68.最後のキスはエビチリ味

気付けば、何もかもを手に入れていた。名前も経歴も作られた物だけど、贅沢な暮らしをして、アルバイトだけど仕事も楽しいし、コナンくんや蘭さんたちを友達と呼んでいいのなら、友達もできた。なにより、愛しい人がいて、愛してくれる人がいて、幸せだった。苗字名前になってから、わたしの人生は好転した。大切な人からもらった婚約指輪も、悪戯心(?)からどっさり渡されたプレゼントも、どれもこれも宝物だ。例えばもし、苗字名前は死んだことにして、次の人生を送ってくれと言われて、以前のように頷けるだろうか。前の暮らしに未練などなかった。だけど、この人生は捨てられない。大切なものが多すぎる。わたしは幸せだった。

冬が終わり、春が過ぎ、梅雨の季節。雨ばかりの日々。なんとなく気分も落ち込む。最近安室さんはとっても忙しそうで、週に一度くらいしか帰ってこない。ポアロのシフトもほぼ入っていない。仕方ない。わたしは何も知らされていないけど、本職の方が忙しいのだろう。どうせ明日も雨だからと夜のうちに洗濯機を回して、濡れた洗濯物を乾燥機に投げ入れた。リビングに戻るとき、玄関が開いて、安室さんが帰ってきた。

「ただいま」
「おかえりなさい。濡れてる!タオル持ってきます」

駐車場からマンションまでの短い距離、傘をささずに歩いたようだ。結構な大雨だったから、短時間とはいえそれなりに濡れている。あわててタオルを持ってきて、彼に渡す。

「ありがとう」
「傘持って行きませんでした?忘れたんですか?」
「ああ、本庁に置き忘れた」

この人が言う本庁とは、警察本部のことである。もともとそんなにひた隠しにしているというわけじゃなかったけど、最近は特に本職に関する単語がぽろりと溢れる。そのたびに、なんとなく、準備をしなければと思うようになった。考え過ぎかもしれない。でも、安室透が終わる時が来るのかなって、そう思った。

「先にシャワー浴びてくるよ」
「お腹空いてます?」
「めちゃくちゃ空いてる」

彼が浴室に消えていったので、わたしはキッチンに立つ。エビチリを用意しておいて良かった。安心と信頼のクックドゥだ。どう頑張っても美味しくなる魔法の調味料だ。わたしが一人でバカほど食べようと思って大量に作ってある。サラダとエビチリと白米、作り置きの牛蒡の金平を盛り付けた。シャワーを終えて髪を乾かした安室さんが座る。わたしも料理を出して座る。いただきますと言って食べ始める。わたしがサラダをモサモサ食べてるうちに、大皿に出したエビチリと大盛りにした白米はどんどんなくなる。めちゃくちゃ食べてる。お腹空いてたんだね。無くなりそうと思ったのでわたしも小皿に自分の分のエビチリを取り分けた。

食べ終えて、お皿を片付けようとしたら、安室さんに止められた。片付けは安室さんがやってくれるそうだ。ありがたい。お皿を下げた後に再び椅子に座り、わたしたちは向かい合う。真剣な顔で安室さんは口を開いた。

「君と会うのは今日が最後だ」

え?クックドゥのエビチリを大量に食べた後に、わたし、振られた?ぽかんとしたまま彼の瞳を見つめた。わたしの間抜けな顔から、何を考えているかすぐにわかったのだろう。彼が説明する。

「別れるとかの話じゃない。安室透として君に会うのは最後だってこと」
「安室透として、てことは」

それ以上わたしは何も知らないはずなので、口を閉ざした。わたしと出会った日、彼が扮していたバーボンが所属する犯罪組織を終わらせる日が来たということだろうか。

「君のもとに帰ってこれるのが、いつになるのかわからない。1ヶ月後かもしれないし、3ヶ月後かもしれない」

1ヶ月も3ヶ月も彼がいない生活なんてしたことない。いつかはこうなると知っていたのに、なんだかショックを受けているわたしがいる。彼の仕事が、ようやく身を結ぶということだから、とてもいい話のはずなのに。この幸せな生活が変わっていくのが、少し怖かった。わたしという人間は身勝手だ。

「絶対に名前のところに帰るよ。約束する。待っていてくれるね」

問いかけじゃない。確認だった。確定事項だ。待っていてくれるねと言われたら、待つしかない。言われなくても、待つしかないのだけど。
静かに頷く。今日が安室透と過ごす最後の夜なんて、実感がない。最後の晩餐がクックドゥのエビチリだった。このあとすぐにキスをしたから、エビチリの味がした。