*小説 info アネモネ


角砂糖

かつてこんな感情を抱いたことがあっただろうか。

「れーはね、やっぱふわふわが一番すき!」
「俺はいつものかな」
「へ〜…おっけ〜!」
いつものパンケーキ屋の店内で、零衣はにこっと笑うと席から立ち上がった。
「じゃあ、れ〜はこれと紅茶のアイスね!お花摘んでくるから頼んどいて!」
小動物みたいに愛くるしく、ころころと表情を変える俺の恋人は、ひとしきりはしゃぐとそのまま後ろに歩いて行こうとする。
「零衣」
「ん?」
「トイレあっち」
肩越しに振り返った零衣に反対方向を指差してあげると、てへと照れ笑いして零衣は今度こそ正しい方向に消えていった。
変なのと思いつつ、入れ替わるようにやってきた店員に生クリームと苺がたっぷりのったパンケーキと、リコッタチーズのパンケーキと、紅茶とコーヒーを注文した。

零衣と付き合ってから毎日が充実している。
自分が誰かを等身大で受け入れたり、受け入れられたりしたことが不思議で、未だに夢なんじゃないだろうかと現実を疑うばかりで、目まぐるしい速度で変わっていく毎日に追いつくことに精一杯な最近だが、変わらず零衣はいつも一緒に出かけてくれる。
零衣は自分で言った言葉にとても忠実で、ある意味不安を与える隙も無いぐらいに俺に愛情を注いでくれている。
誰にでも好かれる零衣が自分にだけ特別な表情を見せてくれた時、どうしようもないぐらいの安心感と慈愛にも似た感情が生まれることに少しは気付いていたが、まだ認めるには気恥ずかしかった。
「おまたせ〜」
笑顔で帰ってきた零衣は薄紫色のハンカチで手を拭きながら着席した。
「織くん今日授業どうだったぁ」
「今日か?いつも通り変わりなかったな。零衣は?」
「ん〜?れ〜はね、今日はとってもいい日だしもっといい日するの〜」
にこっと嬉しそうに笑う零衣につられて思わず口元を綻ばせた。
子供みたいに無邪気な様子は見る者の気持ちを綻ばせる。
もしかしたら保健室でいいことがあったのかもしれない。
時々見せる真剣な様子もたまに弱って悩む姿も、全部まとめてこの男を好きにさせられたのだと思うと、改めて凄いなと思わざるを得なかった。
本人に伝えることは少々気恥ずかしいのだが。
結局惚れた弱みでそう思ってるのか、冷静に判断した結果そう見えてるのかもう自分でも分からなくなってしまっている。
ふと零衣の方を見ると、顎に手を当てて何かを真剣に考えているようだった。
その大人びた表情はあまり見ないもので、少しだけ見入ってしまった。
「零衣?」
何度目になるのか、その名前を呼んでみると、ふと顔を上げて口許だけでにっこりと優しく微笑みを返してくれた。
「…ん?…パンケーキってどれぐらいのお砂糖が入ってるのかなぁって考えてたの」
「さぁ…大匙で…どれぐらいだろうな」
答えられたら良かったのだが、生憎料理のレシピは頭に入っていない。
「ふふ」
にこにこ笑って零衣は鞄からペットボトル飲料を取り出した。
「例えばさ、れ〜の好きなこの紅茶のペットボトルには実はお砂糖が8個も入っています」
そのまま反対の手で砂糖の小瓶の蓋を取った。
白い角砂糖が沢山見える。
「例えばオレンジの炭酸のやつならお砂糖が16個も入ってるんだよ。多いでしょ?」
「あ、ああ…」
突然真面目な話をし始めたかと思えば内容は雑学の甘い話で、零衣から内容が理解できる話が飛び出すと思っていなくて頭が混乱してくる。
「でも体に悪いって知ってても飲んじゃう。ねっ?」
ペットボトルを自分のほっぺに持ってきてあざとく笑う姿はそのまま写真になりそうなぐらい可愛らしくて、俺は黙って話を聞くことがしかできなかった。
「だからぁ、可愛いパッケージに包まれてたらほんとの姿は見えないし、仮に知ってても美味しいから手に取っちゃうってこと!」
嬉しそうに話を切り上げると、零衣はペットボトルと小瓶の蓋を元の位置に戻した。
その様子をただ見ていることしか出来ないでいると、テーブルに焼きあがったパンケーキと飲み物が運ばれてきた。
「今のれ〜ちょっと賢かったでしょ!ね、超美味しそうじゃない?お腹すいちゃったぁ」
満面の笑みを浮かべる姿はいつもの零衣だ。
違和感にその時気付く事も出来なかった。
多分、俺の常識の中にはそういう選択肢が元々抜け落ちていた。

