75.言い訳はたくさんできるんだよ

呆然とする名前の前で家を探った。もし他の男が出入りしていたら、その形跡があるはずだから。無ければ良いと願いながら探した。名前は珍しく大きな声で、そんなものはないと怒った。誰だってそう言うだろう。普段の冷静さとは違う、感情の昂った様子に不信感が増した。考えたくない。

「この時間で家にいるのに都合が悪いみたいだったし、実際どこかに行こうとしてた。僕に突然来られたら困ることでもあったんじゃないか?」
「外に出たのはコンビニに行くためです。そもそも20分って連絡してきたのに10分も早く着くなんて」
「証拠を隠されないために時間をずらした」
「初めから疑ってたんですか?信じられない!」

ああそうだ、初めから疑っていたさ。信じられないだろう。僕だってそうだ。どうしてこんなに不安になるのか。名前の怒った姿を初めて見たかもしれない。彼女は自室に行ってしまった。疲れた頭でその後ろ姿を見送った。
そう時間もたたないうちに、名前は大きめの鞄を持って部屋を出てきた。僕の方を見向きもせずに、玄関へ向かう。

「どこに行くんだい」
「家出します。どうぞ私の部屋も隅々まで探してください。ご自由に」

そう言って本当に家を出て行ってしまった。このとき僕は彼女を追いかけて、抱きしめて、疑ったことを謝って、行かないでと言うべきだった。それなのに、家を出た先で僕の知らない誰かと会うのではないかと思ってしまった。後を追って、店に入った名前をずっと見張って、男が来るのを待っていた。名前も明らかに誰かを待っていたようだし、これはもう黒なんだと思った。ずっしりと心が重くなる。僕がいない間が長すぎた。7ヶ月も連絡もない男に愛想を尽かすのも当然だ。いっそのことハッキリ言ってくれ。いつも本当のことを言えなくて、偽ってばかりの僕なんてもう待ってられないって、誤魔化してばかりの男なんて信じられないと言ってくれ。そうすれば君も僕も二人で一緒に悪者だ。

数時間、誰も訪れることなく、彼女はそこから動かなかったが、4時過ぎにようやく店を出た。後を追う。見慣れた道を通っていく。僕らの住むマンションに着く。帰ってきたのか。名前の鍵は僕が持っているから、彼女はエントランスでインターホンを押していた。出るわけない。僕はここにいるのだから。背後からゆっくり近づいて、鍵を開けた。

「帰ってきたんだね」

二人、無言のまま部屋に戻る。何をしているんだろう。どうして彼女は帰ってきたのだろう。リビングでソファーに体を預けて休んでいると、名前が薬の入った棚から鎮痛剤を出していた。

「どこか痛むの?」
「生理痛です」
「だから帰ってきたのか」

そうじゃなかったら帰ってこなかっただろう?そういうつもりで彼女に言った。彼女は反応しない。僕の言葉を無視して自室に向かった。それが悔しくて寂しくて、追い打ちのようにまた口を開く。

「店で男の迎えを待ってたのかと思ったけど、来なかったね」
「はあ??」

名前を追い詰めるために言ってるはずなのに、追い詰められていくのは自分だ。自分は名前の唯一だと思っていた。名前が僕から離れるはずがないと思っていた。名前の綺麗な瞳に写るのは僕しかいないと思い込んでいた。傲慢だ。時間は有限だ。彼女の背を見つめた。もしかしたらもう戻れないのかもしれない。彼女のもとに帰ると決めていたけど、帰る場所があるとは限らない。
くるりと名前が振り返り、口を開く。声は震えている。

「私が!私が待ってたのは、あなたでした!」

ぽろりと涙が落ちたのを見ていた。その瞳は怒りと悔しさと、悲しみが浮かんでいる。時が止まった気がした。引き止める前に彼女は自室に篭ってしまった。

そうだ。名前は嘘をつかない。冷水をぶっかけられたように、頭も体も熱が引いていく。焦っていた。自分の不甲斐なさから、自信がなくて、名前の言葉を疑って、彼女を傷つけた。僕が泣かせた。このままではいけないと、鍵を持って家を出た。頭を冷やそう。誰かに話そう。お前が悪いと言ってもらいたい。僕が悪者だ。


車で仮眠した。本庁に戻り、シャワーを浴びて、昼過ぎに工藤くんの家に向かった。

「あれ?降谷さん、帰ってきたんですか?」
「まあね」
「名前さんには会いました?あ、すみません、上がってください。なんの用意も無いですけど」

工藤くんにはここ数ヶ月、名前の様子を見てもらうようにお願いしていた。彼女は不幸なことに巻き込まれやすいと思っていたから、何かあれば助けになってもらいたかった。時々共に食事をして、近況も報告してもらっていた。その彼に、僕は昨夜から今朝にかけての出来事を話した。僕が名前の浮気を疑って酷く傷つけたことを。

「いや、有り得ねえ、名前さんが可哀想!あの人に他の男?無い無い!直向きに降谷さんのこと待ってたってのに酷え言いがかり!」
「君もそう思う?僕もそう思う。どうしてかな。名前の様子が少しおかしかっただけでさ、変なことまで考えて。僕が先日部下にそういう目で見られてたってわかったから、焦りもあったんだ。名前のことを知って好きにならない男なんていないだろ?」
「それは知りませんけど。惚気なら聞きませんよ」

思えば思うほど、自分がいかに馬鹿だったか思い知る。一番近くで見ていてくれた工藤くんですら名前は僕を待っていたと言う。名前も涙ながらに訴えたその事実を、嬉しいと受け止めつつ、自分の情けなさに胃がズシンと重くなった。

本庁での仕事を急いで終わらせて、普段より1時間以上早く家に向かった。名前はどうしているだろうか。悪いけど、彼女の使っていた鍵を持ってきたから、彼女が家を出ることはないだろう。僕らが住んだ家を施錠できない状態で出ていけるような人じゃない。リビングに入ると、誰もいなかった。名前の室の扉は閉まっている。

今日はもう間違えない。ちゃんと彼女に謝って、しっかり向き合って、話すんだ。一度深呼吸して、扉をノックした。