『そんなものなかったんだ』


 笑った顔を見た。きっかけはそれだけだった。
「犬飼くんってへんなひとだね」
 笑顔なんて見たことあったはずなのに、いままでのそれが全部作られたものとわかるような、おかしくってたまらないみたいな笑顔。いっぱいに破顔して、こらえようとして失敗して、また吹き出す。うれしいような腹が立つような、どちらも正しい気持ちだったので、わらいながら犬飼も「わらわないでよ」と小突いてやった。
 笑った顔をたくさんみた。泣いた顔も、悔しげに唇を噛んで俯く顔も、困ったように眉根を寄せてつくりわらいをする顔も。案外と表情は多彩だったから、新しいものを引き出すたびにたのしかった。もっとみたいとおもっていた。
 すきなのかときかれたら、多分イエス。
 けど付き合いたいかと言われるとそれはノーだから、きっとそれはいつかやわく砂糖菓子のように溶けて忘れ去られるものだとおもっていた。
 そのはずだった。

「鳩原が消えた」「失踪?」「トリガーを持ち出して」「遠征に行けなかったから」「人が撃てないやつが近界にいったところですぐに、」「B級に降格って、俺たち、なにも」「ほんとうに」「ばかなやつ」

 だれにもあかされることもなく、うまれたものはそのまましんだ。雨の降りしきる五月の夜のことだった。


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