「織くんあーん」
「ちょ、人前だぞ」
零衣にフォークを差し出されたが、断る事も出来ず結局パンケーキをそのまま口に入れてしまった。
零衣の食べているパンケーキも柔らかくて自重で潰れてしまいそうなぐらいふわふわしていて美味しい。
真似事のようにフォークとナイフでパンケーキを切り分けて無言で差し出すと、零衣はパクッとパンケーキを頬張って笑顔を浮かべた。
「美味しいよ」
微笑む顔にほっとする。
「れ〜とパンケーキ食べるの好き?」
「ん?ああ」
答えながらもぐもぐとパンケーキを味わう。
「れ〜とパンケーキどっちが好きなのかなぁ?」
水色とピンクのガラス玉みたいな瞳がこちらを覗いてくる。
「それは……悩ましいけど、零衣だろ」
パンケーキは我慢すればギリギリいいが零衣がいないのは堪える。
そんな事を考えて惚れた弱みだなと小さく苦笑しそうになる。
「そういう零衣はどうなんだよ」
俺はちらりと見て照れ隠しのようにパンケーキをまた切り分けた。
「ん〜〜内緒だよ!そんなの言わなくても分かってんじゃん!」
そう言って零衣は、花が咲いたような笑顔で、笑った。

お会計を終えいつものように隣に並んだ零衣は俺と比べるとふた回りぐらい小柄で、たまにいくつなのか分からなくなる錯覚に陥る。
はしゃぐたびにぱたぱた手を動かしながら駆け寄っていく様も、少し丈が長くて手元が隠れている袖も、どれも零衣の可愛さを引き立たせる要素になっている。
こうやって見ていると本当に子供のようなのに、時々見せる雄の表情のギャップにどきどきしてしまうのもまた事実だった。
繋いだ手に感触が分かるようにふにふにと軽い力を込めて指で弄ばれると、無言で少しその手を握り返した。
「織くん手おっきいね」
「そうかな?平均だと思うけど」
むしろ零衣の手が小さいんじゃないだろうかと思ったが口には出さなかった。
病的なまでに色白いその手の感触をしばらく無言で確かめていた。
人気の少ないアパートの側を抜ける時、角を曲がったところで不意に零衣に引き留められた。
そのままトンと繋いだ手を優しく壁に縫い付けられる。
「織くん、ホテル行きたいな」
そう言って優しく微笑まれた。
なんだか今日の零衣は大人っぽくて見ているこっちがどきどきしてしまう。
もう最近は零衣の誘いを断ることなんてほとんど無くなっていた。
零衣は必ず欲しいものをくれるし、俺の体調を最大限気遣ってくれるから負担ではない。
顔を赤くしながら俯き気味にこくりと頷いた。
「特別な日にしてあげるね」
「ん…」
零衣には身を任せるのが1番いいと分かっている。
今日ぐらいは少し素直になろう、とひっそりと心に誓った。

今日はやけに静かだな、と思った。
ホテルに向かう間、零衣は特にはしゃがず落ち着いてエスコートしてくれた。
普通はそれでいいと思うがあの零衣だぞ?
いつもなら調子が良い時は自作の織くん大好きソングなんかを歌い始めるし軽くミュージカルでも見てる気分になるのに。
まぁそれが恥ずかしいながら面白くもあるのだが。
だから零衣が静かだと逆に不安になる。
よく分からないまま連れてこられたホテルで、零衣は鞄を椅子に置いた。
「ほら、シャワー浴びるよ?」
そう言って手際よく服を脱ぎ始める。
「う、うん…」
慌てて零衣に倣ってベルトを緩め始める。
今日はいつもみたいに抱き締めてくれないのか…と思うとちょっと寂しかった。
全ての服を脱ぎ終えた零衣は今日はネックレスをつけておらず、そのまま風呂場へと向かっていった。
「零衣…」
慌ててその後ろをついていく。
「どうした?今日なんか静かだな」
そう言うと、零衣は裸のまま右腕に抱きついて上目遣いで見つめてきた。
「え〜?早くベッド行きたいだけだよ」
「そ、そう…?」
思わず勃ちそうになるのをぐっと我慢して、少しだけ安心する。
そういう時もあるか。
そんなことを考えながら零衣とシャワーを浴びて早々に浴槽を出た。

