鶴と酒と方便


 厠に行こうと廊下を歩いていた、そんなとき。
 もう夜更けだし、寝ずの番をしている者たち以外はおそらく皆明日の日常に備えて寝ているだろうとなるたけ音を出さないよう気を付けていたのに、意想外に人がいたから思い切り心臓が跳ねた。「ヒョッ」と変な声も出た。誰かを驚かすことと驚くことを無上の喜びとする白い太刀は、主を驚かせた張本人であるにも関わらず緩慢な動作で振り返って少し呆れた声を出す。
「きみ、いくらなんでもそんな声はないだろう」
「いきなり人がいたら普通の人は驚くんです」
「年頃の娘さんは『キャッ』とかいって驚くもんだ」
「殴られたいんですか」
「ヒョッ」
 無言で殴った。本当であれば軽く避けられるはずの太刀はあえて避けずに殴られて、鷹揚に笑った。合戦場に出たら誉間違いなしの一撃だとも揶揄した鶴丸に、もう一撃だけ喰らわせてから審神者はふと浮かんだ疑問を口にする。
「こんな夜更けに何をしていらっしゃるんですか?」
「んー、ちょっとばかしな」
 太刀はとっくりを持ち上げてひらひらと振った。そして同じ問いを返す。
「きみは何を?」
「目が覚めちゃって、厠に行こうと」
「へえ」
 口の端が意地悪く持ち上がった。あ、嫌な予感がする、と思った時にはもう遅い。
「……今日短刀たちが話していたんだがな。厠で少し奇妙なことがあったらしいんだ」
「…………!」
 付喪神という、名前は神だが実質は妖怪とほとんど区別もつかないようなものを呼び出し使役している審神者という立場でありながら、彼女は非常にそういった類の話に弱かった。耳を塞いで走って逃げようかと思ったが、一息ついた厠で聞かなかった話の続きを妄想してひとりがくがく震える未来が簡単に想像できる。
 走って逃げるとも、かといって聞く覚悟もできないまま不自然に動きを止めた審神者に対し、鶴丸国永は人の悪い笑みを浮かべながらわざとらしく言った。
「おっと、そういえばきみはこういう話が苦手だったな。やめておくから早く行ってきたのがいいんじゃないか?」
「…………!」
 非常に葛藤した。
 このまま走って厠にいって、まともな精神状態でいられるだろうか。何かもわからない何かに対しがくがくぶるぶる一人で怯えることになってしまうのではないだろうか。
「………………」
 にやにやと楽しげな笑みを浮かべながら見下ろす鶴丸に対し、主たる彼女は毅然と顔をあげ、その金の瞳をひたと強く見据えた。

* *

「鶴丸、本当にそこにいますよね?」
「いるから早く出てきてくれないか」
 審神者のとった手段はあまりにも情けないものだった。『厠までついてきてくれなければ鶴丸にいじめられたって一期一振に言いつける』という言葉に、今まで弟たちを驚かせたり悪戯を仕掛けたりで散々怒られてきた鶴丸は、一も二もなく従うよりほかにない。穏やかで物腰柔らかな粟田口の長兄は、怒らせたくない人ランキングの上位に属する。
 はあ、とため息をつきながら、鶴丸は厠の戸をリズミカルに叩いてみる。途端に中からギャッと年頃の娘らしからぬ声が響いた。
「やめてくださいそういうの!」
「え、なんだい? 俺は何もしてないんだが」
 中から形容しがたい悲鳴が聞こえた。すぐさま水音が流れ、審神者が飛び出してくる。恐怖に目を白黒させて胸元にすがりつきながら、彼女はキッと鶴丸を睨みつけた。涙目では迫力も何もないが。
「い、一期に言いつけますよ……!」
「ちゃんとついてきてあげただろう。きみ、あんまり出てくるの早かったけど、きちんと手は洗ったかい?」
「当たり前でしょう! いくつだと思ってるんですか!」
「俺より随分年下だろう」
「それをいうならここにいる人全員年上ですけどね……」
 成人間近の小娘はふうとため息をついた。怖い話に怯える人間は基本的に他人に縋りつきたくなるらしく、意識的か無意識的か審神者は鶴丸の袂をそっと掴んでいて。
 その手が離れてしまわないように、鶴丸はゆっくりと歩く。
 夜の空気は昼間よりも冷たい。ふわりと吹いた風は、ほんの少し冬の香りが混じっていた。なぜそれが冬の香りだと直感したのかはわからないが、おそらく凛と冷たい匂いがしたからだろう。
 そう思った瞬間、一歩後ろをそろそろ歩く審神者がすんと鼻を鳴らした。

