巡る季節に春は来る
鶴丸国永が本丸にやってきたのは、まだ暑さの残る晩夏の午後だった。日中はじっとしているだけで汗のゆっくり滲んでくるような湿った暑さだが、夜となるとすっと空気が冷たさを伴うような、そんな季節。
誰にも気づかれないうちに死んだ夏を、次第に高くなっていく空がゆっくりと埋めていくような、そんな奇妙な感覚を覚えながら夏の終わる匂いを嗅いでいた。今年もちゃんと夏は終わってしまうんだな、と感傷に浸っていた。
そんな、夏の終わりのこと。
「―――鶴丸国永だ」
ふわりと顕現するその姿を初めて見た時、あまりに綺麗な太刀だと思った。肌に触れる空気はいまだじりりと暑いのに、その白い姿は雪が降ったかそれとも桜かと思わせるほど優美で、彼が閉じていた目をゆっくり開くと金色の瞳が覗いた。思わず心臓が跳ねるほどの艶やかな金色―――あるいは蜂蜜色とでも言った方がしっくりくるかもしれない。
様々な刀を見てきた。その時天下五剣と言われる太刀は既に顕現していたし、他にも美しいと称される刀はさんざ見てきたはずだった。美しいものも心動かされるものも、たかが二十に届かない数を重ねただけの年月とはいえ、数限りなく見てきたと思っていた。
その太刀は、そのすべてを吹き飛ばしてしまった。
今まで見たもののなかで、その白が最も綺麗だと思った。
魂を抜かれてしまったかのようにただ茫然と見上げるだけの審神者に向かって、鶴丸国永は面白そうに笑った。
「俺みたいのがいきなりきて驚いたか? 君が俺を呼んだんだろう」
その言葉にはっと我を取り戻し、慌てて審神者は頭を下げる。
「初めまして、この本丸をあずかる審神者です。どうぞよろしくお願いします」
緊張が声を上擦らせた。鶴丸国永はそんな彼女を見つめて場違いなほど優美な仕草で目を細めて微笑む。
「こちらこそ、よろしく頼むぜ」
あまりに美しいその刀は、その見かけとは裏腹に竹を割ったようなさっぱりとした性格だった。顕現した瞬間こそ「とんでもないものを呼び出してしまった」という緊張に心臓をばくばくさせたが、その日居合わせた刀たちと急遽開催した歓迎会で酒を片手に大はしゃぎしている彼を見ると、気後れはすぐになくなった。
結局子の刻近くまでどんちゃん騒ぎをしてしまい、部屋に引き上げて床に就いたものの、過ぎた酒はすぐに眠りの淵から意識を引き戻してしまう。
(……やれやれ、困ったなあ)
近侍を務める一期一振はさすが多くの弟を持つ長兄とでも言おうか、体調が思わしくなければ目敏く気付く。寝不足でいると困ったように、少し悲しそうに表情を曇らせる一期の顔を見るのは罪悪感を呼んだ。
少し散歩でもしようか、と浴衣の上に大判のひざ掛けを羽織り部屋を出る。本丸の長い廊下を吹き抜けるほんの少し気の早い秋風を感じながらゆっくりと歩いていると、ふと目の先に真っ白な姿が見えた。
ああ、やっぱり綺麗だ。という心の声が心臓の深くに落ちる。大きな月の白い光を透かすような純白が目に眩しくて、まるでこの世の者ではないみたい、と浮かんだ言葉を苦笑交じりに打ち消した。彼は確かにこの世の者ではない。
群青色の空と、雲一つない空に浮かぶまどかな月と、真っ白の鶴。その景色はいつまでも見ていられるほどの美しさだったが、いつまでもそうしているわけにはいかない。とことこ歩いて近づくと、後ろから声をかけた。
「―――鶴丸さん、眠れないんですか?」
緩慢な仕草で振り向いた鶴丸国永は少し驚いたように目を瞠った。いきなり声をかけて悪かったかな、と思いながらできるだけ柔らかく笑ってみせる。
見開いていた蜂蜜色の目をゆっくりと細めて、鶴丸はこたえた。
「ああ。やはり顕現されたばかりだと不具合もあるんだろう」
「そうですね、やはり体に馴染まないといろいろ面倒ごとは多いみたいです。でもだいたい一週間ぐらいでみんな慣れるみたいですよ」
「そういうものか。君は何をしてるんだ?」
「私も眠れないんです。一期さんが生活習慣にうるさくて、だけど私ずっと夜型生活してたから」
よっこいせ、と言いながらとっくりを挟んで彼の隣に腰掛ける。
「お酒、気に入ったんですね」
「ああ、美味いし良い気分になれる。体を持つってのもいいもんだ。君も飲むかい?」
「いえ、これ以上飲んだらほんとうに寝られなくなっちゃう」
何気ない言葉をかわしながら、ちらりと横の彼を見やる。あまりにも儚くて綺麗な顔立ちと、そこに浮かぶ案外気さくな優しい笑み。
くんと空気を嗅ぐと、死んだ夏の匂いとかすかでほのかな秋の匂い。しろいかみさまとのあいだにある、ひとが二人分ぐらい入れそうな距離は、なんだかとても心地が良かった。
