何も言わずに突然姿を消した骸くん。思えば私が彼について知っているのは、チョコレートが好きだということくらい。どこに住んでいるのか、趣味は何なのか。……今思い返せば本当に好きで付き合ってくれていたのか、それすらもわからなくなる。彼の口から直接好きだとは、一度も聞いていないから。
誰に対しても敬語で、同じくらいの年齢の男子と比べても少し大人びていた骸くん。こちらのことは見透かされているかのように話すのに、彼の考えていることはまるで読めなくて。
そんな骸くんと出会ったのも、また彼の好きなチョコレートがきっかけだった。
―――――…
「ほんと無理……」
小さな子たちも帰った公園で、一人ブランコに揺られる。買ってきたお菓子をやけ食いしながら。……そう、今日彼氏に振られたのだ。他に好きな人ができただなんて、ベターな振られ方。学生の恋愛は遊びのようなものだ、なんて従姉のお姉ちゃんが言ってたっけ。それでもあの瞬間は好きだった……はず。
……振られたことによって気持ちは一気に冷めてしまったけど。「最低!」と鳩尾に一発入れてきたが、いまだ悲しいよりも怒りが上回る。そして行き場のない気持ちを大好きなお菓子で誤魔化しているというわけだ。
「……腹が立ってもお菓子は美味い」
夕飯前にも関わらず、チョコを口に放り込む。『お菓子ばっか食べてたら太るぞ』なんて元彼の言葉が頭を過るけど、もう関係ない。寧ろチョコの美味しさがわからない奴のために我慢する必要なんてなかったんだ。
「美味しそうなものを食べてますね」
「!?」
「そんなに驚かなくても」
「ろ、六道くん……?」
不意にブランコのチェーンが揺れたと思ったら、声をかけてきたのは同じクラスの六道くんで。近付いて来ていたのにも全く気付かず、驚きから声がでなかった。というのも同じクラスというだけで、すごく親しいかと言われればそうではないので予想外だったから。
日直や授業のグループ分けなどで話す機会があっても、頻繁に雑談をするような仲ではなく。……勝手に私の目の保養にさせてもらっていたくらい。
そんな彼が私の手元にあるお菓子と私の顔を交互に見て「ひとついただいても?」なんて一言。断る理由もないので、どうぞと差し出せば嬉しそうな顔でチョコを頬張った。なんだそのギャップは。
「これは、とても美味しいですね」
「だよね!? 私もこれめっちゃ好きで……て、ごめん。チョコ好きだからつい」
「僕も好きですよ、チョコ」
美味しいの一言に勝手に仲間意識が芽生え、思わず食いついてしまった。元彼からは太るぞと言われ、友達も太るからって進んで話ができなかったから余計に。……お菓子の美味しさを分かり合えるのは素直に嬉しい、しかも相手はイケメンである六道くん。これは振られたご褒美だろうかなんて思ってしまうくらいには。
「そちらにあるのは初めて見ましたね」
「あ、これはね新発売だから私も初めて。食べる?」
「ええ、是非」
横に置いている袋に入ってる今日発売したチョコ菓子を開けて一緒に頬張る。お互い目を見開いて顔を合わせた。思わずふたりとも頬が緩む、これは大当たりの味。
「……それにしても、どうしてこんなところにお一人で?」
「あーね。……実は他に好きな子ができたって彼氏に振られてやけ食いしてた」
「ほう」
「まぁ今は腹立ってどうでもよくなっちゃったけど。もうお菓子も我慢しなくていいから別れて正解かも」
「何故我慢する必要が……?」
首を傾げる六道くんに、付き合っていた頃に言われたことを伝えればやれやれといった表情で溜め息をつく。
「人生を豊かにする美味しさを知らないなんて、愚かな人だ」
「あっはは、本当にそれ。六道くんが彼氏だったら一緒にスイーツ食べに行ってくれそうだね」
「ふむ……」
六道くんは顎に手を当てて、少し考えるような仕草をする。あ、余計なことを言ってしまったかもと思った時には取り消すことができない。彼氏だったらなんて、振られたばかりの大して可愛くない私から言われたって反応に困るだけだろう。……非常に申し訳ないことをした。こんなにイケメンなんだから告白まがいなことなんて日常茶飯事でうんざりしてるだろうに。
