05.死人の自覚

安室さんがこの家に顔を出す時は、安室さんに合わせてちゃんと食事を取るけど、しばらく顔を出さないときは、面倒なのでご飯をあまり食べない。ていうか、ベッドから動かない。明け方までテレビを見たり、15時くらいまで寝て、16時くらいにお腹が空いた気がしたら軽く何か口に入れるくらいで、そんな日が三日続く日もあれば、一週間続く時もある。面倒だから浴槽にお湯も溜めない。シャワーで済ませる。時々思い出したように掃除する。わたしの家じゃないんだから、可能な限り綺麗にしておかなければという使命感がある。

安室さんが最後にこの家に寄ったのは10日ほど前だ。この自堕落な生活が気持ちいい。人の目がないから何しても怒られない。良い暮らしだな。お金掛からないし。ていうかわたし現在一文無しだし。自由に使えるお金がなくて趣味も楽しみも何にも出来ないけど、とりあえず生かしてもらってる感。なんか、中高生の時に戻った気分だな。お金もないし、遊びに出かけたり好きなものを買おうとすると父親に殴られた。だから何も楽しまなかった。人生2回目で本当に良かったと心から思った。大人になったら逃げられるとわかっていたから耐えられた。今は何だろう。わたしは今後どうなるんだろう。

玄関の扉が開く音がした。安室さんだ。パッとベッドから降りて、ささっと髪を梳かす。もうすっぴんなのはいつものことだ。ていうか化粧品もないし。唯一頼み込んで買ってきてもらった愛用のスキンケア一式で申し訳程度に肌を整える。まあ良いか。部屋を出ると、買い物袋を持った安室さんがキッチンに居た。

「名前さん、お久しぶりです。何か変わったことや困ったことはないですか?」
「お久しぶりです。特にありません」

買ってきたものを収納しながら会話した。視線はこちらに向いていない。わたしはじっくり彼を見ている。グレーのシンプルなスーツ。時期的にクールビズな人が多いと思うけど、ネクタイまでしっかり締められている。時計を見ると20時。本職?の仕事帰りなんだろうな。
不意に安室さんが近寄ってくる。何だろう?顔を見上げる。結構身長あるな。わたしのダボっとしたオーバーサイズの部屋着越しに肩を触る。なに?どうした?いよいよ謎行動。

「あの…?」
「随分痩せましたね。顔色もよくないな。前に来た時から食材があまり減っていない。食べてませんね」
「お腹減らなくて」

家を出るなとハッキリ言われたわけじゃない。しかし今現在玄関には男性用の革靴しかない。つまりそういうことだ。外出なし、家で何かやることもなし、お腹も空かなくて当然だ。わたしが寝てばっかりなのも問題だけど。筋力も体力も確かに衰えただろう。今まで成功しなかったダイエットも無理やり成功したようなものだ。ラッキーかな?

「何か要望は?」
「特にありません」

彼への答えはいつも同じだ。なにもない。わたしは与えられるままに生活しているだけだ。わたしの答えが気に入らないのか、安室さんは顔を顰める。

「君はまるで死んでいるみたいだな」

いや、死んだじゃん。死んだことにしてくれたのは安室さんでしょ。わたしの考えが表情にそのまま現れたようで、ため息をついた。わたしの腕を引き、ソファーに座らせる。隣に安室さんが座る。よく聞きいて、と彼が口を開く。

「確かに君はもう死んだことになった。君のご両親にも連絡は行った。きっと時期的に葬式も終わっただろう」
「わたしの両親が、わたしのお葬式をすると思いますか?」
「今はその話じゃない」

すみません、と謝る。思わず口から出てしまったのだ。あのカス二人が、わたしのためにお葬式を開くはずがない。そして参列する人もいないだろう。

「確かに死んだが、今の君は苗字名前として生きているはずだ。ちゃんと生きている自覚はあるか?」
「…無いかもしれません。だって、苗字名前としてわたしが生きてるって証明する人が、あなた以外にいますか?」

偶然にも、わたしの中で苗字名前の人生は一度終わっている。そして新しく歩んでいた人生も先日終わった。また苗字名前として生きていけることになったけど、実感が薄い。彼が用意してくれた身分証しか、今のところ苗字名前が存在していることを教えてくれない。

「親も友達も職場の同僚もいません。わたしを知る人は誰もいないです。この状況で、苗字名前として生きている自覚と言われても、難しいです」

わがままですみません、と頭を下げる。ちらりと表情を窺えば、彼はしばらく考える素振りを見せて、わかった、と一言。何が?と思って顔を上げたけど、彼は立ち上がって鞄を持って扉へ向かった。今日はもう帰るのか。突然だったな。

「次に会うときは外出しよう。必要なものは揃えておく」
「外出ですか?わたし化粧しないと家出ないタイプなんですけど」
「わかった、化粧品も用意する」
「こだわりがあるんですけど」
「リストアップしてメールで送ってくれ」
「わかりました」

謎だ。謎を残したまま、彼は革靴を履いて出て行った。何だったんだ。