* *
秋は夜から染めていく。ゆっくりと夜が冷えて、朝が冷えて。そして昼間が秋に染まった頃には、見事に紅葉を楽しめるようになっていた。
淡い月の光がほのかに照らす秋の夜更け、とっくりを片手にぼんやりと庭を眺める後ろ姿に審神者は苦笑いしながら声をかける。
「また飲んでるんですか?」
ゆったりと後ろを振り返り、こちらを見上げて彼は「よっ」と片手をあげた。そして招くようににっこりと笑った。
「本当にあなた、いつでもお酒を飲んでますね」
「いつまで人の身があるかわからないからな。楽しめることはすべて楽しむって決めているのさ」
よっこらせ、と言いながら彼の隣に腰掛ける。
「それにしたって飲みすぎじゃないですか? 見かけるたびいつもじゃない」
「おっと、堅いことはいいっこなしだぜ。そら」
白い手が素早く口に押し込んだものを抵抗せずに咀嚼すると、ざらりとした甘さが口いっぱいに広がった。これは、
「……砂糖?」
「大当たりだ」
「あの、角砂糖、ですよね、これ……」
「ああ、光坊につまみもなしに飲むのは体に悪いと言われてな。台所にあったから持ってきたんだ」
心なしか誇らしげに言う彼のかたわらには、コーヒー用の角砂糖が五つほど載った小皿がある。
思わずつぶやいた。
「……日本酒と、角砂糖……」
「なんだその反応。驚いたか?」
「驚いたっていうか、正直味覚を疑います」
正直な言葉に対し、ちょっとびっくりしたように、鶴丸は目をまん丸にして審神者を見つめる。苦笑しながら審神者は続けた。
「普通おつまみって辛いものじゃないです?」
「でもきみだってビール飲みながらチョコレート食べてるじゃないか」
「甘くてもチョコはちゃんと食べ物ですからね。でも角砂糖って調味料ですよ」
「……これは驚いた」
案外あうのになあ、わかってもらえないなんて残念だぜ。そう独り言ちる鶴丸の横で、苦笑いしながらざらりと甘い角砂糖を飲み下す。ふたりのあいだの、膝ひとつ分の距離を眺める。
やんわりおぼろに光る仲秋の名月の魔法か、角砂糖は不思議に甘くいつまでも口の中にとろりと残った。
* *
やがて季節は冬に染まり、白い雪が本丸をしんしんと埋める。
「何飲んでるんですか?」
冬空の下、後ろ姿に声をかけた。
「鶴の友だ。美味いぜ」
「共食いじゃないですか。あれ、共飲み?」
「一気に平和な響きになるなあ」
思わず笑って、隣に腰かける。
「飲むかい?」
「そしたら少しください。硬いですか?」
「いや、そこまでだ」
渡されたおちょこの匂いをゆっくりと嗅ぐ。柔らかな匂いのアルコールをゆっくり嘗めると、ふわりと口に芳醇な香りが広がった。思わずつぶやく。
「おいしい」
「そうか、そりゃ何よりだ」
少し身動ぎした拍子に当たり前のように肩に触れた。細くて綺麗な彼の肩は自分のものと比較すると意外なほどにがっしりしていることを、審神者はもう知っている。
「うーん、寒いですね」
「冬だからな。ま、これも醍醐味だろう?」
「そうかもしれないけど、風邪とかひいちゃいそう」
「おっと、それはよくないな。きみのくしゃみを連発された日には本丸が倒壊しかねない」
「殴られたいんですか?」
楽しそうに笑う鶴丸に一撃喰らわせてから、ふと空気の匂いを嗅いだ。
「あ、春の匂い」
冷たい冬の、優しさを拒むような背筋のしゃんとした匂いの中に、とろりとやわい匂いが混ざる。その言葉を聞いた鶴丸が、「ああ、道理でいつもと違うと思った」ととても嬉しそうに笑うから、思わず審神者も微笑んだ。
ゆっくりゆっくり季節は巡る。春もきっとすぐそこだ。
春が過ぎれば夏が来て、出逢ってからもうすぐ一年になる。
「桜が満開になると、すっごく綺麗なんですよ。春になったらみんなでお花見しましょうね」
「ああ、どんちゃん騒ぎは大歓迎だ」
「お花を見て、おいしいお酒を飲んで、おいしいご飯を食べて」
「雅な話をしていても結局は食にいくのがきみらしくてとてもいいと思うぜ」
「いいじゃないですか、みんなで宴会、絶対楽しいもの」
そんな話をしていると、思わず胸が弾んだ。たのしくなって笑った拍子に
もう一度、肩が触れた。
時の流れとともに、どんどん距離は近くなる。
最初はひと二人分の距離を隔てていたのに、次第にゆっくりちぢまって、
やがて肩が触れ合うほどの距離に。
近づく距離は、きっと物理的な距離だけではなくて。
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