62.ありがとう愛してる

いつも通りお風呂に入って、いつも通りゆっくり寝た。そして翌朝もいつも通りぱっちりと目覚めたということは、

(守ってくれたんだ)

彼の仕事も活躍も功績も、人々に知らされることはない。私も知らないはずなんだ。ありがとうを言いたくても言えない。
朝食を摂っている間に流し見したテレビのニュースで、サミット会場爆破事件の犯人が逮捕されたことを知った。人工衛星がぎりぎりのところで軌道をずらし、東京湾に着水したことも知った。めでたいことに、私の予想は外れ、エッジオブオーシャンに大きな被害はなかった。警視庁に落ちると言われたはくちょうは、のちにエッジオブオーシャンに落ちそうになって、着水する前に施設を掠めて建物のワイヤーをいくつか破損させたらしい。本当にギリギリだったんだ。すごいことだ。
 

今日も安室さんの代わりに出勤する。もし私が居ない間に帰ってきても大丈夫なように、冷蔵庫にごはんありますと書置きを残した。
お昼を過ぎた頃に、安室さんがポアロに来た。しばらくは忙しいだろうと思っていたので、驚いた。

「すみません名前さん。ここからは代わります」

わかりましたと返事して、その旨を梓さんに伝える。じとりとした視線を安室さんに送りながら、安室さんって自由な人ですねとつぶやいた。私は苦笑いしかできなかった。

「じゃあ、お先に失礼します」
「お疲れ様。代わってくれてありがとう」

ポアロを出る前に彼にかけられた言葉。わたしもお疲れさまとありがとうを言いたい。言える日は来るだろうか。できれば来てほしいものだ。あなたのおかげでわたしはこうして幸せに生きているんだと伝えたい。

「今日は?」
「多分帰れる」
「はい」

短いやり取りだけど、それで十分だ。彼が家に帰ってくる。にっこりと笑って奥に居る梓さんにも挨拶した。そのままポアロを出ると、なぜか安室さんも出てきた。いや働きなよと思ったけど、彼はいくつかのサンドイッチが乗ったお皿を持っていて、毛利さんのところに行くのだと分かった。私が帰り支度をしている間に作ったのだろうか。

「見ての通り、片手が塞がっていてね」
「結構な大皿ですね」
「申し訳ないんだけど、君からしてくれる?」
「何をですか?」

話の流れが読めない。お皿を持っていない方の腕を緩く広げて立っている。なんだこれ。

「抱きしめて」

えっ ここで?

確かに婚約者役だし、実際に恋人でもあるし、私からプロポーズ(?)もした。しかし、実際私たちの接触は少ない。互いに大人だし、彼は忙しいし、もともと他人として同居していた時の距離感のままだ。ほんのたまにキスしたり、同じベッドに入ることはあるけど、それくらいだ。いつも触れてくれるのは彼の方で、私から触れることは少ない。ましてや日中、人の目もあるこんなところで、そんなこと。わたしが絶句していると、安室さんはおかしそうに笑って、嘘だよと言った。嘘って、なに。私がモタモタしてたから、この人ははぐらかした。なんだか無性に悔しいと言うか、何だろう、この気持ちを何と呼ぶのだろう。悔しいし、寂しいし、恥ずかしいし、嬉しい。
くるりと背を向けて、毛利探偵事務所の方へ歩き出そうとした彼の広い背中に思いっきり抱き着いた。ポアロの人に見られてもいい。何だっていい。彼の背にぺったりと引っ付いて、目を閉じる。あたたかい。心臓の音が聞こえる。

「これでいいですか?」
「うん。でも、顔が見たい」

片手でするりと抜け出されて、彼が私の方に向き直る。もう一回と言うので、今度は素直に抱きしめた。

「今日は早く帰るから」
「わかりました」

ゆっくりと彼から離れて、じゃあ、と言って別れた。初めて彼氏とハグした高校生くらい気分がブチ上がった。恥ずかしさもあったはずなのに、どこかへ飛んで行ってしまった。安室さんが私に甘えてきた。甘えたと言えるレベルではないかもしれないけど、あの人が私を求めている。それだけで心臓は高鳴るし、世界中の誰よりも幸福だと思えるのだ。

(先にお風呂入っちゃお)

暫く帰ってこないと思ってたし、色々と手入れをしなければならない。二人きりの時間に向けてのことだ。先日買ったばかりの香水も開封しよう。少しでもかわいいと思われたいし、きれいだって感じて欲しい。

(そういえば)

安室さんを好きになってから特に身なりは気を遣っているし、お金もかけているつもりだけど。安室さんに一度でもかわいいとかきれいだとか口にしてもらったことがないような。それどころか、

(好きって言われたことすらない)

衝撃の事実に気が付いてしまって、立ち尽くす。よくよく考えたら私も好きだと言ってない。これが大人の恋ってやう?いや、違う。口にしなくても伝わってる。あの人は私をとっても大切にしてくれるし、側に置きたいと思っていてくれるようだし、それってつまり好かれてるってことでしょう。それで十分だと思っていた。だけど、今、欲が出てしまった。

(好きって言われたい)

そのためには、まず私があの人に好きだと言葉で伝えることが重要だ。今日は頑張ろう。色々な意味で。