あの日、呪いとペトリコール


 降る雨の間断なく繋がる音が聴こえる。
 スニーカーの中までぐっしょりと濡れた重い靴をなかば振り回すように歩きながら、ついてない、と犬飼はため息をつく。一面に水を張ったアスファルトの道路は切れかけの街灯の光を反射して、水面を叩く雨にゆらゆらと揺られている。歩くたびに足元で広がる波紋を眺めていると、唐突に斜め後ろから声が聞こえた。

「せっかくの誕生日なのにね」

 ほんとそうだよ、十八歳の誕生日は一回こっきりなのにさ。
 記憶の中で犬飼はそんな軽口を叩いた。今はなにも言わずに黙殺した。隣の気配は戸惑ったようにわずかに揺れて、けれど結局のところ、犬飼の機嫌が良かろうが悪かろうがさして興味もないらしい。彼女の関心事は単純に自分が居やすい空間か、否か。だから犬飼が黙っているだけだとわかると、あっさり興味はもはや川のような地面をいかに歩いて帰るかということにうつっていく。
 しばらく黙ってふたりで歩く。あの日の会話を繰り返す気などもうないのに、夜は記憶を否応もなく惹起させる。つくりわらい。犬飼の軽口。雨音がかき消す鳩原の声。たいしてお互い興味もない、ただ空白を埋めるためだけの会話。夜を覆い尽くすペトリコール。
 やがてふたりは岐路に立つ。犬飼が傘を出ようとすると、袖を彼女が引き止めた。案外と強い力だった。

「誕生日プレゼント、用意するのわすれてたから」

 だから、これがプレゼント。
 そう言って押し付けられた女の子らしい装飾など皆無の黒くて無骨な折り畳み傘からするりと抜け出し、半分濡れた彼女は一瞬にして濡れ鼠になった。ふるりとおおきく首を振り、にこりとわらい手をあげる。

「誕生日おめでとう」

 言祝ぎとはすなわち呪いであることを、犬飼はもう知っている。呪い。彼女をここにとどめおく、それだけの呪いだ。
 呪いはもう犬飼を苦しめることはない。そんなにもながく、ゆめをみていた。


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