「今日はさ、舐めてる間だけちょっとだけ目隠しさせて…?」
「え…?」
ベッドに押し倒されて抵抗する間もなく、目元に黒い布が被せられた。
そのままそれが頭の後ろで結ばれる気配がする。
「怖くないよ、安心して」
突然視界が塞がって不安だったが、耳元で零衣にそう囁かれるとついつい大人しくしてしまう。
両手を取られ、頭の上に持っていかれると、カチャリと金属音がして、手首に冷たい感触が触れた。
「え…⁈何…?」
手を動かそうとするが、何かに引っ張られる感じがして全く動かせない。
「暴れちゃだめだよ」
零衣に馬乗りにされる感覚がして、目元の布を取られると、急に視界が‪明るくなった。‬‬‬‬‬‬
頭の上の手元に視線をやると、手錠をつけられてベッドの淵に固定されていた。
すっと背筋が凍る。
「零衣…?なんだよこれ…」
零衣に恐怖を感じたのはこれが初めてだった。
「ん?拘束」
あどけない表情で言う零衣に益々恐怖を煽られる。
何も出来なくて完全に体が固まっていると、零衣がようやく少し動いた。
「これでやっとそのツラしっかり拝めるな」
「が…っ⁈」
そのまま零衣に思いっきり腹を殴られた。
急な衝撃に理解が追い付かなくて息が止まりそうになる。
「織くん、あのさ…………大っ嫌い」
そのまま零衣に左の頰を力強くビンタされた。
頬に鋭い痛みが走る。
そこからは地獄の始まりだった。

前髪を乱雑に掴まれて無理矢理正面を向かされ零衣と目が合う。
痛みと混乱と恐怖で思考が追いつかないまま涙が滲んだ。
「おいそんな顔すんなよ。これからもっと嬲ってやんのにさぁ」
何が起きているのか理解できない。
手と髪と腹と頬と、色んなところが痛い。
目の前にいるのは本当にあの優しい零衣なのだろうか。
「言っただろ。二回言わなきゃ分かんない?織くんの事が大嫌いだって」
耳元でそう言われて、その言葉だけが酷く耳に残って肩が震えた。
今自分は恐怖を感じているのだろうか。
そのまま太腿を掴んで無理矢理足を上げさせられると、零衣のものをまだ全く慣らしもしていない後ろに充てがわれた。
「い…いやだ…!離し…っ」
この状況で何をさせられるのか流石に理解して、泣きながら首を小さく左右に振った。
逃げようにも手は拘束されていて動けない。
「お前に拒否権ないんだよ。分かってんの?大っ嫌いな織くん」
腰を掴まれると、固く閉ざされたそこに無理矢理零衣のものをズンと押し込まれた。
「っ⁈いやーーー‼い、痛いっ、いたい…‼」
今まで味わった事ない痛みを無視して押し入ってくるそれに、思わず泣き叫ぶ事しか出来なかったが、それでも零衣は濡れてもいないそこを何度も激しくピストンを繰り返す。
「うるせぇよ」
「嫌、痛いっ…いたい、れぇ…‼」
身を裂かれるような痛みに耐えてると、振りかぶった手でまたビンタされて痛みで涙が大量に溢れてきた。
こんなにめちゃくちゃにされているのに生理現象なのか身体は反応していて怖かった。
「血出てんじゃん。汚いな」
挿入で切れてしまったらしい結合部を見て冷たく言い放つその目と恐怖で、段々抵抗する力を失いつつあった。
「なん…で…?」
涙を零しながらなんとかそれだけ呟いた。
あんなに優しくしてくれたのに。
零衣は動きを止めて顔を近づけて視線を合わせると、にこっと笑った。
「最初から好きじゃなかったの」
嬉しそうに、俺の反応を見るみたいに笑顔であっけらかんと言い放つ。
「ずっとこうやって、織くんを壊せる時を待ってた」
優しく髪を撫でられたが、今は逆に恐怖が優っていた。
「そういう反応が見たかったんだよ。ねぇ…織くん」
「零、衣…」
耳元にそっと唇が寄ってくる。
過去に何度も見た優しい光景。
なのに、次に来る言葉を予想してしまって。
お願いだ、これ以上言わないでくれ。
聞きたくない…。
「大嫌いだよ」
確実に何かが壊されていく気がした。


