33.右手と右足

「お父さんみたいな人だって思いました」

固まる。
お父さん?彼女の父親は暴力を振るうどうしようもない人間だったはずだ。もしかして犯人を殴ったところを見てそう思ったのだろうか?いや、彼女はその瞬間を目撃していないはずだ。

「いつも助けてくれるし、面倒見てくれるし、こうやってお世話してくれる。本来父親ってこういうものなんだろうと思います。あ、もちろん安室さんがめっちゃ老けてるとかじゃないですよ。わたしが年齢に見合わず甘えているせいです」

そういうことか。確かに僕は君を助けるし、面倒も見るし、正直世話を焼きたい。幸せにしたいからだ。
彼女に、甘えているという自覚があることに驚いた。実際そんなに甘えられていないと思うけど、彼女にとっては甘えているということらしい。僕は名前にとって理想の父親役か。言われてみればそうなのかもしれない。
年齢はそんなに離れていない。だけど、どうしても庇護欲が湧いてしまう。何としてでも自分が彼女を助けてあげたい。そう思う理由はこれだったのだろうか。一般的な父親が娘に抱く感情と同じということだろうか。彼女が住むこの家に帰り、共に生活をするのも、いつの間にか遠慮も違和感も消え去っていた。もちろん育てた覚えなんてないけど、守りたいという自覚はある。

「いや、待って、今の発言撤回します。どう考えても地雷女の発言でした」
「地雷女?」
「めちゃくちゃ歳が離れてるわけでもない男性にお父さんみたいとか言っちゃう成人女性はわたし的には地雷です」

起き上がった名前は自分の発言を気持ち悪いといった。僕は結構納得したんだけど、なんて口には出さずに彼女の様子を見守る。自分でゾッとしましたと呟いて腕をさすっている。そんなに変な発言だっただろうか。不思議だ。

「お風呂入ります。用意してくれてありがとうございます」
「ごゆっくり。しっかり温まるんだよ」

風呂場へ向かう名前の小さな背中を見送る。
苗字名前という身分は僕が用意させたものだ。あながち、親というのは間違っていないかもしれないと思った。人の親というより、巣立ちまで守り通す親鳥に近いのかもしれない。いつかは僕のもとから離れて行く。その時まで彼女を守りたい。僕の手が離れた後も、幸せでいて欲しい。

そういえば、彼女をまだここに縛り付けている理由は何だっただろうか。本来なら、彼女が一人で違和感なく苗字名前として生活できるようになるまで、近くでサポートするだけのはずだった。しかし名前は僕が思うより数倍上手くやっている。彼女が身分を偽っている件に関して、ボロを出したことは…先日の母親と遭遇したとき以外は全くない。その母親も、しばらくすれば父親も、刑務所の中だ。「新しい身分としての生活」で彼女に心配するようなことはほぼ無いと言える。
逆に、この犯罪の頻発する地域で、犯罪組織に潜入している僕の近くにいることがそもそも危険ではないのか。本当に彼女を危険から遠ざけたいのであれば、遠いところで平和に暮らしていけるように手配するべきではないのか。
うるさいな、そんなことわかってるさ。
僕は僕の手が届くところに彼女にいて欲しい。その理由だって本当はわかってる。「誰か」にではなくて「僕」に守られていてほしいんだ。

「最低だな」

遠くになんて行かせたくない。これは、正しくは庇護欲なんてものじゃない。この気持ちを何と呼べばいいのだろう。



*


「一応聞いておくけど、明日のシフトは」
「予定通りです」
「そうい言うと思ったよ」

髪を乾かし終えたころ、安室さんが私に聞いた。体調を気遣ってくれているのだろう。でももう本当に大丈夫で、震えも寒さも残っていない。当然出勤する。
わたしが休む場合、ヘルプで安室さんが入ることになる。それは避けたい。わたしが安室さんの代わりになるのであって、安室さんに代わりをさせるなんてことは厳禁だ。普段迷惑をかけまくりだし金銭面的にも甘えまくりの生活なので、せめて出れるバイトは出る。

「わかってると思うけど、無理はしないように」
「大丈夫です」

安室さんの前でもうちょっと気を遣った格好でいようと思って行動した日だったのに、すでにすっぴんと部屋着でダラダラモードだ。肌と繭は常に自分のために気をつけているので、地獄みたいな顔ではないと信じたいけど。
今更ながら恥ずかしくなってきたなんて、本当に今更何を言っているんだと自分でも思う。でもこの人に今以上幻滅されたくないと考えている自分に気がついてしまったのだから仕方ない。本日の顔面営業時間は終了しました。オイルクレンジングですべて流されて行ってしまったから。さりげなく彼から顔を背けたが、いつだって鋭い安室さんは違和感を感じたようだ。

「どうした?」
「いえ、なんでも」
「それにしてはいつもと様子が違うけど」

安室さんの綺麗な顔がわざわざ追ってくる。やめてほしい。今日は特にすっぴんを見られるのが恥ずかしい。今朝「もっと気を遣おう」と決意したばかりなのに、髪のメンテナンスにも行けないまま、今朝と同じ状態だ。メンタル的に今日はもうすっぴんをじっくり見られるのは勘弁して欲しい。爪は見て欲しい。爪だけは可愛いから。

「顔が近いです」
「君が顔を見せてくれないからだろう」
「今日はだめです」
「どうして」
「恥ずかしいから」

なぜか今日に限って深く追及してくる。ついに目の前にまで来てしまったので、手で顔を覆う。これですっぴんは隠れるし可愛い爪は見せれる。しかしいい歳し大人二人が何をやってるんだと冷静に考えた。少し間があったが、納得してくれたようで、そうか、と言った。分かってくれてよかった。初めからすっぴん見られたくないので近寄らないでくださいと素直に言えばよかった。でも丸っとすべて伝えるのは、それはそれで恥ずかしいような。複雑な問題だ。ひとまず理解を得られたので、もう離れてくれただろうと思って顔を覆っていた手をずらすと、目の前に綺麗な青が。安室さんがガン見してくる。なんで?ひどくない?恥ずかしいって言ったじゃん。信じられない。どうして?

「いつもと同じだけど」
「…同じですみませんでした」

恥ずかしいっていうから、いつもと何か違うのかと思った。彼はそう言ってまじまじと私の顔を観察している。私の不可解(?)な行動が彼の探偵魂に火をつけてしまったのだろうか。あなたの本職は探偵じゃないでしょうと言いたいけど、言えなかった。