深い意味はないと弁解した方がいいだろうか、でも下手に話せば逆に誤魔化しているように聞こえてしまうかもしれない。なんと言えば下手に伝わらないか悩んでいると、先に口を開いたのは六道くんの方だった。
「それなら、本当に付き合いましょうか」
「そうそう深い意味は……え?」
「今この瞬間から貴女は僕の彼女という訳です」
「いや、え? 六道くんどこからそんな話に……」
「骸、でいいですよ」
「む、骸くん? じゃなくて!」
私の名前をなぞるように紡ぎ、柔らかく笑う彼。何を考えているのか読み取れないその笑顔なのに。六道くんの綺麗な顔に流され、うっかり彼の名前を呼んでしまうくらいには翻弄されていた。彼も少し冷静になって欲しい、一体何がどうなって付き合うことになったの。
「骸さーん、こんなところにいたびょん!」
「ふらっといなくならないでください」
「おやおや、見つかってしまいましたか」
言葉に詰まっていると、不意に彼を呼ぶ声が耳に入る。くるりと彼が振り向いた先を目で追えば、友達であろう柿本くんと城島くんが道路の方から手を振っていた。六道くんはクッフフなんて不思議な笑い方をして彼らの方へと歩み寄る。
私は掛ける言葉も見つからずにその様子を眺めれば、忘れ物でもしたかのように此方へ振り返り戻って来た。私の肩までの髪を一束掬い、耳元で「ci vediamo domani」と呟きにっこりと笑う彼。その表情もまた、チョコを頬張った時とは違い何を考えているのかは読み取ることができなかった。そうして踵を返し、ひらりと手を振って彼らの元へ行ってしまう。
「え、ちょっと……なんて言ったの……」
言ってることは全くわからないのに、じんわりと耳に残る声と熱に反応する私の心臓。すぐに帰ってくれてよかった、きっと顔が赤く染まっているだろうから。……あまりにも都合のいいことばかりが起きすぎて、全部幻覚だったんじゃないかと思うほどだ。
視線を落とせば六道くんと一緒に食べたお菓子の空。先ほどのことが衝撃的で元彼に募らせていた怒りはすっかりと飛んで消えた。少しのしこりも残さずに。……これで従姉のお姉ちゃんの言葉に信憑性が出てしまった、あの恋はお遊びだったのかもしれないと。
「……帰ろう」
ここで考えたって答えはでない。ブランコのチェーンに掴まって立ち上がり、空いたお菓子の箱を袋に詰めてその場を後にした。
* * *
「おはようございます」
「お……はよ……え、六道くん?」
「骸でいいと言ったでしょう」
「あ、え、おはよう骸くん」
私の名前を呼び、さらりとそう告げる六道くん……もとい骸くん。多分六道くんと言っているうちは毎回訂正されそうなので素直に名前呼びに切り替える。ぼやぼやしながら歩いていた通学路、予想外のことで目が覚めた。もしかしなくても昨日のことは夢じゃなかったのだろうか。
「この匂い、昨日もいた女びょん。誰ですか骸さん」
「この女性は僕とお付き合いしている方です。……というか同じ学年でしょう、犬」
「骸さん……いつの間に」
「つい昨日のことですね」
……待って、お付き合いしていることにもつっこみたいのは山々なんだけど。その前に城島くんは匂いで私のこと認識したの、そんなに臭いか。ちゃんと毎日お風呂に入っているんだけどな。慌てて匂いを嗅ぐも自分ではわからない。そんな私を見てか、骸くんは袖で口元を隠し笑っているようにも見える。
「大丈夫ですよ、貴女はいい香りですから」
「なっ……ありがとう。じゃなくて!」
なんでしょうか、とでも言うようにわざとらしく顎に手を当て首を傾げる彼。イケメンはそんな姿も様になる、と頭の隅で思いながらも今はそうじゃないとその考えを振り払う。
「骸くん、付き合ってるって……」
「昨日そう言ったじゃありませんか」
「本気だったの!?」
「僕が冗談でそんな酷いこと言うとでも?」
「……デスヨネ」
やっぱり夢じゃなかったし、冗談でもなかった。いいんでしょうかこんなイケメンが相手でという気持ちと、好きでもないのに付き合うのかという気持ちがせめぎ合う。
