「ただいま」
「おかえり、遅かったね」
「そうかも」
ガチャリと扉を開けてキッチンから顔を出すお母さん。
突然現実に戻ってきたような感覚で、もしかしたら今日の出来事は夢だったんじゃないかとさえ思う。
何事もなかったかのように自分の部屋に入り、トートバッグの隙間から中を覗けば自分のものではないタオルが入っている。手に取るとやっぱりあれは現実だったんだと、今更ながら顔に熱が集まった。
二口さんの私物がここにある……うわぁどうしよう、勝手に顔がにやける。客観的に見ると普通に気持ち悪いストーカーみたい。でも今この瞬間、少しだけその気持ちをわかってしまう自分もいやだ。
タオルをベッドへと置き、心を落ち着けるために部屋着に着替えた。洗濯するものをまとめたり、何かをしながらも頭に浮かぶのは先ほどまで一緒にいた二口さんの少し拗ねたような顔や笑った顔で、終始脳内はふわふわと浮ついている。
このままお風呂に入ろうとまとめた洗濯ものと着替えを抱え、ベッドへ置いていた二口さんのタオルもその上に乗せた。
「……っこ、これは不可抗力」
自分の洗濯物と一緒に抱えた瞬間、鼻腔をくすぐる二口さんの香りに心臓が跳ねる。違う、意図して嗅ごうとしたしたわけではない。断じて違う。でも、なに、この言葉にできない気持ち。二口さんが近くにいると錯覚してしまうような気さえする。
……こんなところ誰かに見られたら家族であろうと幻滅されることは必須だし、弟からはきっとネタにされる。本当に気持ち悪い思考になる前に、洗濯頼みに行こう。幻滅された時のシミュレーションをしながら平静を装い、自分の部屋を後にした。
「お母さん、このタオル借り物だから一緒に洗って」
「ん?見せて。これならそのまま洗濯機入れちゃっていいよ」
「わかったぁ」
「明日返さないといけない?……っていうか、これバレーの」
「明日返さなくても大丈夫!いいからもう入れとくよ!」
「ふーん」
何かに気が付いたのかわかりやすくにやにやするお母さん。いつもはぼんやりしてるのに、こういうことに関しては勘が働くらしい。これ以上の詮索はまずいとお母さんの言葉を遮りお風呂場へ向かった。
*
あの日のバレンタインから十日ほど経ち、ようやく伊達工業へ来ることができた。
すっかり二口さんの香りがなくなってしまったタオルに肩を落としつつ、いつものシャトルドアから中を覗いた。
「あ、あれ……?」
いつもより音が聞こえないなとは思ったけれど、体育館を覗くと殆ど人がいなかった。練習が始まってすぐくらいだと思ったんだけど……読みを間違えたのだろうか。少し前のめりになり体育館の中を見渡しても知っている人はおらず、中にいる人もジャージではなく制服を着ていた。
……もしかして今日は部活休みなのかな。
それから少しの間様子を窺ってみたが、待てど暮らせど人が増えることはなさそうだ。ということは、バレー部の人たちもここに来ることはないだろう。久しぶりに会えると思ったのに……なんてがくりと肩を落とし踵を返した。
「わっ!」
「う、わっ」
「二回目なのに驚きすぎだろ」
「お……おぉ……」
振り向いた瞬間、私の好きな人が真後ろに立っていて大きな声を出すものだから心臓が飛び出るかと思った。驚いて何も言葉が出てこなかった。絞り出た言葉がおぉ……って何なの恥ずかしい。心臓がバクバクと大きく鳴っているのが自分でもわかる。……これはデジャヴだろうか。
「え、あ、二口さんこんにちは……っていうか普通に声かけてくださいよ」
「ははっ、考えておく」
口では考えておくと言いながら、意地の悪い顔をしていた。これはまた絶対にやるだろう、流石の私でもわかる。驚いて気付くのが遅れたけれど、待って、かっこいい。
「二口さん制服だ……レアすぎる……」
「まぁ今日全部活休みだからな」
「あ、やっぱり休みだったんですね。でも制服の二口さんに会えてラッキーでした」
「ただの制服じゃん」
「いやいや私にとっては貴重です。そういえばこっちに何か用があったんですか?」
「別に、たまたま通ったら見かけたからからかってやろうと思っただけ」
こっちの道をたまたま通るなんてことあるのだろうか。校門は体育館の入口側にあるしこちらにはシャトルドアくらいしかない。
