73.早すぎる降参

起きた。10時だ。5時間しか寝ていない。当然外は明るい。安室さんがまだこの家にいるかどうかわからない。いて欲しくない。居ないで欲しい。待ち望んだ再会なのにこんな形になるなんて最悪だ。もう一回寝よう。二度寝。

起きた。時計を確認する。14時。まだ寝れる。三度寝。

起きた。17時。日が傾いてきた。そろそろお手洗いに行かないと大惨事になりそうだ。ずるずるとベッドから降りて、扉の前からずらす。少しの隙間さえ出来れば出入りできる。寝起きで力の入らない腕でどうにか動かして、お手洗いに向かった。家の中に人影はない。良かった。
色々と済ませてから部屋に戻る。途中、玄関を確認したら、彼の靴は無かった。ホッとする自分と、なぜか寂しいと思った自分が居た。いやいや、今のわたしは喧嘩中だから。めちゃくちゃキレてるから。寂しいとか思っちゃダメだから。そう言い聞かせて、台所から未開封のペットボトルのお茶を持ち出し、自室に置いた。今夜帰ってきたらまた篭城するつもりだ。部屋にもお手洗い欲しい。

あまり食欲はないけど、鎮痛剤を飲むために何か食べなければならない。料理する気力はない。以前買って冷凍してあったフランスパンを解凍して、上にチーズを乗せてトースターで焼く。その間に立ったまま紙パックの野菜ジュースを飲んだ。お皿を出すのは面倒なのでシンクの上でパンを食べて、手を洗う。これでお皿洗いする必要もなくなった。

鎮痛剤を棚から出しているとき、玄関の扉が開く音がした。17時半。早すぎる帰宅だ。薬を持って急いで自室に戻る。ドアの狭い隙間から無理矢理自室に入った。扉を閉めて、ベッドを力一杯押してドアが開かないようにする。何やってるんだろう。子供の時ですらこんな反抗期みたいな真似したことない。なんだか自分じゃないみたい。こんなに感情がぐちゃぐちゃにされるなんてこと、体験するとは思わなかった。相手が安室さんだからだ。他の人にどんな風に思われても構わなかった。誰に何を言われようとも、腹は立つけど、すぐに忘れてしまう。わたしにとってどうでもいい人にどう思われようが何の痛手にもならない。でも、安室さんはどうでも良くない人だ。唯一と言っていいかもしれない。わたしはこの人に愛されていたいし、信じられていたい。それが揺らぎそうで、とっても悲しくて、寂しくて、こうやって反抗期の子供のように部屋に篭って、駄々を捏ねている。

突然、扉がノックされた。安室さんだ。

「名前、話したい。あけてもいい?」
「ダメです」

話したいって言われて嬉しかった。いつまでもこのままでいられるはずも無いし、私たちは話し合うべきだ。それなのに、口から咄嗟に出た返事は拒絶だった。自分でも驚いた。わたしは彼を困らせてどうしたいのだろう。こんなことばかりしていたら愛想を尽かされても仕方ないのではないだろうか。自分で自分が嫌になる。

「昨日のことは僕が全部悪かった。八つ当たりだった。君を傷つけたことを謝りたい」
「全部って?悪いと思ったところはどこ?ちゃんと言葉にしてください」

ごまかさずに言って欲しい。わたしが何に腹を立ててるか全部わかってくれていなきゃ嫌だ。そう思って発した言葉だった。わたしならこの言葉にも腹が立つ。短気な性格だ。安室さんが短気でありませんようにと祈っている。わたしが怒っているはずなのに、怒られたくないと思っている。本当に子供みたい。

「何もかもだ。まず君を疑ったこと、信じていなかったこと。到着時間を誤魔化して君を騙すような真似をしたこと。ありもしないことを問い詰めたこと。君が出て行った後も追わずに様子を見ていたことも」
「全部もう誤解だってわかってます?」
「もちろん。僕が全面的に悪い。だから顔を見せて欲しい。お願いだ」

彼がそう言ってくれて、ぐちゃぐちゃになっていた心がするりと整った気がした。なんて単純なんだ。開けていいよ、と口からこぼれたけど、ドアノブがくるりと回って扉が少し動いたところで、開けられるような状況じゃないことに気付く。わたしとベッドが邪魔をしているんだ。

「開かないんだけど」
「ごめんなさい、わたしが」

邪魔してる、と言う前にぐらりと揺れる。え?
ドアが強すぎる力で押されて、わたしとベッドも押されている。え?え?!力強すぎる!

「これ以上はドアが壊れそうだ。出てきてくれる?」

残された答えは一つしかなかった。
短い篭城が終わった。