……それよりも振られた日に別の人と付き合い始めるって私すごく節操のない女じゃん。でもあいつも好きな人できたって私のこと振ったわけだから……お互い様だろうか。そんなモヤモヤが頭の中を埋め尽くす。
それを知ってか知らずか。骸くんは「では、また放課後」と耳打ちをして二人と共に行ってしまった。
* * *
「さ、帰りましょう。千種や犬に見つかる前に」
「えっ、骸く……」
あっ、と思った時にはもう遅かった。まさかまだ沢山の人がいる放課後の教室で、堂々と誘われるなんて思ってもみなかったから。ちらりと此方へ向く何人かの視線。目は口程に物を言うとはよく言ったもので、それにどんな意味が含まれているかなんて相手の目を見ればよくわかる。
特に親しくない人からは、あの人と付き合ってなかったっけ、昨日別れたばかりじゃなかったっけなんて探るような視線。友達はニヤニヤしながらよかったね、なんて祝福するような視線。居たたまれなくなって視線を廊下に移せば……なんてタイミングの悪さだろう。元彼が目を見開いてこちらを見ていた。どうしてあんたがそんな顔するんだ、振ったのはあんただろうが。
視線をおく場所もなくなり、傍に立つ骸くんを見上げれば「行きましょうか?」と差し出される手。……急に手を繋ぐなんてと手を取ることを躊躇えば、その隙をついて一人が口を開いた。
「六道くん……彼女と付き合ってるの?」
興味を示す人とそうじゃない人が入り交じる少しざわついた教室で、クラスメイトの男の子は骸くんに問う。彼が声の主へと視線を移せば、先程までの笑顔が消えた。
「ええ、先日別れたとお聞きしたもので。僕からお付き合いを申し出ました。答えはこれで満足でしょうか」
「あ、あぁ……なんか悪いな」
「いえ」
これ以上相手に何か言う隙も与えず、骸くんはいたく冷静にそう答えた。そしてまた私の方へと振り向けば、表情を和らげもう一度手を差し出す彼。これ以上浴びる視線から逃げたくて彼の手に自分の手を重ねる。「いい子ですね」と私にだけ聞こえるように呟けば、彼に手を引かれ小走りで教室を飛び出した。
先程教室の外に姿が見えた元彼を見ないようにして。
「ちょっ、ちょっと、待っ……」
「おや、息が上がってますね」
「骸くん体力ありすぎ……」
廊下と階段を駆け、校門を抜けたところで骸くんに声をかける。私は既に肩で空気を取り込んでいるというのに、彼は息ひとつ乱れていない。そんなことってある?
膝に手を着いて呼吸を落ち着かせる。息を整えてから骸くんを見上げれば、額に少し汗が見えるものの涼し気な顔で待ってくれていた。
「えっと……ありがとう」
「何のことでしょう」
「さっき庇ってくれたでしょ」
「クッフフ、本当のことを言ったまでですよ」
普通なら人を庇うのは少なからず勇気がいることなのに。気取らず何事もなかったかのように告げる骸くんを見て、思わずどきりとした。私も大概単純な女なのかもしれない。
「さて、デートでも行きましょうか」
「デート!?」
「行ってみたいカフェがあるんですよ、男だけでは入りづらいでしょう」
「確かに……それなら喜んで」
「さ、手を」
もう人の目もないから手を繋ぐ理由なんてない。……だけど、差し出された手を断ることなんてできるわけがなかった。
* * *
それからは私も彼も放課後予定のない日はほぼ毎日一緒に帰った。カフェ巡りをしたり、キッチンカーを見かければ一緒に食べてみたり。休日なんかも待ち合わせして一緒に出かけることもあって、本当に付き合っているみたいだった。……みたい、と言うのは彼は付き合っていると公言はしているものの、私はまだはっきりそうだとは思えなかったから。
それでも骸くんは私に対して彼氏さながらの行動をとってくれていた。連絡先を交換してからは、頻繁ではないけど何でもないメールをやり取りしたり。私もそれを何の違和感もなく受け入れていた。
そんな日々を過ごす中で、もしかしてなんてある考えが頭を過ぎる。
私と付き合おうと言ったのは、気兼ねなくカフェ巡りなどをできる相手が欲しかったからではないだろうか。そこに恋愛感情なんてなくても、便宜上付き合うということはできる。