……これはただの願望だけど。今日部活が休みだと知らず私が来るかもしれないと、わざわざ様子を見に来てくれたのかもなんて。そうであれば嬉しいけれど……ないか。
別に付き合っているわけでもなく一方的に好意を寄せているだけなのだから、あまり期待しすぎないようにしないと。うぬぼれからの勘違いが一番恥ずかしいし。
「そうだこれ、ありがとうございました。遅くなってごめんなさい」
「あー別に、いつでもよかった……し」
「え、もしかしてまだ汚れありました?臭いですか」
「いや大丈夫、サンキュー」
タオルを受け取った時、一瞬止まったような気がしたけど思い違いだったらしい。少し焦ったけれど臭いとか思われなくてよかった。
二口さんはスポーツバッグへタオルをしまうとくるりと私に背を向け歩き出した。もう友達のところに行くのかなと、少し、ほんの少し寂しい。そんなこと言えないけれど。
「行かねーの」
「え?」
数歩進んで足を止めた二口さんが少しだけ振り向いてそう口にした。見送ってから帰ろうと思っていたので振り向いて言われたその言葉に驚いた。
「帰るんじゃないの」
「か、帰りますけど……」
「駅まで一緒に行くって言ってんの」
「え、あ、ぜひ!」
慌てて二口さんのところへと駆け寄り隣に並べば、私の歩く速さに合わせてくれた。
予想外のことに心臓が駆け足で動く。この前は途中までだったけれど今日は駅まで送ってくれる上に、少女漫画を見て憧れていた制服での下校だ。どうしよう、部活が休みで落ち込んでたのにこんなことになるとは思っていなかったので気持ちの準備ができてない。
「ここからの最寄り駅でいい?」
「はい、大丈夫です」
「……そういえば、お菓子全部食べた。ひとつだけ違うの入ってたよな?」
「あ、そうです。マーマレード入れたのもどうかなって」
「美味かった」
「へへ、よかったぁ」
この前も目の前で食べてくれた時に美味しいって言ってくれたけど、改めて言ってもらえるのはやっぱり嬉しい。作ってよかったと頬が緩む。
そういえばふとあの時疑問に思ったことを思い出し聞いてみたくなったけれど、二口さんは答えてくれるだろうか。
「あの……この間気になったことがあったんですけど聞いてもいいですか」
「いつも前置きなんかしないで聞きたいことは猪突猛進なのに、なに?」
「え、そう見えますか」
「まぁ」
そんな厚かましく見えていたのだろうか、普通にショックなのだけれど。
私が俯いたまま呆けていると「嘘だよ」と揶揄うように笑った。いや嘘だよと言われても思い当たることが多すぎて笑えないのですが。そんな私をよそに二口さんは「で?」なんて首を傾げている。
「えっと……あの時言ってた変なもの入れてないってどういうことですか?ロシアンルーレットでデスソース入れられたみたいな感じですか」
「あー……あれな」
彼は眉間にしわを寄せ、いかにも嫌なことがありましたという雰囲気を醸し出している。そんなに手作りお菓子にいい思い出がないのか、何があったんだろうと疑問は増すばかりだ。
「中学生の頃さ、バレンタインの時期に女子が話してる内容を聞いちゃったんだよ。『絶対両想いになりたいから、ネットで魔法の粉買って入れるんだ』って」
「……魔法、ですか」
「それだけでも意味わかんねーんだけど、一緒にいた奴が『作り終わったお菓子にキスしたら間接キスになるからそうするよ』って言ってて。所詮他人事だしなんて迎えた当日、そのお菓子を渡す相手が俺だったんだよ」
「お、おぉ……」
二口さんの答えが想像の斜め上をいっていたため、気の利いた言葉が思い浮かばなかった。なんなの魔法の粉って、そんな簡単に両想いなれるんだったらみんな買ってるし好きな人が被ったらどうするんだよ。三角関係どころか人気の人だと五股も六股も可能になっちゃうでしょ。しかも作り終わったお菓子にキスも……口をつけるってことでしょ?衛生的に受けつけない。
「だから手作りは絶対受け取らないことにしてる。でもまぁあんたはそんな発想すらなさそうだからな」
「……褒められてるのか貶されてるのかわかりませんが、ありがとうございます。ちょっと……いや大分引きました」
「多分それが普通の感覚だと思う」
