35.いつかの平穏

IDっぽいものを書いた紙を女性に渡す。そのとき、ちょうど安室さんから着信があった。助かった〜!
すみませんと女性に伝えて電話に出る。

「もしもし」
「2分後に西口のロータリーに着く」
「一緒に行っていいですか?」

会話が成り立っていないことは承知の上だ。彼女が目の前で私の言葉を聞いているので、色々はっきりと伝えることができなくてもどかしい。
今わたしに付きまとっている怪しい人物をうまく振り払って車に向かうことが難しいです。おそらく車までついてくるような気がしますが、そのまま行ってもよろしいでしょうか。そういう意味を込めての「一緒に行っていいですか」である。安室さんに無理難題を押し付けている。どうか理解してほしい。無理だろうか。

「…ああ、わかった。そのまま来てくれ」

伝わったぽい!有能すぎる人だ。

「電話は繋いだままで。切ったふりしてこっちにおいで」
「はい、向かいます。それでは」

スマホの画面が見えないように向きを変え、カバンの一番上にあるポケットに入れる。

「もうすぐ迎えの車が着くようなので」
「お迎えってどんな方?もしかして旦那さん?もうご結婚されてるの?」
「違いますよ。同僚です」
「奥のロータリーよね?私も帰り道だから、そこまで一緒に行きましょう」

思った通り彼女は着いてきた。幸いIDが掛かれた紙は彼女の上着のポケットに淹れられたようで、IDが偽物とはばれていないようだ。よかったよかった。見慣れた白い車を見つけた。一気に安心した。もう大丈夫だと思える。魔法みたいだ。

「じゃあここで。声かけてくださってありがとうございました」
「連絡するからまた会いましょうね、苗字さん」

もう一生会いたくない。しばらく一人で外出したくない。本当にやめてほしい。笑顔が引きつりそうになる。手を振ってこれ以上は来るなと願いながら車に早足で向かった。助手席に乗り込む。

「あの女か?」
「はい」

車がゆっくりと動き出す。女性から離れられたこと、隣に安室さんが居ることですっと力が抜けた。よかった。
安室さんに詳しく状況を説明する。名前も学校もばれている。二つとも偽装なので、彼女が嘘をついて接触してきたことがわかる。目的はわからない。一部始終を話し終えるころ、彼はバックミラーを確認した。何も言わずに再び前を見た。もしかして追ってきているのだろうか。車で?マジか。どうして?私になんの恨みがあって?

「お惣菜」
「え?」
「冷蔵商品だろ?保冷材は?」
「1時間分つけてもらいました」
「40分。いや、30分で帰ろう」

本来自宅に帰る道ではない方向に進んでいく。そのまま高速道路に入った。右車線をガンガン飛ばしていく。時々後ろを確認しているようだから、しっかり追跡されて続けているらしい。

「少し揺れるから気を付けて」

そう言ってすぐのことだ。彼が急にハンドルを左に切り、車線を3つ、一気に横切った。車線変更というよりもはや左折。遠心力で身体が引っ張られるのを耐えた。そのまま高速出口へと入り、一般道に合流した。ちょっと恐怖でドキドキした。そのまま一般道を使って少し遠回りのドライブの後、家に帰った。

「しまったな」

エレベーターに乗ったときに安室さんが呟いた。

「32分だ。2分遅れた」


*


不審な女の事件よりも、安室さんの運転のほうがドキドキしたおかげ(?)か、気分はリラックスしていた。追跡を巻くためとは言え、いい気分転換になるドライブだった。
買ってきたお惣菜を並べて、二人で食卓を囲む。おいしい。癒される。ズボラなわたしは買ってきた容器ごと食べるのが普通だと思っているけど、安室さんはちゃんとお皿に盛り付けて食べたい派らしく、彼が丁寧にテーブルに並べてくれた。洗い物はわたしがした。
夕食の後、二人で向かい合い、今日の女について話す。

「一応聞いておくけど、女に心当たりは?」
「ないです」
「だろうね」

ポアロと自宅の往復生活ということを彼もわかっているので、それ以上の追及は無かった。どういう意図があって私に接触してきたのか。一つ心配なのは、この家の場所を知られていないかということ。ここは私の家ではなくて、安室さんの所有する場所なので、私だけの自宅が知られるより嫌だ。困る。

「おそらく家は知られていないだろうね」
「そうなんですか」

彼の言葉に安心する。安室さんが知られていないと言うんだ。大丈夫なのだろう。あーよかった。あからさまに顔や体から一気に力が抜ける。しかし安室さんは眉を寄せ、眉間に深い皺をつくった。

「これで一安心なんて思ってないよな?」
時々、この人はエスパーなのではないかと思う。どうして考えてることがわかるんだろう。その鋭さのおかげで助かっているけど、考えをピタリと当てられすぎて、恐ろしさすらある。

「家が知られていないだけで、他は何も解決していない。いつどこで今日みたいなことがあるかわからない。しばらくポアロも休むべきだ」
「ポアロは休みません。今月のシフト出てるし」
「僕が代わりに入ろう」
「それはダメです。安室さんは忙しい人です。体が資本です。予定外の仕事を入れたら当然お休みの時間が減ります。ポアロは絶対休みません」
「頑なだな」

彼は実に面倒だという表情を浮かべる。安室さんと暮らす時間がそれなりにあったことにより、彼は三食欠かさずしっかり食べて、睡眠時間もなるべく決められた時間を確保するということを知っている。健康管理が完璧だ。行き当たりばったりでその日が良ければ後先考えないみたいな暮らしをする私とは違う。出勤の前日だとしても「明日の私が頑張るはず」という考えで夜更かししてしまうような私とは違うんだ。先の計画までしっかり立てて行動している彼に、予定外の労働をさせるなんてことは、絶対にしたくなかった。譲らない。