現に恋人らしいことと言えば、手を繋ぐこととカフェ巡りという名のデートくらいで。それ以上のことは何一つとしてしていない。
それに気づいた瞬間、ずんと心に鉛が落ちたような気持ちになる。もしかしたらたまたま公園にいた日、話をして丁度いいと思ったのかもしれない。……あの日そこにいたのが私じゃなくて、同じく甘いものが好きな人だったら誰でもよかったのでは。
こんなことを考えてショックを受けるなんて。私はもう既に、骸くんに対して取り返しのつかないところまで来ているのではないだろうか。
からりと、飲み終わったアイスココアの氷が溶けて音を立てた。
「どうしたんですか、ぼーっとして」
「え、いや……なんでも」
「貴女がそう言う時は大抵何かあるときですよね」
私のことを見透かすように、自身のカフェオレをストローでくるくると掻き混ぜながら真っ直ぐ見つめられる。いつもそう、彼の考えていることは私じゃ読み取れないのに。私の考えていることは些細なことでも骸くんに気づかれてしまう。
……今この気持ちに気づいた時が伝え時なのかもしれない。ただ彼の目を見て話す勇気は微塵もなくて、少し目を伏せて呟くように話した。
「……ねぇ、骸くん。私ただのスイーツ仲間じゃいられなくなるかも」
「ふむ。……と、言うと?」
「私、本当に骸くんのこと好きになっちゃうかもしれないよ」
「クフフ、今更ですか。是非そうなっていただきた……もうなっているのでは?」
「……っ」
「そもそも、僕は貴女をスイーツ仲間ではなく恋人だと思っているので。ようやく歯車が噛み合ったというわけですね」
俯いている私の顎を掬い、彼の方へと向かされればオッドアイの瞳に吸い込まれそうになる。
もう随分前からだ。彼の言葉に一喜一憂するのも、手を繋いで一緒に帰るのも、他愛もない話題でメールするのも、全部嬉しいのは。笑いかけてくれる彼の表情も、あの日庇ってくれた彼の言葉も全部。
……もうとっくに好きになっていたのに、私は気付かない振りをして心の奥へ押し込めていた。多分元彼のことがありそうさせたのだろう。そんなことさえも骸くんにはバレていたようだけど。
「さて、出ましょうか」
「え?」
「ひとつ先に進みましょう」
「どういう……」
お会計を済ませ、骸くんに手を引かれ少し薄暗くなった道を歩けばあの日彼と付き合うことになった公園に着いた。
彼がブランコの前にある柵のようなものに腰をかけると、私は骸くんの足の間へと挟まれる。今だけは私よりも少し目線の低い骸くん。すぐ近くで鼻腔をくすぐる彼の香りと、今までにない距離に心臓が駆け足で動いた。どうか、彼にこの音が聞こえませんように。
骸くんの大きな手が私の頬へと添えられ、ぱちりと目が合った。自分の気持ちを認める前と後では、彼の見え方が違っていて。じわりと顔に熱が集まるのを感じる。私の名前をなぞるように呼ぶ彼に思わず息を呑んだ。
「緊張しすぎでは?」
「だって……」
「取って食いやしませんよ」
ゆっくりと彼に引き寄せられそっと目を閉じれば、ついばむように重ねられた唇。それだけなのに、今にも心臓が破裂しそうだ。
「むくろ、くん」
「クッフフ、可愛いですね」
唇を離して目を合わせ、もう一度、今度は角度を変え少しだけ長い口付けを交わした。
―――――…
まさか、あれが最後の逢瀬になるとは思ってもみなかった。
その日またねと別れてから骸くんが登校してくることはなく、ぱったりと姿を消してしまったのだ。せめてもとメールを送れば『心配しないでください』と一言のみ。連絡がつかなくなってからもう一ヶ月半が過ぎた。
気持ちを伝えた途端に連絡がつかないなんて、やっぱり迷惑だったのかもしれないと嫌なことばかりが頭を過ぎる。……もしかしたら骸くんも離れていってしまったのかも。元彼の時は悲しみよりも怒りが上回ったのに、骸くんに対しては悲しさと虚しさで埋め尽くされた。
時間が経つにつれて、不安ばかりが大きくなるというのにこっちの気も知らず。翻弄するだけして、どうしてぱったりの消えてしまったの。何も言わず消えてしまうくらいなら、好きになんてなりたくなかった。
