、彼女と共に帰ろうと決めた。

刑事に話を通して、名前を車に乗せる。僕も後部座席に乗り、そのまま帰った。マンションの前に横付けしてもらい、下車する。名前が降りる扉を開け、手を引いて歩く。掴んだ腕はまだ震えていた。部屋に入り、彼女を後ろからすっぽりと包むように抱きしめた。

「もう大丈夫」

この部屋に怖いものはない。安心して力を抜いて良い。それが伝わりますようにと呟いた言葉だった。


*

「食べないのか?」
「食欲無いので」
「じゃあ先に風呂に入っておいで」
「そうします」

彼女が用意してくれた夕食は、僕の分しかなかった。自分のを作るついでに僕の分を作ってくれているかと思った。違ったようだ。本当は一口でも食事をとってもらいたいところだけど、無理やり食べさせても吐きそうだ。そんな顔色をしている。
名前が風呂に入っている間に食べ終え、食器を片付けた。明日は朝早く出て、車の処理の手続きをして、10時半頃に名前を迎えに行き、事情聴取だ。この時間なら、充分睡眠が取れる。仕事はハードだけど、そのために体を壊してはいけない。僕は可能な限り、食事と睡眠は欠かさない。名前は食事を欠かしがち。

そういえば、明日の午後にポアロのシフトが入っていたような。僕ではなくて名前だ。とても疲れた顔をしていたし、大事をとって休むだろうか。もし休むのなら、僕が代わりに入っても良い。よく眠れるようにホットミルクを作ろうか。世話を焼きすぎだろうか。
今日は彼女に何かしてあげたいという気持ちが強い。僕を頼るべき存在だと認識し始めている今のうちに、もっと頼らせる癖をつけたい。

「安室さん、お待たせしました。お風呂どうぞ」

風呂上りの名前の、火照った顔を見て安心する。髪を乾かしに部屋に入って行く彼女に声をかける。明日のバイトどうする?と訊ねると、ぽけっとした間抜けな顔で答える。

「え?出ますけど」

まるで今日は何もありませんでした、いつも通りのいい天気でしたとでも言い出しそうなほど、普通の答えだった。少し目を話した隙にこれだ。疲れていないわけがないし、実際今もなお今日の出来事に怯えているはずだ。なのに、何もなかったことにしようとする。感情が揺れ動かされてないという顔をする。ホットミルクは要らなそうだ。

残念な気持ちを誤魔化すように、風呂で熱い湯を被った。

バスタオルで髪の水気を取りながらリビングに戻る。もう寝たかと思っていたが、彼女はソファーに座っていた。テレビもつけずに、何もせずに、ただ座っている。自室に入り、ドライヤーで髪を乾かして、再びリビングを覗いてもまだ彼女はそこにいた。ソファーに近付き、問いかける。

「寝ないのか?」
「今は寝たくなくて」

視線を合わせずに答える。声はわずかに震えていた。名前、と名を呼んでも、顔はこちらに向かない。向けないようにしているようだった。腕を引いて無理にこちらに顔を向けさせる。されるがままの名前は、その瞳に、怯えと悲しみを浮かべていた。

「怖い?」
「何が?」
「眠るのが。…大丈夫か?」

大丈夫、と返されると思っていた。その反面、大丈夫じゃない、と言われるのも待っていた。彼女は沈黙したまま、答えない。嘘は言わない。大丈夫じゃないから、答えない。大丈夫じゃないって、言えない。そんなところだろうか。
名前は不器用な人間だ。
彼女の隣に腰掛け、名前の頭を僕の肩に引き寄せる。

「無理に眠らなくてもいいから、目をつぶって、ゆっくり深呼吸して」

言われた通りに、彼女は目を瞑り、ゆっくり息をした。次第に体から力が抜けていき、肩にかかる重みが増した。