「冬の匂いがする」

 思わず立ち止まった。振り向く鶴丸を、きょとんと丸い目が見上げる。
「どうかしましたか?」
「今のって、本当に冬の匂いなのか?」
「さあ。私はそうだと思いますけど」
「へえ……そりゃ驚いた。俺も同じことを考えていた」
 思わず口元が緩んだ。人の身はいつだって新鮮で、刀の身では感じられなかった全てのものに心が動く。たとえば花の美しさだったり、夜の透明さだったり、樹々の呼吸であったり、斬られた時の痛みでさえも。
 もちろん、袂に触れる主の小さな手だって。
「鶴丸は鼻がいいんですね。今くらいのかすかな匂いでは、他人はわからないと思っていました。特にあなたは鶴ですし」
「俺が鶴ならきみは犬だな」
「ここ掘れわんわんで資材を見つけてこられたらいいんですけどね」
 いくつかの角を曲がると、鶴丸の部屋の前までついた。外に面した廊下に座って酌んでいた酒がそのまま残っている。主の部屋は、もう少し奥だ。
 部屋まで送っていく、と口から言葉が出る前に、何でもないような口調で審神者が言った。
「もう少し飲むなら、一杯付き合わせていただけませんか」
 驚いたわりに、それを映さず言葉はするりと喉から出た。
「そうはいってもきみ、未成年だろ」
「宴会では次郎さんと組んで積極的に飲ませようとする人が何を言っているんですか」
 快活に彼女は笑う。あと数か月すれば成人するのだという彼女は、既に本丸の飲んだくれ共に付き合って酒には慣れていた。酒には強い血筋なのだと言っていたし、事実何杯飲もうが崩れたことはなかった。
「でもきみ、これ日本酒だぞ」
「実は最近日本酒も好きなんです」
 宴会のときはつぶされたら困るから、ビールか甘くて弱いジュースみたいなお酒しか飲まないけど。と含み笑いをする。
「内緒ですよ。鶴丸にしか言っていないんですから」
「はは、じゃあ一杯やるか」
 とはいえおちょこは一つしか持ってきていない。飲みさしの、半分ほど残るおちょこになみなみ酒を注ぐとそちらを審神者に手渡して、自分はとっくりのままぐいっといくと、慌てたように彼女が言った。
「あ、おちょこもう一つ取ってきますから」
「いや、このまま飲むのもオツなもんだぜ」
「私の感覚からするとオツではない気がします」
「子どもにはまだわからんかもなあ」
 まあ飲めと促せば、肩をすくめて彼女は小さく嘗める程度に口をつける。その顔がかすかにしかめられたのを見て、鶴丸国永は目を逸らして上を見上げた。星を眺めるふりをして、気付いていないふりをした。
「星が綺麗に見えますね」
「ああ。わいわい騒ぎながら飲むのもいいが、ひとりでしっぽり星見酒ってのが一番好きだな」
「意外ですね。宴会では一番はしゃいでいるように見えるのに」
「楽しみ方が違うだろう」
 確かにそうですね。微笑んだ彼女の指が星座をなぞる。
「オリオン座がでてる」
「オリオンって誰だ?」
「ギリシャかどこかの英雄じゃなかったですか」
「あ、足を弓矢で撃たれたやつか? あの、アキレス腱の語源になった」
「それはアキレスです」
 二人して星空を見上げる。また視界の端で主が酒を嘗めた。表情を見なくてもその飲み方を見るだけで口元が緩んでしまうのは、きっと仕方のないことだ。
「秋はほかにどんな星座があるんだろうか」
「残念ながら、全星座の中で私が知るのはオリオン座だけです」
 それだって冬の星座だし、と彼女は笑う。

 一緒にいるための小さなかわいい嘘の上で、しらじらと夜は更けていく。

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