いつのにか周囲の人への挨拶を済ませていたらしい安室さんは、あっという間に姿を消した。大きな仕事を理由にしばらくこの土地を離れるからと説明したようだ。当然というように、いつの間にかコナンくんも海外の両親の元へ帰ることになり、消えた。
およそ1ヶ月後、ポアロに工藤新一くんが来た。制服姿で、蘭さんと鈴木さんと一緒に3人で。カウンターに座り、わたしに話しかけてくる。
「初めまして、工藤新一です」
「苗字です。確か大きな事件があるって、暫くここを離れてたんですよね?蘭さんと鈴木さんから伺いました」
「よーやく!漸く帰ってきたのよ!蘭がどれだけ心配してたことか」
「ちょっと、やめてよ園子」
キャイキャイ楽しそうに話す高校生が眩しい。幸せそうだ。彼はもう堂々とアイスコーヒーを注文する。周りの目を気にして甘いジュースを頼まない。
「そういえば、安室さんは?」
鈴木さんが聞く。蘭さんと工藤くんもちらりとわたしを見る。少し考えて、時々連絡が来るよと答えた。嘘だ。音沙汰なし。安室透と連絡を取るときに使っていたメッセージアプリのアカウントも消えていた。1ヶ月か3ヶ月か、いつになるかわからないと言っていた。まだ1ヶ月しか経ってない。
「婚約者を残して遠くに行っちゃうなんてね」
「仕事だから仕方ないんだよ。ね、工藤くん」
「えーっと、うん、そうそう。探偵ってのは色々あんだよ」
突然話を振られて少し慌てる様子が可愛い。工藤くんは、安室さんが今どこにいるかも、どういう状況なのかも知っているのだろう。そしてきっと、わたしと連絡をとっていないことも、わかっているはず。悪い子だなあ。
そういえば、と思い出す。彼がまだコナンくんだったとき、わたしは工藤くんのお家に上がったことがある。一度だけ。あのとき会った沖矢さんとは、あれきりだ。工藤くんが帰ってきたとなれば、あの人はどうなったんだろう。
「沖矢さんって、工藤くんのお家にまだ下宿してますか?」
「それが、昴さんは留学しちゃって」
答えたのは鈴木さんだ。工藤くんは頷くだけ。アメリカの大学に留学して研究を進めているらしい。そうなんだ。だからもうあの家にはいない。タイミングがいいことだ。
(安室さんもコナンくんも消えたタイミングで留学って、怪しいなあ)
今更探るつもりも知るつもりもないけど、もしかすると沖矢さんも彼らと同じように犯罪組織を倒そうとしていた一人なのかもしれない。そう思った。
「工藤くんといい、安室さんといい、探偵ってどうしてこうなのかしら。一途な女を待たせておいて、勝手よね」
鈴木さんの言葉に、工藤くんは顔を背ける。少し拗ねているような顔だ。彼からすれば好きで縮んでたわけでもないしというところだろうか。安室さんだって、探偵じゃなくて本職のお仕事で今は行方を晦ませているのだ。しかしそれを知る人間はいないし、話してはならないことだから、誤解をそのままにしておくのだろう。
「本当にね。婚約してから随分時間が経っちゃった」
彼に貰った指輪を見る。きらりと輝いている。内側には彼を表す数字が刻まれている。この指輪を見ると頑張れる。あの人が必ず帰ると言ったから、それまで待つことができる。あのマンションで、一人きりの夜も、怖くない。
「そうだ。苗字さんの連絡先教えてくださいよ」
「え?わたしの?」
工藤くんがスマホを取り出す。聞かなくても知ってるでしょなんて空気の読めないことは言わなかった。
「ごめんなさい、仕事中は携帯をロッカーに入れてるの。コナンくんと連絡とってるんですよね?あの子が知ってるから」
「こ、コナンね。あいつに聞いておきます」
コナンくんの名前を出すと狼狽る。小学生の姿だったときのことを思い出して、つい可愛く見えてしまう。もう夜道でも手を繋がなくても大丈夫なくらい大きくなった。あっという間すぎて笑える。とにかく、蘭さんも工藤くんも幸せそうで嬉しい。一つや大きな犯罪組織に巻き込まれて大変な思いをした子たちだ。今後の人生は何一つ苦労なく生きてくれたらいいのにな。
三人が店を出るとき、最後に扉を潜る工藤くんがわたしにこっそり囁いた。
「あとで連絡します」
退勤後、帰り道。歩いている最中、知らない番号から着信があった。工藤くんだろうか。
「はい」
「苗字さん?工藤です」
やっぱりそうだった。
「突然すみません。今から会えませんか?」
「今から?」
普通に考えれば、一度来店しただけの男子高校生に誘われるなんておかしなことだ。ホイホイついていく方が変だ。だけど彼はコナンくんだ。コナンくんとは何度か二人きりで秘密の話をした。それの延長線上なのだろう。大丈夫と返事すると、迎えに行くから場所を教えて欲しいと言われた。よくできる高校生だ。ちょうど駅の近くのコンビニの前だったので、中で待つと伝えた。
暫くして、コンビニに工藤くんが入ってきた。アイスコーヒーを2本買った。一本渡す。
「ありがとうございます。行きましょう」
「どこに?」
「僕の家です」
そうサラリと言って、工藤くんは歩き出した。この子はまだ自分がコナンくんだったときの感覚が抜けきっていないようだ。蘭さんに誤解されたら嫌だな。一つため息をついて、彼を追った。