「本当に……ずるいよ」
用事のある日以外は毎日この公園に来る。もしかしたら会えるかもしれないなんて淡い期待を抱いて。……その期待は、毎回打ち砕かれているけれど。
殆どの日を一緒に過ごしていたからか、会えなくなったこの一ヶ月半は酷く長く感じて。今日もダメだったかと思えばじわりと熱いものが込み上げる。……但しそれを拭ってくれる手はない。
「あの……」
「え?」
私の名前を呼ぶか細くて可愛い声。でも私はこの声の主を知らない。袖で涙を拭い顔を上げれば黒曜中の制服を着た女の子が立っていて、その容姿に思わず目を見開いた。可愛さにも目を惹かれるけど……髪型が、あまりにも骸くんとそっくりだったから。
「わ、私に何か用ですかね」
「骸様が、ここに行ってって……」
動揺を隠しながらそう口にすれば、彼女の口から出てきたのは骸くんの名前。
骸くんを知っているのか、今彼はどこにいるのか、もう会えないのか。聞きたいことは山ほどあるけれど、そんなに質問されてもこの子も困るだろう。
「えと、骸くんのお友達ですか?」
「とも、だち……?」
そう問えば彼女は困ったような顔をして、目を伏せた。
「骸様は……私の大切な人」
どくんと、心臓が大きく脈打つのがわかった。もしかしなくても、可愛いこの子が新しい彼女なのかもしれない。嫌な予感とは当たるもので、今まで待っていた私はバカみたいじゃないか。目の前の彼女が骸くんを大切に思っているのであれば、逆もまた然りだろう。
骸くんと過ごした数ヶ月を思い出し、胸が締め付けられた。
「ご、ごめ……っ」
泣くつもりなんてなかったのに、知らない女の子の前で泣き出すなんて最悪だ。止めようと思っていても想像以上にショックだったのか、自分の意思をもっても止めることができない。袖で拭っても、涙腺が壊れたかのように溢れてくる。
これではこの子が困ってしまうと、ブランコから立ち上がり「ごめんなさい」と伝え踵を返したその時だった。
「ま、待って!」
「……っ」
制止する声に私の手首を掴む彼女の手。見るからに華奢な身体のどこにそんな力があるのか、手を振っても握りしめられた手が緩むことはない。知らない子だから強く振り払うわけにもいかないとしても、だ。
意思に反して落ちる涙に「お願いだから離して」と伝えても、頑なに手を離さず彼女は首を横に振る。
「どうして……」
「さて、どうしてでしょうか」
「……っ、むくろ、くん……?」
今までいた彼女に薄っすらとモヤがかかった瞬間、私の待ち望んでいた彼がそこにいて。あまりにも非現実的なことに驚きを覚えつつ、骸くんの姿に目を奪われた。
だけど先程の彼女のことを思い出し、今度は力いっぱい彼の手を振りほどこうとしたけれどびくともしなかった。
「おや、久しぶりに会えたというのに酷いではないですか」
「酷いのはどっちなの。……いきなり消えたと思ったら、新しい彼女までいて」
「彼女? なんのことですか」
「知らないふりしないでよ、さっきの可愛い女の子が……骸くんのこと大切な人だって……」
「ふむ、必ずしも大切な人イコール恋人にはならないと思いますが」
「そんなの……っ」
私の顎を掬い言葉さえも呑み込むように唇を重ねる。唇を離した隙に反論しようとすれば、また角度を変えて何度も塞がれた。こんなの初めてで、息苦しさから彼の服を掴めば確かにここにいる。それを実感し尚も涙は止まらない。
「僕は貴女にずっと会いたかったのですが、これでもまだ伝わりませんか?」
「私だって、会いたかったに決まってるじゃん……」
「あまり煽らないでください。泣き顔さえも愛しい僕の恋人」
そう紡ぐ彼の声色から、涙を拭う指先から、嘘ではないと何故か確信できた。そして骸くんに手を引かれベンチへと腰をおろし、小さい子供みたいに泣きじゃくる私を彼は優しく抱き締めてくれた。
「落ち着きましたか?」
「……ごめん」
「クフフ、謝ることはありませんよ」
会えたことにほっとしたのか、変わらず私を恋人だと言ってくれたからか。あんなに泣くなんて、恥ずかしさのあまり顔を隠した。今更でしょう、と彼は笑って見せるけど恥ずかしいことには変わりない。
