51.何かが変わる日

「なんで」

安室さんが不満げに文句を言う。私が右手で口を覆って、キスを拒んだからだ。

「嫌ですよ。ゲロ味がお好きならかまいませんけど」

さっきまでゲロゲロしてた口だ。正直自分でもわかるくらい口の中は酸っぱい。こんな状況でキスしたくない。喉が痛くて声がスカスカだ。全身が重く感じる。めちゃくちゃ体力消耗した。

「ゲロ味は嫌いだな」
「そうでしょう」
「いや、ゲロ味だとしても君だったら嫌いじゃない」

そう言って彼は私の手を掴んで、そのまま横にずらしてキスをした。信じられない。舌まで入れてきた。本当に信じられない。ゲロ味のキスなんて史上最悪だ。ようやく離れた安室さんが口を開く。

「酸っぱい」
「最低です」

やっぱり一人にしてくださいと寝返りを打って彼に背を向ける。彼が立ち上がり、扉の方へ歩いて、ドアが閉まった音がした。

私はぽろりと涙をこぼす。涙は枕に吸いとられる。安室さんが現れたのは、夢だと思った。私が強く強く望み過ぎて、ついに幻覚を作り上げたのかもとすら思った。
だけど、彼はここに帰ってきた。またこの家に帰ってきてくれた。
嬉しかった。不安でたまらなかった心がすっと晴れた。気分は最悪だけど、もう大丈夫だ。何か大きな事件があって、彼も覚悟を決めたのだろうけど、結果的にここに帰ってこれたのならそれでいい。何も聞かない。私は許される限りあの人の側に居る。

ぼろぼろとこぼれる涙を拭う気力もない。はあ、と大きく息を吐くと、枕の横に手が置かれて、ベッドがギシリと鳴った。驚いて見上げると、出て行ったと思った安室さんが、私の上に覆いかぶさっていた。

「出て行ったんじゃ」
「ドアを閉めただけさ」

足音も言葉もなく近づいてきておいてよく言う。気配なんて感じられなかった。わざとだ。なぜだか今日の安室さんは意地悪だ。いつもの安室さんじゃないみたい。

「僕がここに居るのに、一人で泣くのかい」

男らしい大きな手が私の眼もとに浮かんだ涙を拭っていく。泣くと言っても悲しくて泣いているのではない。あなたが生きて帰ってきてくれてよかったと泣いているんだ。そんなこと言えるはずもない。この人が何の仕事をしているかも聞かされていないんだから、心配も安心もする権利がない。ぐっと唇をかみしめていたら、安室さんはそのまま私のベッドに入り込んできた。

「ちょっと」
「疲れてるんだ。ここで寝ちゃだめ?」
「わたし、汗かいてるし」
「僕は2日間シャワーすら浴びてない」

それは先にシャワー浴びてから寝たほうが疲れが取れると思うんだけど。安室さんはそのまま私の横に寝転がり、私を抱きしめた。

「二日間お風呂入ってないのによくこんなことができますね」
「君は嫌がらない」

彼に私の自堕落さが伝染してしまったのだろうか。嫌がらないとは言え可能ならお風呂に入ってほしい。私も昨晩はお風呂に入れてないけれど。起きたらベッドのシーツを洗おう。

「私じゃなかったら蹴り飛ばされてるかもしれませんね」

安室さんのぬくもりが伝わって、眠気が襲ってきた。会話もゆっくりだ。私の言葉に彼は小さく笑った。

「君以外の人とは寝れないよ」

いつまで?わたしが婚約者役で居られる限り?同じことばかり考えてしまう。私っていつからこんなにネガティブになったのかな。楽観的でポジティブなタイプだと思ってたのに。ぎゅっと手を握る。大丈夫、まだこの腕の中に私の居場所はある。
安室さんが私の手を包み込む。自然と力が抜けていく。

「これは君の美点でもあるけど、悪いところでもある」
「どれ?」
「こうやって手を握りしめて、全部我慢してしまうところ」

安室さんはわたしの手にキスをする。
たしかに手を握りしめるのは、癖になっているかもしれない。父親の暴力に耐えていたときが始まりだ。

「握りつぶさないで、全部僕にくれ」

青い瞳が強く煌めく。射抜くような熱い視線から、思わず目を背けた。すごくドキドキする。なんだろう。やっぱり安室さん、いつもより強引で、雰囲気が違う。

「そんな、恋人でもあるまいし、これ以上迷惑をかけれません」

家賃水道光熱費、食費もほぼ安室さんから出ている。いくら婚約者の役をしているとはいえ、体の関係もあるとはいえ、全力で彼にもたれかかりすぎている。今以上に、不安や弱音も受け止めて貰ったら、次は一人で立ち上がれなくなる。お別れしたあと、一人で生きていけない。今の状況で十分幸せだ。

「恋人ならいいの?」

ぐるりと私の上に覆いかぶさり、視界一杯に安室さんの顔が映る。

「僕を君の恋人にしてくれる?」
「もう婚約してますよ」
「そうじゃない」

まぶたにやさしいキスが落とされた。そのまま頬と鼻にもキスされる。甘すぎる展開に心がついていけない。2日間シャワーを浴びる暇もなく働き過ぎて、どうにかなってしまったのではないか。先日婚約した証の指輪も私の左手に光っているのに。

「名前も知らない男の恋人になってほしい」

だめ?と吐息交じりで甘くささやかれる。どういうことなの。名前も知らない男の恋人って?わたしが名前を知らされていないあなたの恋人になるの?わたしはそこに居ていいの?

「理由は?」

降谷さんが私を恋人にするメリットってなに?どんな理由や事情があるの?それは安室さんの婚約者役とは違うんだよ。目的が達成されたら解消されるものじゃないんだよ。

「君を幸せにしたいから」

優しく微笑まれる。そのまま、まるで食べられるかのように深いキスをした。息が上がる。またゲロ味のキスで最悪だと思いながら、胸に広がる多幸感でいっぱいだった。この人の瞳も声も言葉もすべて、わたしにとって麻薬みたい。彼が私を抱きしめて、体中に幸せな重みがかかる。私の肩に顔をうずめて、耳元で呟いた。
 
「答えは?」

彼の髪をゆっくり撫でる。よろしくお願いします、と言うと。彼はへらりと微笑んで、そのまま目を閉じた。
え?うそ?寝た?この状況で???