32.言葉にできない距離と愛

先日のミステリートレインは、組織の仕事をすることが事前にわかっていたため、彼女を連れ出さなかった。名前を組織の人間に認知されたくない。危険な人物からは遠ざけたい。一般人なのだから当然のことだ。だけど、彼女はあの列車に乗っていた。いつもの気が抜けたような雰囲気とは異なる容姿で現れた。一目見た瞬間に、身支度から楽しんでいたのだと分かった。ポアロと自宅を往復するだけの毎日。ほぼ軟禁と言っていい状態だった時のことを考えると。彼女の世界は広がった。だけど遊びに出かけたり、何か趣味をみつけて楽しんだりすることは滅多になかった。着飾って、誰かと遊びに行くという行為自体久しく、浮かれていたのかもしれない。でも結局ミステリートレインでは殺人事件も起きたし、組織として僕らが事件も起こして、彼女にとって楽しめる時間にはならなかっただろう。

だから伊豆高原にも連れて行った。純粋に楽しんで欲しかった。今思えば、僕が不在の間、彼女が以前のように自堕落な生活をしていることは容易に想像できたはずだ。名前がいつも僕の行動を否定しないのを良いことに、彼女を連れ出した。
ドライブはとても楽しんでくれていたと思う。あまり表情が変わらないようにみえるが、気分は良さそうだった。結局、テニスコートが始まりで当然のように事件は起こり、名前は熱中症でダウンするし、あの時も散々だった。

先週だってそうだ。梓さんとの会話がきっかけで、今まで彼女と外食したことがないと気づいたので、どこかいいお店をと思って連れて行った場所。そこでかつての母親と遭遇する。どうしていつも最初から最後まで純粋に楽しませてあげることができないのだろう。
母親に顔を見られたが、死んだはずの娘だとは気付かれなかったと言う。何年も会っていなかったそうだから、気付かれなかったようだ。平気そうにふるまっていたが、少なからずショックを受けているように見えた。

名前の出身地は東都ではない。不倫して出て行った母親が東都に居るという話も聞いていない。今後可能な限り彼女と遭遇しないように、店内での会話をもとに居住地域が分かればいいと思って仕掛けた盗聴器。そこから聞こえたのは。とても名前には聞かせられないような内容だった。
同席する男性は不倫相手かと思ったが、会話から薬物の売人のようだ。とんでもないが、娘の遺産が入ったから薬を買ったようだ。しかも、名前が遭遇したというお手洗いの個室で使用した。とんでもない女だ。
店から出た二人組はそれぞれ別の車で別の方向へ進んだ。男の方を追った。彼女の母親はプロじゃない。すぐ検挙することができるだろう。高速道路で男が下りた場所を覚える。売人は薬中からも追える。助手席に名前を載せていたし、深追いは禁物だと考え引き返した。

そして今朝のニュースで彼女は母親が逮捕されたことを知る。薬物中毒者だったとはやはり知らなかったようだ。女を追っているうちに、夫…つまり彼女の父親の犯罪も明らかになってきた。売人に雇われた下っ端で、恐喝の疑い。少し泳がせて大本の組織へのつながりを探っている段階だ。名前に
詳しくは話さなかった。知ってどうする。もう縁のない人間だ。そうだとしても、彼らの罪が名前の心を苦しめるのではないだろうか。この子はどうしていつまでたっても幸せになれないのだろうか。

家ではだらけてるし、放っておけば生活リズムを乱しまくる。確かに完璧な人間じゃない。いつも手を引かれるまま、流されるままで、文句も言わない。それどころか、素性すらはっきりしない僕を信頼しきっている。疑うことを知らないのかと思うほどだ。いつも僕の言うままに行動して、多少無理矢理押し付けた苗字名前としての人生を言われるがまま送っている。他の誰にも頼れない状況だとしても、僕だけを頼りにするその姿が可愛くないはずがない。
いうなれば悪人という部類に属する父親と母親に育てられたはずなのに、こんなに真っ直ぐな人間だ。初めは彼女に抱く感情はただの同情だった。不幸でかわいそうだという気持ちだけだった。それが今は、誰よりも幸せになってほしいと願っている。危険にさらされることなく、日々の幸せは安定していて、時々大きな喜びがある。つらいことは最小限。そんな人生を願っているのに、どうしてこうなるんだろう。

意識のなかった名前の肩が小さく動いた。名前を呼ぶと、返事がある。

「コナンくんたちがその水筒に白湯を用意してくれたよ。体が温まるから飲んで」
「はい」

冷え切った手がかじかんで、蓋を上手く開けられないようだ。信号で停まった隙に水筒を受け取り、蓋を開けた。お礼を言って、彼女が白湯を飲む。

「気分は?」
「まあまあです」
「寒くないかい?」
「随分温まりました」

家につき、駐車場に車を停める。ふらつく彼女を支えてエレベーターに乗る。温まったとは言ったが、時々ぶるりと体を震わせている。部屋に入り、ソファーに座らせる。名前はコナンくんからもらった白湯をゆっくり飲んでいる。暖房と加湿器をつけた。僕の部屋から毛布をもう一枚持ってきて、彼女の肩にかけた。
台所に立ち、インスタントのカップスープを作る。彼女の前のローテーブルに置くと、お礼を言われた。

「全部は飲みきれないかも」
「残してもいいよ」

風呂に向かい、湯船に湯を溜める。バスソルトはこの前使い切ったんだっけ。今度買っておこう。リビングに戻ると、名前はソファーに横たわっていた。どうした?と声をかけると、ひどく落ち込んだ様子で呟いた。

「ちょっとは綺麗になろうと思ったんです。次は美容院に行きたかったんです」

ああ、珍しく外出していた理由か。確かに彼女の指先は、今朝までとは違って薄いベージュが塗られ、つやっとしている。服装もいつもより華やかなワンピースだ。気温に対して薄着だったのは、温かさより見た目を重視したからか。言い方が悪いけど、珍しいと思った。あまり美容に興味あるようには思えなかったからだ。確かに化粧品にはこだわりがあると言っていたし、元来そういうタイプだったのかもしれない。ようやく好きなことをしたいという気力も出てきたということだろうか。そんな日に限って死体とともに閉じ込められるなんて、本当に運がない。かわいそうだ。

「普段と違うことをすると、必ず何かが起こるような気がします」

たしかに最近の彼女からするとその通りだ。せめて僕が側に居る時ならまだよかったかもしれないけど。そして今回はあの不思議な頭のいい小学生が一緒だったからよかったものの、本当に一人きりの時だったらと思うとゾッとする。実際彼女は一人きりで歩いていた時に、偶然にも組織の仕事を目撃してしまっている。次が絶対にないとは言い切れない。不安だ。この子が何の不安もなく、ただ幸せに生きていける日は来るのだろうか。

「何かあったとしても僕が助けるだろう」
「わたしもそう思います」


視線が重なる。彼女は微笑んでいる。名前の顔に手を伸ばし、目にかかった前髪をよける。目をつぶっておとなしくされるがままになっている。少し擽ったそうに笑った。もう少しでお風呂入れるからというと、ゆっくり目を開けて口を開いた。

「わたしにとって安室さんってどういう存在なのかなって、考えてみたんですけど」

突然の話題に少しだけ緊張した。名前にとってどういう立場なのか。たしかに明確な答えはない。ほぼ一緒に住んでるようなものだけど、もちろん恋人でもない。ルームシェアとも違う。保護しているという名目ではあるが、完全に仕事だからと割り切って考えているわけでもない。友人かと問われると、わからない。
僕は君にとっての何なんだろうか。