23.嫌な顔

遠くで大勢の足音が聴こえる。寝てるんだからもっと静かにしてよ。バタバタしないで。もっとゆっくり寝かせてよ。
誰かが私の体を揺する。起こさないでよ。安室さんが来るまで寝るんだから。

「名前、起きて」

安室さん?

パチッと瞼が開いた。寝起きでぼやける視界には安室さんが居た。やば、安室さんご本人だった。起こさないでよとか思っちゃった。

「後方の貨物車が爆発した。貨物車は切り離されたけど、一応前方に避難するんだ」
「爆発」

なんと物騒な。私は爆発音に気付かないまま爆睡していたようだ。起き上がった私を見て、彼は問いかける。

「この部屋に誰か来た?」
「いいえ」

向かいの部屋の出入りは激しかったが、この部屋にはだれも来ていない。アナウンスがあったかもしれないが、車掌さんも知らせに来てくれなかった。私が明かりを消したままだったのが悪い。

前方車両に向かうため、通路を歩きながら、彼は言った。

「僕はしばらく忙しくなる。悪いがポアロも休むから、君が代わりに出てくれ」
「わかりました。家には?」
「ほぼ帰らないと思ってくれ」
「はい」

蘭さんたちを見つけると、安室さんは離れて行った。どうやら不都合があるようだ。事情も理由もあるのだろう。私にはさっぱりわからないけど。

結局名古屋に到着した列車を降りる。世良さんは目覚めて元気そうにしていたし、逆に灰原さんが寝ていて阿笠博士に抱えられていた。疲れたのかな。わかる。
世良さんの付近に、背が高い茶髪の男性の姿はなかった。誰だったんだろう。いや、そんなに興味があるわけじゃない。事実世良さんを無事送り届けたようだし、もう気にする必要も無い。離れたところを歩く安室さんの姿を見つけた。しばらく会えないらしい。家にも帰らないらしい。さみしいわけじゃない。ポアロのヘルプに入ることだっていやじゃない。ただ、私の生活習慣がまた乱れて、しばらく後に帰ってきた彼に嫌な顔をされるんだろうなと思っただけだ。



*


宣言通り、安室さんの姿を見ることはなくなった。ポアロには事前に連絡していたようで、私がヘルプで入ると榎本さんから「安室さんが夏風邪」という情報を聞いた。ウソだ。もともと忙しくなるから休むと知っていたけど知らなかったとしても、安室さんのような体調管理のの鬼みたいな人が風邪を長引かせるとか信じられないだろうな。体調管理の鬼みたいな人って知ってるからそう思うのか、と気づいて複雑な気持ちになった。

「お見舞い行かないんですか?」
「わたしが?風邪移されても嫌ですし、ちょっとなあ」

冷たい人だと思われたかもしれないけど、普通に考えてバイトの同僚が風邪ひいてもお見舞いには行かない。わたしはそう思う。榎本さんもそうですよねえと返して、この話は終了だ。ポアロの扉が開く。入店を知らせるベルが鳴る。いらっっしゃいませ、と振り向いたら誰もいない。目線を下げると、小さなお客さんが居た。

「久しぶりだね、コナンくん」
「こんにちは、名前さん」

彼をカウンター席に案内して、キッチンに入る。おそらく注文はアイスコーヒーだろうと考えている間に、思った通りの注文が入る。カウンターに出せば、ありがとうと笑顔で言われた。ポアロのいいところは、長居するお客さんが多いところ、そしてクソ客が滅多に居ないところだ。マスターがあの子に出してあげて、と用意したゼリーを盛り付ける。マスターがサービスでくれたよ、とコナンくんの目の前に置くと、キッチンの奥に向けてお礼を言う。なんて平和なんだろう。

「名前さん、ちょっと痩せた?」
「え?そうかな?」

確かに安室さんが帰らない宣言をしたその日からご飯を作るのも面倒でさぼってる。ポアロで働きだしてから、安室さんと顔を合わせる機会も増えて、三食しっかり摂る生活に戻っていたため、この自堕落な生活は久々だった。ソファーで寝ちゃっても、明け方に寝ても、食事を何時に食べても食べなくても嫌な顔をされないって最高。安室さんが邪魔だったというわけではない。彼がさりげなく生活習慣を正してくれたおかげで、肌の調子も良かったし。それでも私は自堕落な生活が好きなんだから、仕方ない。
安室さんにばれたとしても怒られるわけじゃない。隠しているわけでもない。ちょっと嫌な顔をされるだけだ。あきれているのかもしれないし、毎回幻滅しているのかもしれない。仕方ないことだ。丁寧な暮らしが好きな人間と、適当な暮らしが好きな人間の差だ。多様性だ。

今日は朝からのシフトだったから、昨日はバイトが終わった夕方からすぐに爆睡して、明け方に起きてシャワーを浴びて、先に身支度をして、家を出るまで再び爆睡した。電車を待ってる間に買ったゼリーでエネルギー補給して、今に至る。基本一日一食かそれ以下だ。おかげさまで服はサイズダウン。自堕落ダイエットだ。体には悪いからやめたほうがいい。私は今まで生きてきた長めの人生経験のうちから、なんとなくここまでなら大丈夫というラインを知っている。まだ大丈夫だ。運動するとか、強い日差しの下に暫く居るとか、そんな特別なことがない限り。
ポアロと自宅の往復生活の私には無縁のことだ。