54.ちかいのことば

「おかえり」

コナンくんを見送った後、閉店後のポアロに入った。時間的にも、奥で安室さんが片づけをしているだろうと思って。思った通り、彼は帰り支度をしていた。

「ここに寄ると思ったよ」
「一緒に帰れるかと思って」

安室さんはなんでもお見通しだ。正面の入り口のカギが閉まってなかったことも、私が来るだろうと見越してのことだ。戸締りをして、一緒に裏口から出る。明日の朝の当番は私なので、その場で鍵を預かった。そのまま安室さんの車に向かい、助手席に乗る。

「カレーですか?」
「匂いが移っちゃてます?恥ずかしい」

狭い車内だとわかりやすいのだろうか。一発で当てられて恥ずかし。カレーの香りの女を乗せて走るのはどんな気分だろう。

「あの大学院生ですか」
「院ってすごいですよね。わたしも行けばよかったかな」

そんな学費を払う余裕があった良かったけど。そういえば奨学金はどうなったんだろう。返済を終えてなかったような。

「どんな話を?」
「世間話ですよ。ここに引っ越す前はどこに居たとか、そういうこともぼんやり聞かれたので、いつも通りに答えました」
「そうか」

しばらくの沈黙があった。何か話題を振った方がいいのだろうか。それとも彼は何かを考えているのだろうか。邪魔にならないように黙っていたほうが良いのだろうか。

「僕はあの院生のことをあまり良く思っていない」
「めずらしいですね」
「誰にだって気にくわない人間はいるさ」

君もそうだろ?と返されて、返事に困る。気にくわない人間か。居たと言えば居た。もう居ない。正しくは、苗字名前にとって気にくわない人物は"まだ"出会っていない。遭遇した事件の犯人は全員逮捕されているし。適当に相槌を打っておけばよかったものを、返答が遅れた。君には居ないのかと安室さんが表情をゆがめた。思わず謝ってしまった。

「とにかく、僕が言いたいことは」
「これからは極力関わらないようにします」
「ありがとう」

彼の言うとおりにする。カレーをごちそうしてくれただけの沖矢さんには申し訳ないけど、今後会うことはないのだろうなと思った。

家で入浴を済ませ、ソファーでだらりと寝転ぶ。まだ11時だ。12時半には寝る。1時間半も自由時間がある。このだらだらしている時間が何よりも好きだ。時間を無駄にしている感じ。安室さんが髪を乾かし終えてリビングニ戻ってくる。寝転ぶ私を見下ろして、呆れたように笑う。

「ぼくら、一応婚約してるんだけど」
「外ではそうですね」
「でもちゃんと恋人でもあるはずさ」

そう言って彼は私の上に覆いかぶさってくる。顔が近い。綺麗な顔だ。思わず視線を下に逸らしてしまう。そういう流れか。

「今は、安室さんではないんですね」
「そういうこと」

部屋着の裾から彼の手が侵入してくる。擽ったくて身をよじる。慣れない。心臓が3つあるのかと思うほど爆音で鳴ってるような気がする。

この人が私を本当に恋人にするとは思わなかったし、今も現実味がない。恋人だとハッキリ言われたのは、あの夜以来だ。必死こいて表情を崩さずに答えたけど、頭の中は大パニックだ。
どうしてわたしを求めてくれるんだろう。本当の彼の、言葉通り受け取るのであれば降谷零の恋人になったということだけれど、理由が全く分からないし現実味もない。

「指輪」

私の手を取って、指輪に触れる。そのままスルスルと外されてしまった。そして顔のすぐ前に翳される。

「内側の数字、読んで」

よく目を凝らすと、確かに小さく数字が彫られている。気付かなかった。

「ゼロ?」

口にしてから気付く。これって、彼を表す数字だ。この指輪をもらったとき、私はただ安室透の婚約者役だったはずだ。わざわざこんな数字を入れる理由がない。仕事が終わったらすぐに消える関係だと思ってた。そう思っていたのは私だけだったということで良いのだろうか。そんなことが本当にあるのだろうか。

「漢字だと、レイと読むんだ」

指輪は再び彼の手により私の指に戻ってくる。その数字が、音が、どんな意味を持つかを知らされていないうちは、口に出すことができない。もどかしい。何もかも知っていますと言えたらどれだけ楽だろうか。言えるわけがない。

「この指輪を手放さないと誓ってくれ」
「、誓います」

この婚約指輪は安室透を通して国のお金で用意されているのだろうと思っていたけど、もしかしたら違うのかもしれない。私の思い上がりでなければ、これは安室さんからではなくて、降谷零からの贈り物なのかもしれない。婚約って言ったのも、私を側に置いておこうとした理由も、事情も、もしかしたらなんて思ってしまう。聞けない。聞きたい。知りたい。

「何があっても、どんなに時間が経っても、この指輪を持つ限り、僕は君のもとに帰るよ」

気が付けば、涙が頬を伝っていた。彼の大きな手でゆっくり拭う。

「今後、そう遠くないうちに、しばらく帰れないことがあるかもしれない。もしかしたら、安室透が居なくなるかもしれない。それでも僕はここに帰るから、待っているように」

それってどういうことですか。聞きたかった。聞けなかった。