どんなに後ろを犯しても物足りない。
むしろ苛立ちが勝ってしまう。
もっと徹底的に壊さなきゃ。
「痛い?」
聞いてみたが返ってくるのは恐怖に怯えた目と声にならない声だけだった。
かつてこんな感情を抱いたことがあっただろうか。
誰かをこんなに憎んだことが。
壊さなきゃ…。
そう思って今日までずっと耐えてきた。
お前のせいだよ。
お前のせいなんだよ。
「……」
お前さえいなければ…れーさんは変わらなかったんだよ。
舌打ちして頰を一発殴った。
生まれる前から一緒だったんだ。
俺とれーさんは。
ずっと離れることなんてなかった。
いつも一緒で、お互いがお互いの特別で、俺だけに甘えていてくれた可愛いれーさん。
愛してるって言ってくれたのに。
ずっと一緒だよって言ってくれたのに。
俺だけに甘えて俺だけの特別でいてくれたのに。
お前が現れてから全部おかしくなったんだよ。
考えるだけで思わず泣きそうになる。
お前に何が分かるんだよ。
れーさんを完全に分かってあげられるのは俺だけなのに。
冷たくなっていくれーさんの反応、俺から離れていこうとすること、返ってこないハグ。
1人だけ変わろうとしていくこと。
そのどれもが耐えられなくて辛かった。
俺にはれーさんしかいないのに。
れーさんを失ったら、どうしたら。
「う…」
気が付くと、さっきよりボロボロになった教祖の姿がそこにあった。
教室での姿は見る影もなくて、今は拘束されて力なく泣き続けている。
すっかり血で滑るようになった後ろを犯すのに飽きて、入れていたものをずるっと引き抜いた。
教祖は何も喋らずぐったりしている。
「れ〜ね、最初から織くんを壊すつもりで近付いたの」
れーさんのふりならお手の物だった。
れーさんとして、あんたのことを確実に壊してやる。
二度とれーさんに近付けないように。
「今までさ、心の底からいっぱいいっぱい優しくしたじゃん。…あれ、ぜーんぶ嘘だから」
「…‼」
少しだけ目を見開いた教祖を覗き込んで、薄く笑った。
「好きとか愛してるとかそういうの、一回も思ったことないから」
「…うそ、だ…」
まるで否定してくれと言わんばかりに縋るような目で教祖が言葉を発した。
「嘘じゃないよ。あんなの全部演技だから。騙される方が悪いんだよ?」
嘲笑うようにそう言うと黙ってしまい、代わりに教祖の目から涙がぽろぽろと溢れた。
「恋愛したことないのかな?れーのこと簡単に好きになってバカみたい。誰がお前みたいな奴好きになるかよ」
泣いてる教祖を無視して手錠を片方外すと髪を引っ張って顔を近づけた。
「お前の汚いので汚れちゃったから掃除して」
そう言って無理矢理口の中に自分のものを押し込んだ。
「ぐ、ふ…ゔ…」
頭を無理矢理押さえつけて奥まで入れると苦しそうにえづきそうになっていた。
「噛むなよ?…あと吐くなよ」
多分奥までしたことがないんだろうその口に何度も抜き差しを繰り返す。
その度に苦しそうな呻き声が聞こえたが、しばらくやめなかった。
ようやく飽きて解放してやると、教祖は口からだらだらと唾液を溢した。
気まぐれに優しく頭を撫でてあげて、小さく笑った。
「意地悪してごめんね。ほんとはれ〜、織くんの事大好きなんだ」
「……れい…?」
目に光が戻ったように、教祖はぼんやりと撫でる手を見つめている。
「…なんて言うわけないだろ。いい加減学習しろよ」
そのまま緩く首を締めると、教祖は全く抵抗する気力を失っているようでされるがままだった。
その瞳だけが哀しそうに歪んでいた。

