27.わたしは幽霊

週明けから安室さんはポアロに復帰した。同時にわたしの生活リズムも矯正された。カサついていた肌がもちもちになってきた。ついでに輪郭もちょっと丸くなったかもしれない。多分、まだ許容範囲だ。
午前だけのシフトだった榎本さんと入れ替わりに安室さんがホールに入る。わたしはキッチンでのんびりコーヒーカップを洗っていた。
帰り支度を終えた榎本さんがわたしに近寄る。安室さんが奥の席を片付けてるのを確認して、わたしの耳元で小声で話す。

「安室さんと名前さん、二人でのシフトって久々ですね」
「え?まあ、確かにそうですね。お休みされてましたしね。」
「ほぼ全部名前さんがヘルプ入ったじゃないですか?お礼に今夜一緒にご飯でも〜とかならないんですか?」
「榎本さん、もしかして私で楽しんでますか?」
「下の名前で呼んでって言ったじゃないですか〜もう!」

榎本さん、いや、梓さんに背中をバシッと叩かれる。良い音が響いてしまった。お礼に今夜一緒にご飯でもどころか、なぜか今週はほぼ彼と共に食事している。つまり彼はほぼ毎日わたしも同じ家に帰っているのである。どうしてだろう。今はもしかしてもう一つのお仕事のスケジュールの余裕があるのかもしれない。休める時にしっかり休むべきだ。とにかく、わたしたちは毎日共に食卓を囲んでいる。それに、わたしが彼にお礼するべきことは山ほどあるけど、彼がわたしにお礼するべきことは何もない。ヘルプのおかげでお給料だって増えたしね。

「やば、待ち合わせ遅れちゃう!お先に失礼しまーす!」

梓さんが慌てて出ていく。お疲れ様ですと声に出したが、聞こえたかどうかはわからない。

「梓さんと何のお話を?」

安室さんがテーブルから下げてきたお皿をカウンターに乗せる。わたしはそれを一つずつ洗っていく。

「安室さんのことですよ。一緒に外食したりしないの?って感じのことです」
「へえ。したいですか?」

顔を上げて彼の顔を見る。
あ。
梓さんと同じような表情をしている。わたしで遊んでいる。わたしが安室さんのことを否定するような返事ができないと思っている。その通りだけど。"したくない=行きたくない"とわたしが言うはずがないと思っている。その通りだけど。わたしが答えないのを良いことに、安室さんは話を進める。

「火鍋のお店ができてましたよ。点心を食べるのも良いですね。僕のおすすめのお店はイタリアンなんですけどね。すこし遠いですが味は確かです。先日蘭さんがおいしい韓国料理のお店も教えてくれましたけど」
「はあ」
「何か要望は?」

最後の一枚のお皿を洗い終えた。水滴を布巾で拭っていく。彼は何かを期待した目でわたしの返事を待っている。何を期待されてるんだろう。彼が食べたいものを当てろって?わたしにそんな芸当は無理だ。

「特にないです」

だから安室さんの好きなお店にしてよ、という意味だった。彼の求める答えじゃなかったようで、片方の眉をすこしだけ歪ませた。


*


退勤後に彼の車に乗る。車は家とは逆方向に走った。結局どこか食べに行くようだ。安室さんと外食は初めてだ。ポアロの賄いは外食と呼ばないことにする。時間的に結構遅いけど、良いのだろうか。わたしは明日お休みだけど、安室さんは違うような。午前からシフトが入っていたような。まあ、この人が寝坊するとかそういう心配はないんだけど。彼の睡眠時間を考えるなら、あまり長居しすぎないようにすれば良い話だ。
イタリアンのお店だった。入店する。いつのまにか予約していたようで、彼がスタッフに苗字ですと言うと席に通された。わたしの名前で予約したのね。

「お酒ありますよ。飲みますか?」
「いいえお酒は結構です」

アルコールメニューをわたしに見せてくれたけど、わたしはお酒は控えると決めていた。わたしが道を間違えて、彼のお仕事を目撃してしまった要因の一つにアルコールがあった。お酒は懲り懲りだ。飲みたい気持ちも無くはないけど、人生で一番とも言える失敗の原因だ。油断は禁物。わたしが断ると、フードメニューを上に重ねた。

「前菜盛り合わせとトマトのピザ、子牛のグリル」
「良いですね」

安室さんがテキパキとメニューを決めてくれる。よかった。何か要望は?何が食べたい?って聞かれても「特にないです。安室さんのお好きなものを」としか答えられなかった。お見通しなのだろうか。飲み物は二人ともソーダにした。無糖だ。

「うわ、キッシュめちゃくちゃおいしいです。下の生地がサクサク」
「バターがよく効いてますね」

安室さんが連れてきてくれるお店なだけあって、めちゃくちゃ美味しかった。値段も馬鹿みたいに高いわけじゃない。勧められるがまま他のメニューも食べた。デザートのガトーショコラまで彼が注文する。私はお手洗いに立つ。

このお店は席ごとに仕切りがしっかりあって、半個室みたいな感じだ。席から他のお客さんが全く見えないし、見られない。入店時と退店時や今みたいにお手洗いに立つ時くらいしか人と遭遇しない。お手洗いから出てきた50代くらいの男性とすれ違った。パーマがかかったクルクルのロン毛。ちょび髭。そして悪人顔。安室さんと同じくらい身長があって、薄手の黒いニットを着ている。ちょっと怖めの人だ。いや、人を見た目で判断してはいけない。

女性用のお手洗いに入る。個室は2つ、両方とも使用中のようだ。少し待つと、扉が開いた。俯きながら出てきた女性は手を洗う。わたしがお手洗いに入り、扉を閉めようと顔を上げたとき、手を洗っていた女性の顔が向かいの鏡に映る。
目を疑った。そんなまさかと思った。ここにいるはずがない。女性の顔を凝視したまま呆然と立ち尽くすわたしが鏡に映る。鏡越しに、女性とわたしの視線が合う。わたしの喉は引きつって、声も出なかった。
わたしの動揺をよそに、女性は不審そうな表情を浮かべ、何事もなかったようにお手洗いを出て行った。

わたしはしばらく立ち尽くしていた。隣の個室から若い女性が出てくるまで、扉を開けたまま。先ほどの女性が出て行った出入口を見つめていた。


お手洗いから戻ったわたしの様子がおかしいことを察して、何かあった?と安室さんが問いかける。何かというか、誰かというか、なんというか。わたしは小声で彼に話した。

「お手洗いで会ったんです」
「誰と?君がそんな顔を浮かべるような人物…というと」
「限られてきますよね」

安室さんは綺麗な眉を歪めた。

「以前のと言えばいいでしょうか?以前の、母でした」