指の隙間から彼を覗けば、私を見る彼の表情は先ほどとは打って変わって少し憂いを帯びていた。
「貴女には、少しお話しなければと思いまして」
「……?」
骸くんがぽつりぽつりと話し始めたのは、今現在置かれている状況。はっきりと言えないこともあるのだろう、かいつまんで話をしてくれた。
今はすぐに会える状態ではないこと、先ほどここにいた彼女を通さないとこうして話す事すらできないこと、何にとは言わなかったが私を既に巻き込んでしまっているかもしれないこと。骸くんと関わった以上、何かしら危険に晒されることがあるかもしれない。ただ先程いたのクローム髑髏という女の子が傍にいる限り私を守ってくれるとのことだった。
……普段の私なら到底信じれる話ではない。でも先程あの女の子が骸くんに変わる瞬間を目の前で見たから、彼の言葉を信じるには十分だった。
「自由に会えるのがいつになるかわかりません。一年か五年か、はたまた十年か」
「……」
「だから、僕のことを忘れて貴女の人生を生きてくだ」
「いや」
「何を……」
「だから、嫌だって言ったの」
口を思い切りへの字に曲げて怒れば、いつも余裕綽々な彼の初めて見る動揺した表情。
こんなに好きにさせておいて忘れろだなんてあまりにも身勝手すぎる。わざと骸くんにどすっともたれかかり、顔を逸らしたまま続けた。
「絶対忘れないし、ここまで好きにさせた責任とってよ」
「……本当に、敵いませんね」
私の頭に手を添え、優しく撫でる心地良さに目を細める。骸くんの温もりを感じるからこそ、暫く会えなくなるだなんて信じられない。彼の体温も、香りも、声も、全部ここにあるのに。
骸くんは「そろそろ、時間ですね」なんて小さな声でぽつりと呟いた。いまだによくわかってはいないけど、ここにいられる時間があるらしい。寄りかかっていた身体を起こし、彼の顔を真っ直ぐ見つめた。離れる前に、離れても自信を持てるように、どうしても聞きたいことがあったから。
「骸くんは私がやけ食いしてたあの日、私じゃない他の誰かでも話しかけてた?」
「僕もそんなに暇ではないので、それはありませんね」
「……そもそも骸くんは私のどこが好きなの」
「えっ」
こんなこと聞かれるなんて予想していなかったのか、口元を隠して目を逸らす。彼の顔が赤く見えるのは夕日のせいなのか、照れているからなのか。小さく咳払いをして改めて私と視線を合わせた。
「……犬みたいで、可愛いからです」
「……聞き間違いじゃないよね、いぬって」
「貴女は忘れているかもしれませんが、調理実習で団子を作ったこと覚えてますか」
「あ、そういえばあったかも」
「あの時僕がこっそりチョコを混ぜて作っていた団子を見つけて、内緒にするから一個だけと人の串から取って食べたでしょう」
「……そうだったっけ」
待って、私そんな恥ずかしいことしてたの。骸くんに対して。
食い意地が張っていた恥ずかしさから頭を抱える私の横で彼は続ける。僕のために作ったからと、下心が透けて見える女子が寄って来たのはよくあることだったけれど。貴女は媚びるような声も態度もなく、目の前のご飯に飛びつく犬みたいで可愛いなと思ったからです。と、彼の口から語られた。
一周回ってバカにしているようにしか聞こえないのは気のせいだろうか。聞きたいことは聞けたけど、喜んでいいのか怒ればいいのかわからないこの複雑な感情を抱えて行くことになるとは思いもしなかった。
「僕はラッキーだと思いましたよ、あの男が自ら貴女を手放してくれて。こうして私のものにできたのだから」
「むく……」
名前を全部呼ぶ前に、触れるだけの軽い口付け。それが再び来た別れの合図だった。彼の手を取り自分の手を重ね、頬を擦り寄せる。……この時間があまりにも名残惜しくて。
「骸くん、また……待ってるから」
「ええ、僕はいつでも貴女の傍に」
耳元でそう囁けば先程と同じ薄い霧に包まれた。次の瞬間に彼は消え、目を瞑ったままの女の子がそこに座っている。
手のひらに残る彼のその温もりを、忘れないように握りしめた。