手を離して放置すると、教祖の服のポケットから携帯を取ってきた。
感情の足りない目がその様子を見つめてる。
「ライン、早く消して」
「え…」
「お前と繋がってたくないからさっさとブロックしてって言ってんの」
すると、明らかにその瞳が悲しそうに歪んだ。
気持ちは分からなくないがここで妥協するつもりは一切無い。
「早く。会話も消してね。あとインスタもツイッターも俺と繋がってるもの全部ブロックしてくれる?お前と関わりあるとか、気持ち悪いから」
そう言って携帯を差し出すと、教祖は少し間を置いて無気力に震える手で削除ボタンをぽちぽちと押していった。
二度とれーさんに連絡取らないでね。
その様子を冷めた目で見下ろしながら、無言でそれが終わるのを待った。
パッと見てピンクのアイコンが消えていることを確認して携帯を教祖の胸に投げつけた。
「ほんと嫌い」
力を無くしたその目に文句を畳み掛ける。
「毎日毎日顔合わせて鬱陶しい。うざい。顔も見たくない」
言葉の通りだった。
ただの本音だ。
教室でも嫌でも視界に入るその存在。
いつも俺の席に来てくれていたれーさんがいつのまにか教祖のところへ行くようになってから、益々いつか復讐してやるんだという思いを強めていた。
教祖の顎を親指で持ち上げて無理矢理上を向かせた。
「二度と零衣の前に現れないで」
それはそれは多分、憎しみの篭った目をしていたと思う。
畳み掛けるようにそのまま言葉を紡ぐ。
立ち直れないぐらいめちゃくちゃにするって決めたから。
本当に、お前の事が嫌いなんだよ。
「織くん初めて恋人出来てぇ、れ〜のこと相当好きだったみたいだけど……。お前なんか沢山いるうちの1人でしかねーんだよ」
言葉が堪えたのか、教祖はぼろぼろと涙を零している。
「勘違いの癖に、一人で浮かれてろよ」
見下ろして冷たく笑う。
「あおの方が好きに決まってんだろ、バーカ」
「…ぐ、ゔぇ…」
そのまま顔を背けて、教祖はベッドサイドに吐いた。
「…汚な」
吐き捨てて、手錠の鍵で拘束を外すと、そのままゴミ箱に投げ捨てた。
教祖に使った手錠なんて捨てた方がマシだった。
放置して風呂場に行くと、性器だけシャワーで洗ってそこを出た。
部屋の嘔吐臭を無視して手早く着替えると、鞄にしまってあった青色のネックレスを首に付ける。
それからお札を数枚机に置いた。
ホテル代と言う名前の手切れ金だった。
受話器を取って9番を押すと、フロントに「1人だけ出ます」と言って切った。
「金置いとくから。お前もさっさと出ろよ。じゃあね、もう顔見せんなよ」
横たわったままの教祖を一瞥して、そのまま部屋を出た。
やっと終わった。
最初からお前がれーさんに手を出さなかったらこんなことにならなかったのに。
疲れたとばかりに自販機で紅茶を買うと、一口飲んで家に帰った。



「…………」
やっと解放された安堵からか、出し尽くした筈の涙と鼻水がまた溢れてきた。
「うぅ…」
自分のすすり泣く声だけが広い部屋に響いている。
少しだけ胃液の匂いがする。
さっき食べたパンケーキをそのまま吐いてしまったのだろうか。
このまま放っておいたら清掃の人が困ってしまう。
分かっていても体が動かなかった。
まだ動悸が収まらない。
「ぅ…」
何も出来ずに虚空を見つめる。
何もなかったんだろうか。
信じた俺が間違っていたんだろうか。
全部、嘘、だったのか……。
忘れていた全身の痛みで顔が引き攣る。
それ以上に心が痛かった。
優しくされた思い出と、今日の思い出が一気にフラッシュバックする。
ぼんやりとベッドに転がっていた携帯を手に取って、写真のフォルダを開く。
零衣との写真だけ分けてあったそれを開くと、幸せそうに2人で映っている写真ばかり出てきて辛くなった。
全部削除するボタンを押そうとしてその手が止まり…やっぱりできなくて電源を切って力なく布団に転がした。
「もう…何もないんだな…」
1人で呟いても静寂だけが広がっていた。
思い出も記録も、零衣自身も、全部失った。
俺が信じたものは、初めからいなかった。
ぽろぽろと枯れたはずの涙が溢れ、不意に零衣が優しくしてくれる様子が脳裏に浮かび、その後何度も聞かされた"大嫌い"と言う言葉がリフレインした。
思わず両手で耳を塞ぐ。
"織くんなんか大嫌い"
耳を塞いでも脳裏に言葉が聴こえてくる。
もう何も残されていなかった。
1人ぼっちになったベッドで、いつまでもいつまでも動けなかった。

 

 
-晦冥の角砂糖-