なんというか……未確認生命体の話を聞いてる気分になった。確かにそんなことがあったのであれば手作りのお菓子なんか受け取る気になれないだろう。知らないとはいえ申し訳ないことをしたな。
「なんか、知らないとはいえごめんなさい……次からは既製品にしますね」
「別に、あんたはそんなことしないだろうから気にしなくていい。……美味かったし」
「へ……へへ……嬉しいです」
お前は信用していると言われているみたいでなんだか照れる。でもそれが本当に嬉しくて気持ちの悪い笑いが漏れた。初対面だったあの日が嘘のようにも思えてくるほどの進歩だ。
「……ちょっと待ってて、電話」
「あ、はい。ここにいますね」
「なに、今帰ってるところ……」
その直後二口さんに電話がかかってきて、話しながら少し離れた場所に歩いていった。私は公園の入口にあるガードパイプに寄りかかって待つ。もうそろそろ見慣れてきた風景をぼおっと眺めていたら、私のよく知っている人が視界を横切り思わず声をかけた。
「翔陽?」
「ん?あれ、○○じゃん。なんでこんなとこにいんの」
「いやそれはこっちの台詞なんだけど」
「俺?今日部活休みだから自主トレ、走って来た!」
「走ってきたの!?すごいね、がんばって!」
「おう、また明日学校でな」
話している間もその場で足踏みをしていて、せわしなくこの場を後にした。
ここまで走ってくるなんて、やっぱり翔陽は体力おばけだ。私だったら一キロも走れば間違いなく息も絶え絶えで動けなくなるだろう。それなのに彼は何ともないというように話していた。……本当にすごい。
「なぁ、あいつと友達なの」
いつの間にか電話から戻ってきた二口さんは先ほど翔陽と話していたところを見ていたようだった。ちょうど入れ違いといったところだろうか。
「翔陽ですか?はい、同じクラスなので」
「ふーん、翔陽ね」
「何か話したいことありました?」
「や、別に」
別にとはいいつつ、バレーのライバル関係ではあるから何か話したいことがあったのかもしれない。引き止めておけばよかったと思うも後の祭りだ。颯爽と走っていった翔陽はもうとっくに後ろ姿すら見えなくなっていた。
「あ、電話何か用事とかだったらあと一人で帰りますよ」
「いや、親だったから大丈夫。ほら行くぞ」
「あ、はい!」
ガードパイプから腰をあげ、また歩き出した二口さんの隣に並んで歩いた。
*
時間とは残酷なもので、幸せな時間ほど一瞬で過ぎてしまうのは何故だろう。いつも伊達工に通うとき往復している時間は長く感じるのに、今日は二口さんが一緒だったから本当に短く感じた。憧れの制服下校の時間がもう終わってしまう。……名残惜しい。
「……二口さん、帰る前に貴重な制服姿の写真撮っていいですか」
「一回一万円」
「もはや推しのチェキじゃないですか!」
「でも同じようなもんでしょ?」
ダメもとでお願いはしたけれど、それに対して二口さんはツーショットチェキみたいな値段を提示してきた。まあでも確かに言っていることは間違っていない、好きな人であり推しでもあるから。反論できない私を見て彼はにたりと笑う。
撮る気満々でカメラを起動していたが断られたため、涙をのんでスマホをポッケにしまおうとすればするりと手から抜ける。焦りながらもかざされたスマホを目で追えば、上を向いた瞬間にカシャリと音が鳴った。
何が起こったのかわからず二口さんの方を向けば「はい、貸しひとつな」と私の手元にスマホが戻ってきた。
「……え?」
「じゃ、気を付けて帰れよ」
「はい。あの、二口さ……」
「あ、次来るときだけ先に連絡しろよ」
「は、はい!絶対連絡します」
「おー」
そう言って二口さんは背を向けて手をひらひらと振りながら行ってしまった。
あまりにも一瞬の出来事で何が起こったのか理解するため、戻ってきたスマホのロックを恐る恐る解除する。少し震える指先で画面をスワイプし最新の写真を見て思わず手で口元を押さえた。
「え、あ、やば……」
じわじわと顔に熱が集まり春もまだだというのに手は汗でじっとりとしている。ひとつの画面に収まる二口さんと自分の姿を見てもまだ信じられない。
「……反則だよ。もっとまともな顔をしたらよかった」
こんなの貸しひとつどころの話ではなく、自分にとっては一生分の貸しというほどの価値がある。両手でスマホを握り、こつんとおでこに当てた。